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メコン圏と日本との繋がり 第13回 ファン・ボイ・チャウが建立した「浅羽佐喜太郎公記念碑」と常林寺(静岡県袋井市梅山)」
- 2024/8/20
- 企画特集, 関連世界への招待「メコン圏と日本との繋がり」
- 浅羽佐喜太郎, 潘佩珠
メコン圏と日本との繋がり 第13回 ファン・ボイ・チャウが建立した「浅羽佐喜太郎公記念碑」と常林寺(静岡県袋井市梅山)」
(写真上:「浅羽佐喜太郎公記念碑」案内板(静岡県袋井市梅山)<*2024年7月25日午後訪問撮影>
袋井市指定文化財 浅羽佐喜太郎公記念碑(あさば さきたろう こう きねんひ) (1998年7月31日指定)
この石碑は、かつてフランスの植民地であったベトナムの、独立運動の指導者 潘佩珠(ハンボイチャウ)が、自分たちのために私財を投じて援助してくれた浅羽佐喜太郎に対し、追慕の思いとベトナム独立の悲願を込め、1918年(大正7)に東浅羽村(ひがしあさばむら)の人々の温かい支援を得て建立されたものです。
浅羽佐喜太郎は、1867年(慶応3)に梅山八幡神社の神主家に生まれ、帝国大学医科大学(東京大学医学部)卒業後、小田原に浅羽医院を開業し、そこで密航してきた潘と出会います。佐喜太郎は病棟の一室を提供し、彼らの活動に対し経済的援助をはじめ、さまざまな支援を行いました。
しかし、フランスの弾圧は厳しく、日本政府は潘たちベトナム人留学生の国外退去を命じ、1909年(明治42)には潘も日本を去ります。翌年、佐喜太郎は43歳の若さで亡くなり、2人は2度と会うことはできませんでした。
1917年(大正6)潘は密かに日本を訪れ、佐喜太郎の死を知ります。翌年、彼は、浅羽家の墓所のある梅山の地に石碑建立のため訪れ、東浅羽村村長の呼びかけに応じた村人の協力を得てこの記念碑を完成しました。 袋井市・袋井市教育委員会
*(右写真)浅羽佐喜太郎
*(中写真)ベトナム王子 彊㭽殿下(左)と潘佩珠
*(左写真)「浅羽佐喜太郎紀念碑」建立(大正7年3月)(前列右から2人目:潘佩珠)
(写真下:「浅羽佐喜太郎公記念碑」表面(静岡県袋井市梅山)<*2024年7月25日午後訪問撮影>
浅羽佐喜太郎公記念碑 (表面・碑文原文)
予等以國難奔扶桑公哀其志拯於困弗冀所 酬蓋古之奇俠也嗚呼今竟無公矣蒼茫天海 俯仰誰訴爰泐所感于石銘曰
豪空古今義亘中外公施以天我受以海 我志未成公不我待悠悠此心其億萬載
戊午春 越南光復会同人謹誌 大杉旭嶺鐫
【碑文読み下し】
予等(よら)国難(こくなん)を以(もっ)て扶桑(ふそう)に奔(はし)る。公其(こうそ)の志(こころざし)を哀(あは)れみ困(くるしみ)を拯(すく)ふ。酬(むく)ゆる所(ところ)を冀(こひねが)はず。蓋(けだ)し古(いにしへ)の奇侠(ききょう)なり。嗚呼(ああ)今(いま)竟(つひ)に公(こう)は無(な)し。蒼茫(そうばく)たる天海(てんかい)に俯仰(ふぎょう)し誰(だれ)か訴(うった)えん。爰(ここ)に感(かん)ず所(ところ)を石(いし)に泐(ろく)す。銘(めい)に曰(いは)く、
豪(ごう)たるは古今(ここん)に空(か)き 義(ぎ)は中外(ちゅうがい)に亘(わた)る 公(こう)の施(ほどこ)すは天(てん)の以(ごと)くし 我(われ)の受(う)くは海(うみ)の以(ごと)くす 我(わ)が志(こころざし)未(いま)だ成(な)らざるに 公(こう)我(われ)を待(ま)たず 悠悠(ゆうゆう)たるや此(こ)の心(こころ) 其(そ)れ億万載(おくまんさい)
戊午春(ぼごしゅん)越南光復会(えつなんこうふくかい)同人(どうじん)謹(つつし)んで誌(しる)す 大杉旭嶺鐫(ほ)る
【碑文略解】(立教大学教授 後藤均平氏訳)
われらは国難のため扶桑に亡命した。公はわれらの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき 義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ 海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。
悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。大正七年三月 越南光復会同人
(写真下:「浅羽佐喜太郎公記念碑」裏面(静岡県袋井市梅山)<*2024年7月25日午後訪問撮影>
浅羽佐喜太郎公記念碑 (裏面)
大正七年三月 賛成員
岡本三治郎 岡本節太郎 浅羽義雄
静岡県袋井市梅山の常林寺に建つ「浅羽佐喜太郎公紀念碑」は、ベトナムの民族運動家で20世紀初頭の東遊運動を主導した潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ、1867年~1940年)が、東京で活動していた潘佩珠や日本に入国していたベトナム人留学生たちを、かつて支援してくれた、東浅羽村出身で小田原で開業医をしていた浅羽佐喜太郎(1867年~1910年)への生前に受けた恩に報いるため、1914年から1917年春までの広東での監獄収監から釈放後、1917年に密かに再来日し、1918年(大正7年)3月、東浅羽村を訪れ、東浅羽村の人々の協力を得ながら建立した石碑。浅羽佐喜太郎は、慶応3年(1867年)3月、遠江国山名郡梅山村(現・静岡県袋井市梅山)に生まれ、帝国大学医科大学を卒業後、前羽村(神奈川県小田原市)に浅羽医院を開業し、物心ともに地域の人々を支えた篤志家で、1907年(明治40年)の春、単独で日本に入国したベトナム人留学生の阮泰抜が路頭で行き倒れになり苦しんでいたところを助けたところから、東遊運動の志士たちとのかかわりが始まるが、浅羽佐喜太郎は、潘佩珠がフランスの圧力で国外退去命令を受け1909年3月に日本を去った翌年の1910年9月25日に、43歳で病死。
「浅羽佐喜太郎公紀念碑」が建立されてから、100年目に当る2018年に、この節目の年を記念して、浅羽佐喜太郎と潘佩珠の特別展「浅羽佐喜太郎公碑建立100年特別展」が、静岡県袋井市近藤記念館(静岡県袋井市浅名1021番地/袋井市郷土資料館に併設)にて、2018年(平成30年)7月3日から同年11月30日まで開催。主催は、静岡県袋井市歴史資料館(歴史文化館・郷土資料館・近藤記念館)で、共催は浅羽佐喜太郎公碑建立100周年記念事業実行委員会。この「浅羽佐喜太郎公建立100年特別展」パンフレットが、静岡県袋井市歴史文化館により編集・発行されている。この特別展パンフレットでは、長年、存在が地元でも忘れられていた、潘佩珠の自伝『自判』に記載された「浅羽佐喜太郎公紀念碑」が1968年(昭和43年)に梅山常林寺にて確認されて以降、広く世の中に知られていくようになるが、浅羽佐喜太郎と潘佩珠が広く知られるようになるまでの研究史が、”「報恩の碑」を歴史の舞台に載せた人々”として、まとめられていることは注目に値する。潘佩珠『自判』には、浅羽佐喜太郎公記念碑」建立の経緯について記されており、この「自判」は、潘佩珠が石碑建立後に自ら記載した、浅羽佐喜太郎との交流を示す唯一の史料。
当時の天皇、皇后両陛下(現上皇ご夫妻)が、前年の2017年(平成29年)にベトナムを訪問された折、浅羽佐喜太郎と潘佩珠の交流に感銘され、2018年(平成30年)11月27日には、私的旅行として、常林寺の浅羽佐喜太郎公紀念碑を訪問。2020年5月11日には、このことを記念して、常林寺に、この天皇皇后両陛下行幸啓碑が建てられている。父親の浅羽義樹(1835年~1912年)についても、なかなか詳しい紹介もあり、浅羽佐喜太郎の家系図、浅羽義樹・浅羽佐喜太郎の年譜も掲載されている。浅羽佐喜太郎が生まれた梅田村(袋井市梅山)の浅羽家は、浅羽地区では最も格式が高い梅田村八幡宮(常林寺から数百メートルの距離の現在の梅山八幡神社<静岡県袋井市梅山>)の宮司を世襲し、神祇管領を務める京都吉田家から神主としての訴状を受ける家柄。浅羽佐喜太郎は、慶応3年(1867)、浅羽義樹の長男として生まれ、姉との二人姉弟で。8歳まで梅山の祖母の家で過ごし、常林寺にあった梅田学校で幼少時に学び、以後、父の住む東京へ出て、東京で進学する。
尚、慶応3年(1867年)3月に生まれた浅羽佐喜太郎の出生地は、遠江国山名郡梅山村(現・静岡県袋井市梅山)となるが、東浅羽村出身とも紹介され、また、潘佩珠が1918年3月に浅羽佐喜太郎の石碑建立に訪れた東浅羽村(ひがしもあさばむら)は、1889年の町村制の施行により静岡県山名郡東浅羽村が発足している。その後、1896年に所属郡が変更し、静岡県磐田郡東浅羽村に変更。この東浅羽村は、その後、1955年3月に隣接村と合併し浅羽村が発足し東浅羽村は廃止。1956年に町制となり浅羽村が浅羽町となったが、2005年4月1日、袋井市と合併し、浅羽佐喜太郎公紀念碑の建つ常林寺の住所も、現在は、静岡県袋井市梅山となっている。
(写真下:「浅羽佐喜太郎公記念碑」がある常林寺(静岡県袋井市梅山)<*2024年7月25日午後訪問撮影>
(写真下:浅羽佐喜太郎が幼少時に通った梅田学校の跡を示す碑(静岡県袋井市梅山)<*2024年7月25日午後訪問撮影>
梅田学校跡の碑の木の後ろに見えるのが、「浅羽佐喜太郎公紀念碑」
(写真下:梅山八幡神社(静岡県袋井市梅山)<*2024年7月25日午後訪問撮影>