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論考論文・探求活動記「東南アジアの仏足石」(鈴木 峻さん)第3編「タイ西部・中部・北部 仏足跡探訪記」第3回
- 2026/5/14
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- ウ・トン, ウ・トン王, スパンブリ, ナコン・サワン
論考論文・探求活動記「東南アジアの仏足石 」(鈴木 峻 さん)
第3編 「タイ西部・中部・北部 仏足跡探訪記」 第1回、第2回、第3回
鈴木 峻(すずき・たかし)
1938年8月5日、満州国・牡丹江市生まれ。1962年、東京大学経済学部卒業。住友金属工業、調査部次長、シンガポール事務所次長、海外事業部長。タイスチール・パイプ社長。鹿島製鉄所副所長。(株)日本総研理事・アジア研究センター所長。
1997年、神戸大学大学院経済学研究科兼国際協力研究科教授。2001年、東洋大学経済学部教授。2004年定年退職。その間、東京大学農学部、茨城大学人文学部非常勤講師。立命館大学客員教授。経済学博士(神戸大学、学術)。
2012年9月~2014年6月、タイ・ラオス、カンボジアに数次にわたり仏足石調査旅行。主な著書『東南アジアの経済』(御茶ノ水書房、1996年)、『東南アジアの経歴史歴史』(日本経済評論社、2002年)、『シュリヴィジャヤの歴史』(2010年、めこん)、『THE HISTORY OF SRIVIJAYA under the tributary trade system of China』(英文。2012年、めこん)、『扶南・真臘・チャンパの歴史』(2016年、めこん)、『THE HISTORY OF SRIVIJAYA, ANGKOR and CHAMPA』(英文。2019年、めこん)、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)<注記>本著作分は、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)発刊以前に、著者ホームページで発表掲載されていたものの一部で、ホームページ閉鎖に伴い、著者より転載許可を得て再掲載されているものです。原文初出の主な時期は2010年代です。従来の発表文章などの延長が、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)の発刊に繋がっています。
タイ西部、中部、北部 仏足跡探訪記(2013年4月28日~5月9日)第3回
2013年4月30日 レンタカー運転で、カンチャナブリから、ウ・トンを目指し、その後、スパンブリで宿泊
昼飯をカンチャナブリの川沿いのレストランで食べて、そこでブンヤリットさんとお別れして、いよいよ一人旅の出発である。目指すは古都ウ・トン郊外にある有名な Wat Khao Di Salakである。順調にいけばカンチャナブリから1時間半もあれば悠々行けたはずであった。ところが最初から道を間違えてしまい、30分も無駄な道を走り、往復1時間もロスしてしまった。本来国道の番号をしっかり記憶に入れていれば間違いないようなところであった。
どこを通ってもいけるはずだと高をくくっていたのが間違いのもとであり、少し走ってからでも車を止めて地図を確認すべきだった。それでもようやく本来の道に戻りウ・トンを目指した。ウ・トンについてから道が2又に分かれており、逆の方向に行ってしまった。途中までカオ・ディ・サラック行きの道路標識がありながら、肝心の2叉路でそれがないというのもひどい話である。こういことはその後あちこちであった。道路標識を作った人の親切心の欠如である。戻って道を聞きながらカオ・ディ・サラックを目指したが、これも左折すべき肝心なところで道路標識が突如タイ語の小さい文字に代わってしまう。また行き過ぎて、Uターンしてしばらく走りふと前方右手の山の方を見ると頂上に仏塔が見えてくる。そこにどう入るべきかがわからず、たまたま道端で立ち話をしていた中年のご婦人に聞くとすぐ後ろに道があり、そこをまっすぐ行くと山のてっぺんまで行けるとのことであった。
現場に着いたのは午後4時少し前で、3時間もかかってしまった。参拝客は誰もいない。近くでこの寺の管理人と思しき若いご婦人が草むらで子どもと遊んでいた。いい生活である。お堂に入ると、幸い西日があたり、仏足跡が一番美しく見える時間であった。ウ・トンの田園風景は美しく、静かであった。下の右の写真に写っている影は2体の仏像の影である。ウ・トン王は1351年にアユタヤ王朝を開いた。この仏足石はおそらくその前後に作られたものであろう。凸面状の足底は塗料で見えないが、小さな円形の吉祥紋が108個付けられている。法輪系のものやコインのような文様などさまざまである。サイズは1.18mx0.79mであり。(VirginiaMcKeen. p60)



次はスパンブリまでいってホテルを探さなければならない。5時半ごろ市内に入ったが、ホテルらしきものが見当たらず、たまたま国道に近いところのKhum Supanとかいう大きなホテルがあり、そこに泊まることにした。部屋にはシャワーだけでWifiはロビーでしか使えない。朝飯付きで1000Bであった。部屋に入ったのが6時すぎであり、疲れ果てて翌日は休みにしようと思い、アユタヤで待っていてくれる友人にアユタヤには行けそうもないと電話を入れた。アユタヤでも仏足跡を見に行くつもりだったが、すでに運壽純平氏が主な仏足跡は撮影して送ってくれていたので、後日アユタヤに行って残りを見に行くこととにして次のナコン・サワンを目指すことにした。アユタヤまでいったん戻ってしまうと、そこから先に行く気力が失せてしまう心配もあった。それだけ、最初からタイの道路にはてこずったともいえる。
翌朝の朝飯はひどいものであった。今回タイで泊まったホテルでは最低であった。それでも1000Bで雨露をしのげたのだから文句は言えない。シャワーを浴びて、冷房の効いた部屋で眠れるだけで大満足である。近くの通りに面した大食堂で晩飯を食べたが、オカマの中年男が注文を取りに来たのにはゾッとした。ここにも「男女雇用機会均等法」みたいなものがあるのだろうか?
2013年5月1日 レンタカー運転で、スパンブリから、ナコン・サワンに向かい宿泊
5月1日はスパンブリで休養しようと思ったがホテルの居心地が芳しくないので、先に進みナコン・サワンまで行くことにした。町中に入ると大通りに面したこぎれいなホテルがあったのでそこに泊まることにした。Aramis Hotelに昼頃チェック・インして近くのレストランでバーミーナムを食べ、ホテルで昼寝をする。このホテルのレストランは朝飯しか出さない。午後3時ごろ起き上がって地図を頼りに市内に2か所あることになっている仏足石を見に行く。一つは名刹Wat Khiri Wongである。さんざ道に迷った挙句、山の上の本堂に着いたら既に夕刻で扉が締まっており、翌朝再訪することにした。
2013年5月2日 ナコン・サワンの仏足跡を訪ねた後、カンペンペットを目指すが、予定外のメーソットに宿泊
5月2日は朝食を早めに済ませ、再訪すると今度は開いていた。やや底が深い仏足跡である。私はすっかり気分をよくして仏像の前で正座したところを写真にとってもらった。首にかけているのはカンチャナブリの奥地のSangkhlaburi Wat Wang Wiwakarm寺で買い求めたガラス玉の数珠である。安全を願ってその後もいつも首にかけていた。こういうものを首にかけてシカツメらしい顔をするのは生まれて初めてである。家にも数珠などおいてない。この近くの寺にも仏足跡があるというので行って見たが山上のお堂には鍵がかあっており、人気もないので仕方なく、次のカンペンペットを目指した。

下の写真はFine Arts Department のコン・ケーン代表のジャルックさんが撮影して送ってくれた(2014-5-31)ナコンサワンのWat Woranat Banphut=Khao Kopの仏足跡である。2面ともそうらしい。升目模様がついており、スコタイのリータイ王が1375年に設置したものという。Wat Woranar Banphutは町から近い海抜186mの小高い山の上にある。私はそれを見過ごしてしまった。


本当はKhampheng Phetの博物館にでも寄ってから、そこでさらに1泊しようと思っていたが高速道路からカンペンペットへの降り口が見つからず、Tak(ターク)の近くまで来てしまった。するとメー・ソット行の標識が目の前にあった。そこでメーソット(Mae Sot)まで100Km以上を一気に行くことにした。途中はカーブした山道の連続である。それにしても、まことにのんきな一人旅である。メエー・ソットではホテルの場所もわからないので町役場のようなところに駐車し、ホテルの場所を教えてもらった。男の職員がよく来たといいながら、丁寧に地図を描いてくれた。メー・ソット第一のホテルがCentra Mae Sot Hill Resortであり、1泊1200Bであった。朝飯付きでバス・タブはないが、Wifi 無料で申し分なかった。人口も多く、意外に開けた町であった。郊外に出ると水田も広がり、古代から人が多く住んでいたとおもわれる。

ところがメー・ソットでは仏足跡が1つも見つからなかった。誰も正確な知識を持っている人にめぐり会わなかった。地図もイイカゲンであった。ホテルのマネージャーに聞いてもこの辺だといって印をつけてくれたが、そんなことで行きつけるほど生易しい相手ではなかった。Googleにはメー・ソットの仏足石の写真が出ている。それは多分岩盤に彫ったものでガラスの箱が被せてあった。ともかく私はメー・ソットでは完敗に終わった。写真がホテルのものだけとは、あまりにも惨めである。












