コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第40話 「漢字と泰・越語(7)」

黄河流域で生まれた漢字「舟」に対し長江下流域の方言だった「船」の漢字のツクリ「エン」は?

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第40話 「漢字と泰・越語(7)」

タイ族・越族が住んでいた南方の地に特有のものを見てみましょう。たとえば象などは甲骨文字が生まれた黄河流域にはいなかった動物で、漢字文化は象の実物と出会ってこれを象形文字に表すしかてだてがありませんでした。発音はもちろん象のいる地域に住んでいた現地の人たちの音を借りたのです。象という字は日本の漢音でゾー、呉音でショー、ベトナム音でトゥオン、一方、象のいる地域に住むタイ人たちは、標準タイ語でチャーン、ラオス語でサーン、アホム語でジャンという言葉で象を呼んでいます。ベトナム語では象はヴォイと呼ばれ、苗語ではンツーと呼ばれています。象という漢字がタイ語系の発音を残していることは疑いのないところでしょう。ただ「ゾー」という発音に慣れ親しんだ日本人にとっては「ンツー」という苗族の言葉により親しいものを感じるのですが。

南船北馬という成語がありますが、『揚子方言』によりますと「船」という言葉は長江下流域の方言だったと言います。標準語としては黄河流域で生まれた漢字の「舟」が先行していました。船の字は右のツクリの部分が鉛とか沿とかの漢字のツクリが使われており、これは「エン」という発音を示すツクリです。ベトナム音で船はトゥエン、ベトナム語でも船はトゥエンで、また舟もトゥエン、ベトナム語では大小にかかわらず船一般はトゥエンと呼ばれ、おそらくベトナム語のトゥエンをもとに「船」という漢字が生まれたのは呉越の戦いが終わって越の国が長江下流域を制覇した紀元前5世紀あたりではなかったでしょうか。ベトナム人の先祖と目される越の国に敗れた呉の国は苗族の国であったと言われており、苗語では船のことを「ンコー」と呼びます。広東語に大型船を示す舟ヘンに「可」のツクリで構成される漢字が残っており、広東音で「ゴ」と発音しますが、もしかするとこの漢字のもととなったのは苗語の「ンコー」で呉の国が長江下流域を制覇していた紀元前6世紀あたりに生まれたものではなかったでしょうか。呉の国・越の国ともに船を表す自民族の言葉に基づく漢字をもっており、呉越の戦いで勝った方の漢字が今日の漢字の主流になったと考えるのも面白いことです。また同時に負けた国の漢字が地方の言語体系(広東語)の中にレッキとした独自の漢字の形と発音で残っているのも見過ごしにできません。やはり中国語という全体を網羅するものはラジオ・テレビの中だけにしか存在するものではなく、簡体字の体系は簡便な日常生活の道具とはなりえても文化的にはまったく無意味な体系であると断定してよいでしょう。むしろ広東語や潮州語、その他中国の各地の方言とその方言にしか残されていない独特の漢字に文化的な意味があるものと言えましょう。

さて蘇州の街の運河などでは太鼓橋のような橋の下を小船が行き交う情景が見られます。橋もまた南船北馬の船につきものの背景ですが、木ヘンに「喬」のツクリはこの漢字が形声文字であることを示し、橋を作りそれを利用している長江流域の現地民の言葉が発音に取り入れられたもののようです。ベトナム音でキエウ、広東音でキウ、日本の漢音ではキョーとK音が主流です。標準タイ語では橋はクメール語が入ってサパーンと呼ばれますが、北部のランナー語でクワ、雲南のタイ・ルー語でコー、ラオス語でキウ、とK音の言葉になっています。広東音とラオス語がキウという音で交錯するところが面白いでしょう。ベトナム語では橋をカウと言い、苗語ではチョーと言います。さきほどの呉の国・越の国で、ともに同じ「橋」という漢字を使いながら、呉の国の人はチョーと読み、越の国の人はカウと読んだと考えてみるのも面白いことです。

鶏は農家に欠かせない動物で、農耕を主な生業とする民族の間に伝承される民話の主人公である。「鶏」の漢字もその構成を見れば形声文字であることは疑いなく、ベトナム音でケ、日本の漢音でケイ、広東音でガイと読まれます。鶏はタイ語ではガイ、苗語でもガイ、ベトナム語ではガと呼ばれ、これらのいずれの言葉も鶏という漢字に先行する音声言語になり得る資格を持っていると言って良いでしょう。

どうです、漢字をこういう視点で眺めてみるのも面白いでしょう。しかし書き手としてはなかなか疲れることなのです。漢字については今回をもってひとまず休憩させてください。

関連記事

リニューアル公開への準備作業中

2023年2月下旬のリニューアル公開に向け、サイト再構成の準備作業中です。

カテゴリー

おすすめ記事

  1. 石寨山古墓群遺跡

    2002年3月掲載 雲南古代の滇王国とその青銅器文化の存在を2千年以上の時を経て実証した王墓群発見…
  2. 調査探求記「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)

    「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)第1章 雲南を離れてどれくらいたったか。…
  3. 馬 登雲

    2001年9月掲載 昆明の回族出身の革命活動家。1927年に共産党に入党し19歳で刑死  (191…
  4. コラム(江口久雄さん)「メコン仙人たより」 第12話 「倭国の遣使」

    コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」 第12話 「倭国の遣使」 〈前漢末期、倭の百余国によ…
  5. バー・モウ

    2000年10月掲載 ビルマ民族運動の先駆的指導者で、元ビルマ国家元首 バー・モウ 1893年~…
  6. 雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん)

    論考:雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん) 中国雲南省西双…
  7. メコン圏を描く海外翻訳小説 第16回「おとなしいアメリカ人」(グレアム・グリーン著、田中西二郎 訳)

    アメリカの対アジア政策を批判したものと受けとめられ世界的に話題となった、第1次インドシナ戦争中の…
  8. メコン圏を舞台とする小説 第1回「九頭の龍」(伴野 朗 著)

    メコン圏を舞台とする小説 第1回「九頭の龍」 「九頭の龍」 著書:伴野 朗  徳間文庫、199…
ページ上部へ戻る