論考論文・探求活動記「東南アジアの仏足石」(鈴木 峻さん)第2編「南タイ・スコタイ仏足跡探訪記」第1回

論考論文・探求活動記「東南アジアの仏足石 」(鈴木 峻 さん)
第2編  「南タイ・スコタイ仏足跡探訪記」 第1回 

鈴木 峻(すずき・たかし)
1938年8月5日、満州国・牡丹江市生まれ。1962年、東京大学経済学部卒業。住友金属工業、調査部次長、シンガポール事務所次長、海外事業部長。タイスチール・パイプ社長。鹿島製鉄所副所長。(株)日本総研理事・アジア研究センター所長。
1997年、神戸大学大学院経済学研究科兼国際協力研究科教授。2001年、東洋大学経済学部教授。2004年定年退職。その間、東京大学農学部、茨城大学人文学部非常勤講師。立命館大学客員教授。経済学博士(神戸大学、学術)。
2012年9月~2014年6月、タイ・ラオス、カンボジアに数次にわたり仏足石調査旅行。主な著書『東南アジアの経済』(御茶ノ水書房、1996年)、『東南アジアの経歴史歴史』(日本経済評論社、2002年)、『シュリヴィジャヤの歴史』(2010年、めこん)、『THE HISTORY OF SRIVIJAYA under the tributary trade system of China』(英文。2012年、めこん)、『扶南・真臘・チャンパの歴史』(2016年、めこん)、『THE HISTORY OF SRIVIJAYA, ANGKOR and CHAMPA』(英文。2019年、めこん)、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)

<注記>本著作分は、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)発刊以前に、著者ホームページで発表掲載されていたものの一部で、ホームページ閉鎖に伴い、著者より転載許可を得て再掲載されているものです。原文初出の主な時期は2010年代です。従来の発表文章などの延長が、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)の発刊に繋がっています。

南タイ&スコタイ仏足跡探訪記(2013年1月)第1回

2013年は新年早々1月3日~25日までタイに出かけた。その主な狙いはリストで作成したタイ各地に存在する680例(未知のものを含めるとこの倍くらいはありそうである)の仏足跡の探訪を今後どう進めるべきかのアイデアを得るためになるべく広く各地を歩いてみようということにあった。

しかし、途中で1月11日~13日にナコン・シ・タマラートで開催された”The Origin of Buddhism Spread in Southeast Peninsula”なる国際セミナーに参加することになり、その間、東北タイに行く時間が無くなってしまった。行った先はナコン・シ・タマラートを振り出しに、Sathing Phra, Songkhla, Satun, Trang, Phuket, Krabi, Surat Thani県西方のBan Ta Khunと、次いで北部に飛んでスコタイとシ・サッチャナライに行きそこで終わりになってしまった。スコタイからコンケーンにバスで(6時間)移動しようとしたが、体力的かつ時間的に無理なので今回はギブ・アップしてしまった。

1.南部タイ再訪

Sathing Phra(サティン・プラ)
南タイには何回も出かけているが仏足跡に的を絞っての旅は2度目である。

1月3日にバンコクにつき、翌日は両替や携帯電話の整備などで時間を使い、5日に朝6時50分のフライトでナコン・シ・タマラートに行く。ナコン・シ・タマラート国立博物館に直行し、セミナー用に持参した20冊の本(英語版)や小型スーツ・ケースなどを預け、ミニバスでサティン・プラに向かう。アノン館長がミニバスの始発地点まで送ってくれる。ここで出発間際のミニ・バスに乗ることができた。これを逃すと次は2時間後くらいになる。

サティン・プラの近くのパーコー(Pha Kho)寺院まで140バーツ(B)であった。時間は2時間ほどかかった。パーコーというのはもともとはPhra Khao(聖なる山)であり、古くから仏教寺院があった。それ以外にWat Chathing Phraもあるが、それはサティン・プラがシュリヴィジャヤ後期(三仏斉時代)の貿易港として栄えた全盛期(999年)に建設されたものである。パーコー寺は本通りから2Kmのど内陸にある。小高い山の上にある。当時はサティン・プラのあたりは陸続きではなく、いくつかの島に分かれていたという。

隋時代に煬帝の特使として赤土国に赴いた常駿の記録に「狼牙須国の山を西に望み」南に向かい「雞蘢島に達し、赤土国の領土に入った(於是南達雞蘢島、至於赤土之界)」とある。私は雞蘢島はどこか不明であると『シュリヴィジャヤの歴史』などに書いてきたが、このパー・コーの山はまさに雞蘢のような形をした小高い丘(100m足らず)であり、常駿の雞蘢島とはここだったのではないかと思い始めた。

このパー・コー寺には古い形の仏足石があり、Virginia McKeen女史の写真では自然石に刻まれたままの姿がみられる。(”Footprints of the Buddhas of this era in Thailand” Siam Society , 2004、p29)。今のパー・コー寺の本堂に置かれているものはそれをきれいに刻みなおしたものだろうか?


上の写真を見ただけでは仏足石は真ん中の単なるくぼみにしか見えないが、実際はきちんとした足型が彫られている。今のパー・コー寺は1500年代に建てられたというが、その前はもっと素朴なものであったと思われる。

Songkhla(ソンクラ)
5日の午後はパー・コーの付近で通りがかりのミニ・バスを待っているとほどなくやってきた。ソンクラまでは40Bであった。ホテルにまずチェック・インしてからと思い’Green Wold Palace Hotel’の名前を告げると、そこで降ろしてくれた。そこまではよかったがそのホテルの看板からホテルにたどり着くまでが大変であった。矢印は出ていて、100XXXと書いてあった。しかし100m先にはそれらしき建物が無いので、モーターサイ(オートバイ・タクシー)の爺さんを捕まえて、グリーン・ワールドを知っているかと聞くと「知っていると」と答えた。

それではと連れて行ってもらうと、路地みたいな道をクネクネと走って、それらしいホテルに着いた。見ると「Viva Hotel」と書いてある。中に入って聞くと、ここはグリーン・ワールドではないという。Agodaに前金を払っているのでこのホテルに泊まるわけにはいかない。仕方なしに、大通りに出て次のモーターサイのお兄さんに連れて行ってもらった。彼は何を勘違いしたのかKhao Sengという海岸通りに向かって走り始めた。

実はこのカオ・センこそは仏足跡が2箇あり、翌日私が行こうとした場所であった。カオ・センの海岸に着いたとき料金を聞くと30Bだという。私はそこで30B払ってから、「私はKhao Sengの仏足跡を見に来たので、そこまで連れて行ってくれ」といって日本で用意していった写真を見せた。それは大きな岩が横たわっており、その端面にこれまた巨大な仏足跡のようなくぼみのある写真であた。その根元には小型のお稲荷様のような祠が置いてあり、岩には紅白の布が巻いてある。

それをみてモーターサイのお兄さんは山のほうの道に乗り込み、海岸に見える其の巨大岩まで連れて行ってくれた。まるでトドが鎌首を持ち上げているような風情である。巨大岩の前のくたびれたようなジサマが私の旅姿である。これが仏足跡なら世界一といえるかもしれない。私はカオ・センには仏足跡が2箇あるという調査を信じて、これをNo.1と見立て、No.2を探そうとしたが手がかりはなく、あきらめてグリーン・ワールド・パレス・ホテルに行くことにした。朝から実は何も食べていないうちに午後4時ごろになっていた。

ソンクラではグリーン・ワールド・パレス・ホテルの名前をいうとみんなが知っていると答えるが、実はほとんど誰も知らなかったのである。同じ経験は翌々日のトラン市でもした。誰もがリ・ボン島に仏足跡があるといったが実は存在しなかった。一日無駄にすることになってしまった。しかし、誰にも悪意はなく、全員が「善意に満ち満ちていた」のである。

そこで、先ほどミニ・バスが降ろしてくれた場所まで行ったが、モーターサイのお兄さんは100m先には何もないと思ったか、よせばいいのに中年の一見賢そうなマダムに道を聞いた。そこでよしわかったとばかりソンクラ市の中心部を目指した。ついた先はソンクラではNo.2といわれるパビリオン・ホテルであった。大きなホテルだが薄暗くイマイチパッとしないホテルで私はここに以前泊まったことがあり、2度と泊まる気がしないホテルであった。私はドライバーにここではないんだといった。

彼も困り果てて近くにいたモーター・サイのたまり場の親分に聞いたら、その親分は懇切丁寧に道を教えてくれた。着いたところがはじめミニ・バスが降ろしてくれた看板のある場所であり、そこから100mほどのところで左折すると一番奥まったところにグリーン・ワールド・パレス・ホテルがあった。大きなホテルだがいかにもマネージメントが悪そうなホテルで無料のWifiもつながらず、風呂場も薄汚れていて、ドアの鍵も廊下側もベランダ側もかからない。私は鍵のかからない部屋には泊まらないといったら、さっそく直してくれた。付近にはレストランも屋台もなくどうにもならない陸の孤島的ホテルであった。ソンクラに泊まるならBP.サミラ・ビーチ・ホテルに限る。サミラ・ビーチには有名な人魚の像が岩の上に鎮座している。値段もリーゾナブルで1500B位だったと思う。ここはなぜかAgodaでは予約できないようだ。そういうホテルは時折見かける。

ところで、上の仏足跡だが、松久保先生は単なる自然石ではないかと疑念を持っておられる。一度実物を見ないと何とも言えないということである。確かにそうかもしれない。しかし、私には、自然石に村人が手を加えて仏足石(岩)に仕立て上げたとみたい。松久保先生の鑑定やいかにといったところである。

Satun(サトゥン)
1月6日はホテルでマズイ朝飯を食べ、そそくさとモーター・サイに乗りハジャイ(Hat Yai)行きのミニバス・ステーションまで連れて行ってもらった30B.そこからハジャイまで約1時間で女子学生らと一緒になった。彼女たちは途中で降りた。料金は何と28Bである。途中でザルが回ってきてめいめいが28B入れることになっている。タクシーで行くと600Bは取られる。公共機関の乗り物は飛行機以外はタイは実に安い。それでも自動車やオートバイがドンドン売れる。

ハジャイにつくと、そこは別の大規模なミニバス・ステーションがあり、サトゥン(Satun)行きの出発窓口もきちんと存在した。利用者が多いのである。サトゥン港からマレーシアにも行けるし、ランカウイ島など付近の島々に船が出ている。最近はあまり知られていなかった島までがリゾート地として怪しげな白人が出かけている。彼らは一様に腕や足の見えるところに入れ墨をしている。実際見ていて気持ちが悪い。顔立ちのいい娘さんも入れ墨をしている。

ハジャイからサトゥンまでのミニ・バス料金は80Bで2時間ぐらいかかった。コック・パヨムに行きたいと場所を告げると、その間近で下してくれる。そこにはモーター・サイの溜りがあり、さらに目的地まで送ってもらえる。サトゥンはその昔はケダーの一部と考えられていた。古代においてベンガル湾を渡ってきた船はブジャン溪谷にたどり着きムダ川やメルボウ川経由で内陸に荷物を運び、そこからさらに陸路を使って東海岸のソンクラ、パタニ、ケランタンに運んだと考えていた。

しかし、ブジャン渓谷からサトゥンまで行き、そこで荷物をおろし陸送すれば中継点のハジャイまでは平坦なほぼ一直線の道がある。このルートのほうが楽かもしれない。確かにサトゥンにはインド人のコロニーが存在したと見えて仏足跡が2箇リスト・アップされている。それ見に行くのが私の狙いである。リストによればKhok Phayomに2基ともある。サトゥンの市内からそう遠くはない。モーターサイの運転手(50歳くらい)に聞くとおよその見当はわかるので行ってみましょうということで奥地に進んでいく。道はきれいに舗装されていた。そのあたりの雑貨屋で道を聞くと「知らない」という答えが返ってきた。

店の人がいうにはこの辺の山は「ミネラル・ウォター」を採るためにいくつかきりくずされているという。サトゥンの沖のXX島に仏足石があると聞いているから港にいって聞けばわかるだろうという。そうかもしれないが時間がないので今回はあきらめた。途中のホテルで聞いても知らないという。仕方がないのでバス停にいって次の目的地トランに行こうと思って、大通りのモーターサイの溜り場に行き、念のためこの付近に仏足石はないかといったら、街中にあるという。その寺まで連れて行ってもらった。

町の真ん中にあるWat Chanatip ChlroemというSatun 最大の寺であった。寺男に聞くと確かにあるという。その建物にいったらドアに鍵がかかっている。近くの事務所に行きそこのメガネをかけたインテリ風のお坊さんに仏足石の写真を日本から取りに来たといって、ついでにタンブン(お布施)はどこでやればよいかと聞いたら、事務所の奥の仏間に通してくれた。そこに100バーツおいてきた。坊さんは外に出て寺男を呼び鍵を開けるように指示してくれた。話はスムーズである。

そこに納められていたのは2m弱の4段の仏足跡であった。これは4Roi (シー・ロイ)と称されるものでつま先を見るとそこが4段になっている。シー・ロイとはいえ小型のものであり、近世の作である。私が見たかったのは古代の自然石に刻まれた仏足跡であったが、この写真をとれただけでも大満足である。狙いにしていた2個のうち1個の写真がとれたのだからいうことはない。

次に近くの大通りに出てトラン行きのバス・ステーションまでモーター・サイに乗っていく。比較的近距離だったが40バーツとられた。バスが12:15に出る直前の12:05分に着いた。切符売り場で137バーツ支払い、バスに飛び乗った。近くの売店には駄菓子と水しかなく、またもや昼飯抜きで3時間かけてトランまで行く羽目になった。ともかく目的地に着くのが最優先であり、すき腹のことなどはほとんど気にならない。

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