メコン圏現地作家による文学 第15回「業の罠」(ドゥアンチャイ 著、吉岡みねこ 訳)

メコン圏現地作家による文学 第15回「業の罠」(ドゥアンチャイ 著、吉岡みねこ 訳)


「業の罠」(ドゥアンチャイ 著、吉岡みねこ 訳、(財)大同生命国際文化基金)
【タイ人女性作家】1971年末~73年前半のタイで大学政治学部長を主人公とする、タイ人女性大学教員による1974年刊行小説「ブアン・カム」の邦訳

 財団法人大同生命国際文化基金の事業の一つに、アジアの現代文芸作品の翻訳出版事業があり、これまでにタイ、ベトナム、ミャンマー、カンボジア、ラオスなどアジア11カ国の現代文芸作品の翻訳出版44冊が刊行されてきたが(2005年12月現在)、この事業の最初の作品が、1986年3月に刊行されたプラトゥムポーン・ワッチャラサティアン(ペーンネーム:ドゥアンチャイ)著作の翻訳書である本書だ。

日本語翻訳出版当時、タイの名門大学チュラーロンコーン大学の政治学部教授プラトゥムポーン・ワッチャラサティアン女史による原著書のタイトルは、邦訳名「業の罠」そのままの『BUANG KAMM』で、初版1974年で、同年度(1974年度)タイ国家図書開発委員会文学賞優秀賞作品。

 本書の男性主人公は、国家高等教育開発計画の一環として創設された、バンコクで最も新しい国立の高等教育機関という設定のプラナコン大学の政治学部教授ウィワット・ウィッタヤー博士。本書の書き出しは、ウィワットが、ニューヨークで開かれていた国連主催のセミナーに参加していた時に、タイでの政変と政治学部長の突然の異動で、急遽予定を早めてバンコクに戻らねばならなくなり、その前に思い出の地であるフィラデルフィアのペンシルベニア大学を訪れる場面から始まっている。このタイでの政変とは、1971年11月17日に起こった時の首相タノーム・キティカチョーン元帥による軍政復帰クーデターで、本作品は、1971年11月から、1972年12月19日、第32次タノーム内閣成立を経て1973年10月の学生革命が起こる前の時代を背景にして物語が展開する。

 本書は、「訳者あとがき」に記されているように、大学という高等教育の場を舞台にして、大きく2つのテーマを掲げた作品で、そのひとつ、「公」のテーマは、国家発展の変遷期にあるタイ国が包含する諸問題を、特に大学教育の開発という角度からとらえて、読者にタイ国の現実を見つめさせるというもの。古参格だった現職の政治学部長の突然の辞職による学部長選挙でプラナコン大学政治学部の新学部長として選出された38歳のウィワットを軸に、他の大学教員たちや学生たちを絡ませながら、このテーマを浮彫りにしている。本書巻頭には、原著者から「日本の読者へ」という文章が掲載されており、その中に以下のような記述がある。

  ”・・私は『業の罠』の第1章を1972年に書き始めました。本書にもし、副題をつけるとすれば『学部長』としたでしょう。当時のタイ国と申せば、行政上の問題をはじめ、政治イデオロギーの相剋等、高等教育機関が思想の葛藤の場と化しているときでした。そして、その中で学生たちもまた、主要な役割を果たした時代でした。高等教育機関の一員を成す私は、当時の状況を注意深く静観し、現実に今、何が起こっているのか、その”突出部”の局面を小説という形式をとってしたためずにはいられませんでした。・・・・”

 もうひとつのテーマは、男性主人公ウィワットと13歳年下の女性主人公レワディーとの愛の展開だ。妻子があるウィワットが、博士号取得で留学していたアメリカで、柔らかな巻毛で目鼻立ちの整った若く美しい米国留学中のタイ女性レワディーとの交際が始まり、2人がタイに帰国後も、ウィワットと、バンコクにある国際機関に就職したレワディーとの交際は続く。2人の関係に、作家であるウィワットの妻ピムパーは悩み苦しむ。

 民主主義と大学行政、学者の社会的位置、特に政治学者としての研究と政治や社会の現実課題への対応、学界における海外留学問題、大学教育における教師と学生、学生運動などについて、当時のタイの問題やタイ人の考え方などを色々と知ることができるが、他にもウィワットの妻レワディーが作家という設定で、タイ社会における文学の意義と文学者の位置の問題も提起し、またレワディーの幼馴染でウィワットと同じ大学の政治学部教師のマリンカーを通じて、海外留学の問題だけでなく、女性の大学教員という位置の問題にも触れている。海外留学をし女性の大学教員で政治学者であり作家であるという原著者の経歴からすれば、こうしたテーマ設定は至極自然であろう。

 尚、1971年11月のタイ軍政復帰クーデターの時期から本書ストーリーが始まっているが、革命団議長による革命を起こした第一の理由が、共産主義中国の国連加盟という出来事が、タイ国内に居留する多くの華僑に影響を及ぼし、ひいてはタイ国自体に間接的に危険をもたらす可能性があったからと語られてもいるが、本書では、ウィワット教授は、”彼自身の経験と知識から判断すると、自国、タイ国は華僑問題よりもっと差し迫った多くの重要な問題に直面している。この華僑問題はことさら革命という挙に出なくても解決できるはずだ。しかし、国の行政者はどういうわけか、国が今かかえている多くの問題の解決方法を見落としている・・”と思っている。

著者紹介:ドゥアンチャイ Duang Chai (本名 プラトゥムポーン・ワッチャラサティアン)1943年生まれ。1965年、チュラーロンコーン大学政治学部国際関係科卒業。1965~1966年、アメリカ合衆国ペンシルベニア大学に留学。1966年、国際関係科修士号取得。帰国後、チュラーロンコーン大学政治学部国際関係科教師。1970年、オランダ政府奨学金により、ハーグ社会科学研究所で国際関係を研究。チュラーロンコーン大学政治学部国際関係科助教授に任命される。現在、チュラーロンコーン大学政治学部教授兼同大学アメリカ研究プログラム研究所副所長。加えて、ラジオのニュース解説者(『News Commentaries』も務めている。主な作品に、『女性大臣』(1976年、国家図書開発委員会文学賞優秀賞)、『愛しい我が子プックへ、母からの手紙』、『都会のねずみ』、『心の奥深く』等の秀れた長・短編小説があるほか、学術専門書や政治評論、随筆、海外見聞に基く紀行随筆(『ニュージーランド』等と、幅広い著作活動を続けている。またペンネームは、作品の内容によってそれぞれ使い分けられている。(本書著者紹介より、本書発行時)

訳者紹介:吉岡みね子
1948年、長崎市に生まれる。奈良女子大学文学部英米文学科卒業。1971年社団法人日泰貿易協会に勤務、同協会機関誌『タイ国情報』編集人(この間1981~83年バンコク日本人学校教諭)。”The Pan Pacific and Southeast Asia Women’s Assn. of Thailand”(在バンコク)及び”Siam Society”(在バンコク)会員。関西タイ国留学生会顧問。主な翻訳に『サーラピーの咲く季節』(スワンニー・スコンター著、段々社)があるほか、新聞等にタイ関係の寄稿も多い。(本書訳者紹介より、本書発行時)

目次:

日本の読者へ メッセージ ビチエン・ワタナクン (駐日タイ王国特命全権大使)
訳者紹介 矢野 暢(京都大学教授)
業の罠

第1章  変遷期
第2章  ラベンダー色
第3章  学部長
第4章 鎧
第5章 舞台裏
第6章 新年
第7章 揺らぎ
第8章 淵
第9章 兆し
第10章 チェンマイ
第11章 挑戦
第12章 火焔
第13章 虚構

訳注
訳者あとがき

■関連テーマ
●1971年タイ軍政復帰クーデター
●中国の国連加盟
●日本製品非買運動

■ストーリー展開場所
・タイ(バンコク、チェンマイ、ラッブリー)、・アメリカ(フィラデルフィア、ニューヨーク、ペンシルベニア)
■ストーリー展開時代
1971年11月~1973年前半

■主な登場人物たち
・ウィワット・ウィッタヤー (プラナコン大学政治学部教授)
・レワディー・プーンシリ
・ピムパー・ウィッタヤー(ウィワットの妻で作家)
・チャイサック・ケーウラム
・バンチョッブ(医者)
・マリンカー・ウィッタウォン(レワディーの幼馴染でプラナコン大学教師でウィワット政治学部長秘書)
・ヌット(ウィワットとピムパーの娘)
・スラチャイ(プラナコン大学の古参教師)
・タゥイー(プラナコン大学の古参教師)
・ウィパーウィー(プラナコン大学政治学部外国語担当教師)
・カセート(プラナコン大学教師)
・ルーチャー(プラナコン大学学生で政治集会の議長)
・バンルー・ピニッチョープ(プラナコン大学政治学部学生)
・ウマー(作家協会委員でピムパーの親友)
・ソンシー・パースック(マリンカーと同室の大学教師)
・ナイジェル (ニュージーランドの海軍将校)
・ロジャー・グリーン(イギリス外務省役人)
・ティアンおばさん(タイ人)
・シャーウッド・マーサー(レワディーの米国留学での寄宿先)
・ウォルターお爺さん(フィラデルフィア)・ウィチャイ(プラナコン大学教師で前政治学部長の秘書)
・レワディーの母親
・レワディーの父親
・ワンニー(レワディーの兄嫁)
・プローム婆さん
・プローム夫人の息子
・プラチャック医師
・ニッパーダー(ヌットの友達)

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