コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第22話 「バラモン僧正」

8世紀、タミル人の仏僧ボーディセーナが、林邑国の仏哲という僧とともに来日し、後に僧正に任命される

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第22話 「バラモン僧正」

6世紀にベンガル地方に興った真言密教は、南インドのパッラヴァ王国にも広がり、8世紀にはナラシムハポータヴァルマン王がヴァジラボーディに就いて密教に帰依するほどになりました。また東南アジアではシュリーヴィジャヤが7世紀にはすでに密教の中心となり、そこから真臘や林邑に伝えられます。ヴァジラボーディはナーガボーディに密教を教わり、インドはもとよりスリランカ、スマトラ(シュリーヴィジャヤ)、さらには中国まで足を伸ばしています。スリランカでは今では小乗仏教の本山のようになっていますが、それでもヴァジラボーディは大乗の密教を伝えた仏僧として仏教史に名を留めています。

林邑国の仏哲という僧は、パッラヴァ王国に修行に赴いて、ボーディセーナという仏僧について仏教の勉強をします。ボーディセーナは呪法を行なうと評された人で密教の僧だったようです。またパッラヴァ王国の仏教は、先のボーディダルマの仏教に見られるような斬新かつ本質的なものとして、林邑国の若い修行僧をひきつけたのかも知れません。ボーディセーナは先のヴァジラボーディの渡唐よりほどなく仏哲を連れて中国に行きました。

このボーディセーナと仏哲と中国僧が、遣唐使の帰国船に乗って日本に来たのが736年。行基上人に迎えられます。ところでタミルと日本の関係は、6世紀にタミル人クドゥクルが百済使としてしばしば日本に来ており、タミル人とおぼしき楽団も日本に来ています。7世紀になると『日本書紀』に、筑紫の海で百済使が崑崙使を海に投げこんだという事件が662年のこととして見えます。「崑崙」は崑崙船という言葉にもなっており、僕はズバリ、タミル人のことではないかと考えています。7世紀中期は扶南が滅んだころで、もしかするとパッラヴァ王国の使節が筑紫の海まで来たのかもしれません。

そして8世紀にいたり、タミル人の仏僧ボーディセーナが日本に上陸したのです。ヒンドゥーのブラフマン階級の子に生まれたといわれるボーディセーナは、日本の仏教界でたちまち「バラモン僧正」の渾名を頂戴してしまいますが、ボーディダルマに始まる禅宗の仏教が、バガヴァット・ギーターの精神を色濃く宿していたり、またボーディセーナのようにブラフマン階級の者が仏教僧になるという、パッラヴァ王国の仏教はかなり闊達なものだったようです。このボーディセーナが行基の後を継いで、日本の仏教界最高位の僧正に任命されたのは751年のことでした。

翌年、東大寺の大仏開眼供養が営まれ、導師をつとめるボーディセーナは筆をとって大仏の目にひとみを入れ、筆から延ばされた長い絹のヒモには、聖武上皇をはじめ皇太后、天皇と日本の超VIPたちの手がつらなったのです。タイの仏教のセレモニーや、ヒンドゥー式の土地神の安置祭などで、白い糸を伸ばして参会者の手に握らせますが、ははあこういう感じのものなのだな、と類推することができます。ところで東大寺の大仏は釈迦牟尼仏陀ではなく、ヴァイローチャナ仏陀で密教の本尊です。密教僧でしかもブラフマン階級の出であるボーディセーナの存在がいかに大きかったのか、それとも日本の仏教界もまた密教を珍重する東南アジアの風潮をおくればせながら追っていたのか、ともあれボーディセーナによって日本の仏教は、東南アジアさらにパッラヴァ王国の仏教と同じ足並みで動いていたと言えるかもしれません。

林邑僧の仏哲は、雅楽として今に伝わる林邑楽をもたらしました。特異な装束を用い奇怪な仮面をかぶって跳舞する、と言われる林邑楽は、すべてインド起源の音楽で、一部に西域楽が入ると言われています。林邑楽の名は仏哲の出身地の林邑国にちなんでつけられたといわれていますが、僕は仏哲が自ら名づけたのではないかと考えています。8世紀の中頃、林邑国ににわかに異変が起こり、王都が今のベトナム中部から南部に移り転々とした後,、758年に至って中国人は林邑という国名を廃して「環王」という名前に変えています。これは742年にシュリーヴィジャヤが中国に使節を送った後、約150年間通交が絶えるのとあいまって、ジャワのシャイレンドラ王朝の勢力が及んだものと考えられますが、日本に在って林邑国の衰微・消失を知った仏哲が、林邑楽の名にその国名を永久に残そうと考えたのかも知れません(875年、チャム族の新王朝が成立しましたが、中国人はこれを占城と呼んで、林邑の名はついに復活しませんでした)。

関連記事

おすすめ記事

  1. 雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん)

    論考:雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん) 中国雲南省西双…
  2. メコン圏対象の調査研究書 第24回「海のシルクロード」中国・泉州からイスタンブールまで(文・辛島昇、写真・大村次郷)

    メコン圏対象の調査研究書 第24回「海のシルクロード」中国・泉州からイスタンブールまで(文・辛島昇、…
  3. メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第23回「メコン街道」母なる大河4200キロを往く(鎌澤久也 著)

    メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第23回「メコン街道」母なる大河4200キロを往く(鎌澤久也 著…
  4. メコン圏を舞台とする小説 第37回「陽はメコンに沈む」(伴野 朗 著)

    メコン圏を舞台とする小説 第37回「陽はメコンに沈む」(伴野 朗 著) 第37回「陽はメコンに…
  5. メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第15回「消え去った世界」あるシャン藩王女の個人史(ネル・アダムズ 著、森 博行 訳)

    メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第15回「消え去った世界」あるシャン藩王女の個人史(…
  6. 調査探求記「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)

    「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)第1章 雲南を離れてどれくらいたったか。…
  7. メコン圏に関する中国語書籍 第3回「云南境内的少数民族」(主编: 谢蕴秋、副主编: 李先绪,民族出版社)

    メコン圏に関する中国語書籍 第3回「云南境内的少数民族」(主编: 谢蕴秋、副主编: 李先绪,民族出版…
  8. メコン圏を描く海外翻訳小説 第8回「外人部隊 ディエン・ビエン・フーの黄金」(ダグラス・ボイド 著、伊達 奎 訳)

    メコン圏を描く海外翻訳小説 第8回「外人部隊 ディエン・ビエン・フーの黄金」(ダグラス・ボイド 著、…
  9. メコン圏が登場するコミック 第5回 「サイボーグ 009 黄金の三角地帯 編」(石ノ森章太郎 著)

    メコン圏が登場するコミック 第5回 「サイボーグ 009 黄金の三角地帯 編」(石ノ森章太郎 著) …
  10. メコン圏現地作家による文学 第13回「愛と幻想のハノイ」(ズオン・トゥー・フォン 著、石原未奈子 訳)

    メコン圏現地作家による文学 第13回「愛と幻想のハノイ」 「愛と幻想のハノイ」(ズオン・トゥー…
ページ上部へ戻る