メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第30回 「バンコクの熱い季節」(秦 辰也 著)

「バンコクの熱い季節」(秦 辰也 著、岩波書店<同時代ライブラリー134>、1993年1月)

<著者紹介> 秦 辰也(はた・たつや)
1959年福岡県生まれ。アメリカに渡り、サウスウェスタン・ルイジアナ州立大学卒業。1984年、曹洞宗国際ボランティア会に参加しバンコクに赴任、難民問題などにとりくむ。1987年、社会福祉活動家プラティープ・ウンソンタム女史と結婚。現在<*本書発刊1993年当時>、曹洞宗国際ボランティア会バンコク・アジア地域事務所所長。<本書紹介より、本書発刊1993年当時>

本書著者の秦辰也(はた・たつや)氏は、1959年9月17日福岡県生まれ。アメリカに渡り、サウスウェスタン・ルイジアナ州立大学卒業し、帰国後、東京での会社員を経て、1984年、SVA(現公益社団法人シャンティ国際ボランティア会、旧称曹洞宗ボランティア会)に参加しバンコクに赴任、国際協力活動を開始し、難民問題、少数民族問題、バンコクの都市スラム問題などに取り組む。その間、大学院等で研究活動も行う。1987年、タイの有名な社会福祉活動家プラティープ・ウンソンタム女史と結婚。本書発刊1993年当時は、曹洞宗国際ボランティア会(SVA)バンコク・アジア地域事務所所長。SVAバンコク事務所長、アジア地域事務所長、事務局長、専務理事など、1984年から2008年までシャンティ(SVA)専任スタッフとして活動。2008年近畿大学に移り、近畿大学国際学部教授を務めている。2023年からはシャンティ国際ボランティア会副会長に選任。

本書は、1992年にまとめられ1993年1月に、岩波書店の同時代ライブラリーのために書き下ろされた、秦辰也氏による初の著作。大別して、2部に分かれている。前半の体験記は、これまで著者が1984年にタイに来てから曹洞宗国際ボランティア会(SVA)の活動や生活を通しての記録を、4,5年間にわたって書きためたものであり、後半の1992年5月の民主化運動流血事件については1か月足らずで一気に書き上げたとのこと。特に、流血事件の原稿については、元毎日新聞バンコク支局長で発刊当時は近畿大学助教授の荒巻裕さんの熱心な勧めで、「タイの流血は何だったのか」と題して、タイの日本語誌『バンコク週報』に連載されたもの(うち一部は文藝春秋『諸君!』1992年8月号に掲載)を一部訂正、加筆し、まとめたもの。

著者の秦辰也氏が、1984年にタイに赴き1987年に著者が結婚する7歳年上のプラテイープ女史は、1952年8月9日、バンコクのクロントイ・スラムに生まれ、「教育こそが生活を大きく変える原動力」と確信し、スラムで、親が働きに出ている間に子どもたちを預かって文字の読み書きなどを教え始め、文房具などの費用として、親に1バーツを出してもらったことから、住民たちから「1日1バーツ学校」(寺小屋)と呼ばれる活動が評価され、1978年8月、弱冠26歳でアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞(公共福祉部門)を受賞。受賞をきっかけに「スラムの天使」として一躍世界中の注目を浴びることになった女性。1978年、プラティープ女史は、「希望のともしび」を意味する「ドゥアン・プラティープ財団」を設立し、教育を柱に、スラムの人々の生活改善を目指していく。

本書前半部分の「Ⅰ、バンコクに篤い季節」というタイトルの冒頭は、”「天使」と呼ばれて ースラムの先生”という章から始まり、プラティープさんの生い立ちから1984年、秦氏と出会う前までの経歴が紹介される。1952年8月9日、バンコクで最大規模と言われるスラム街、クロントイの一角で、華僑の父とタイ人の母の間に8人兄弟の5番目として生まれる。幼い頃から良く働かされるが。初等教育の小学校4年を終了すると、クロントイ市場の近くにある花火工場で働き始める。花火工場で4年ほど働き、その間花火の仕事がない時はアルミニウム工場での鍋の耳作りや、港に着く外国船の錆落としもして、14歳のときに仕事で貯めたわずかな貯金を元にして夜学に通い中等教育を受ける。当時、同じスラムの多くの子供たちは学校に通うことができなかった現状を見て、プラティープさんは16歳で姉と「一日一バーツ学校」をスタートさせ、スラムの劣悪な環境にある子供たちと家族の支援を行っていく。

プラティープさんのスラムでの幼少の時の生活や居住環境、一日一バーツ学校を始めるまでの経緯や、始めてからの経過などもいろいろと紹介されているが、更に興味を引くのは、同じクロントイスラムに住むソンピット小父さんの存在。その小父さんは、スラムの地区で小さな散髪屋を経営しながら、その隅で貸本屋もやっていたが、その小父さんは、当局に対して弁が立ち、スラムの立ち退き反対運動がおこるといつも先頭に立っていたが、幼いプラティープさんはその小父さんとは大変親しく、そのことも、後のプラティープさんの生き方に影響を与えたものと思われる。また両親の生活の話にも触れられているが、華僑の父は、タイへ移り住んでまもなく、バンコクから60キロほど西にあるサムット・サコーンという小さな漁港で働くことになり、苦労してお金を貯め、小さな船をやっとの思いで手に入れると、街の商店で働いていた女性と知り合い結婚。しかし、ある日、突然の嵐が町を襲い、彼の船は遥か遠くへ流されて、以来、バンコクに職を求め、港湾局の土地にあるクロントイ・スラムに住み着くこととなり、彼と家族は当局より強制立ち退きを何度となく強いられることになる。

本書の構成は、プラティープさんの生い立ちから、マグサイサイ賞受賞、「ドゥアン・プラティープ財団」設立など、教育を柱に、スラムの人々の生活改善を目指していく様子が紹介された後、いよいよ、1959年福岡生まれの著者の秦辰也さん自身の話に移る。まず、秦氏のSVAとの関わりやタイに赴く経緯が非常にユニーク。アメリカの大学を卒業後、一旦帰国し、東京で翻訳・情報処理を扱う会社に就職するが、机を並べて仕事をするようになったアメリカ人女性が、日本の「禅」に魅せられて、曹洞宗の尼僧となって修行の為に来日したということで、やがて、仕事の合間を見て、同僚のアメリカ人女性の師が会長を務めていた曹洞宗国際ボランティア会(SVAS)の事務所を覗くようになり、SVAが現地で行っているカンボジア難民の救援活動に関心を持っていく。

有給とはいえ、海外でボランティア活動をするという事自体、「そんなことは君一人でやったってどうにもならない。気持ちはわかるが、それは政府のやるべきことだ」と、父親の反対にも遭いながらも、自分の生き方を探ってみたいと、翌1984年4月には、会社を退職し日本を離れてバンコクへと飛び立つ。バンコクでSVAの同僚で先輩となる八木沢克昌氏から「スラムの天使」プラティープ先生の話を知りことになり、更に1984年末に、東京の教育活動グループ「おはなしきゃらばん」のスラムでの巡回公演の依頼で著者がプラティープさんと初対面となる。様々な社会課題と取組、国際協力の在り方などを考えさせる話がたくさん述べられているが、それだけでなく、秦辰也さんとプラティープさんの国を超えた二人の若者の出会いや、人目を忍んで重ねるデートから、考え方・生き方が重なっていき、あっという間に秦さんがプラティープさんにプロポーズしていく話は非常に眩しい。

ただ二人の結婚への道は容易くはなく、1986年5月、ひっそりとクロントイ・スラムにあるプラティープさんの自宅で、親に内緒で婚約を交わし1987年1月、タイで結婚式を挙げることになるが(タイの結婚式の描写も詳細)、それ以前の秦氏の父親からの著者の将来を心配する手紙の文面には、非常に子供を心配する親の正直な気持ちが現れていて、とても心を打つ。”今からの人間は、日本の殻に閉じこもり、国際感覚もない人間は役に立たないくらいのことは私もよく理解しています。(中略)「金も生活できるだけあれば良い」「地位もいらない、平和な生活ができればそれで良い」という考えは、筋としては立派なことだと思います。然し、現実の社会はそう甘くはないのです。世界中の人がその気持ちになるように、自分はそれに打ち込んでいると言えばそれまでだが。。そうなることは、イデオロギーの違い等、諸々の条件が異なるので未来永劫まで望めないことと思います。まし日本の現状を見る時に、特にそんな気がしてなりません。・・」

そして、二人の新しい結婚生活や、活動の奮闘ぶりから、タイの都市化とスラム問題の考察などと、本書の前半部の終盤も、読み応え十分であるが、さらに本書を劇的に彩り緊迫した文体で綴られる後半部分は、1992年5月に起こった打倒スチンダー政権のためタイ人による民主化運動の様子で、その渦中というか民主化闘争の中心的リーダーの一人がプラティープ氏ということで当事者側の貴重な記録となっている。NPKC(国家平和秩序維持委員会)と呼ばれる軍上層部によるクーデターに対する民主化闘争で、プラティープ氏の民主化闘争への思いや演説などは重いものがある。バンコク市内は非常事態宣言が出され、民主化側のリーダーの妊娠5ヶ月のプラティープ氏にも逮捕状が出されるというニュースが出て、日本大使公邸への一時避難が極秘裏に実現したが、この一連の闘争とその後の流血事件・スチンダー退陣という経緯は、タイの現代史上、大変大きな事件。

■「民主主義連盟」代表指導者7名
(1992年5月14日にバンコク市内ロイヤル・ホテルで開催された設立集会に参加したのは、タイの学者や学生のグループの他にNGOや労働団体など訳25団体で合計約125名)
◎<委員長>サン・ハテラット氏委員長:国立ラマ病院の心臓循環医)
・チャムロン・シームアン氏(前バンコク都知事)
・ソムサック・コサイスッ氏(官公労組代表)
・ウェーン・トチラカーン氏(サン医師の教え子)
・プリンヤー・テラナルエミティクン氏(学生代表)
・チットラワディー・ウォラチャット氏
(スチンダ退陣要求のためのハンスト突入の先駆者チャラート氏の娘)
・プラティープ・ウンソンタム・ハタ氏

尚、1958年生まれで、秦辰也氏より先に1980年にカンボジア難民支援事業にボランティアとして携わり、以来、40年以上にわたり公益社団法人「シャンティ国際ボランティア会」(SVA)のアジア各国の事業に関わり一貫してアジアの教育支援現場に立ち続けている八木沢克昌 氏は、1996年5月に著した書籍「アジア 熱き希望の大地 国際ボランティアからのメッセージ」(悠々社、1996年5月発行)の中で、”自分にとってのタイでのすべての関わりを根底から問い直させることとなったと言い切る出会いが、「田舎の先生」と「スラムの先生・プラティープ先生」との出会いで、結果的にはこの仕事をライフワークとして位置付けるようになった”と、記している。秦辰也氏のSVAでの同僚の八木沢克昌氏の話題は、本書でも何度か登場するし、また八木沢克昌氏の著書にも、プラティープ女史だけでなく、秦辰也氏のことは、1992年5月のタイの民主化流血事件の話でも登場している。

■目次
青い空の下で

Ⅰ バンコクの熱い季節
1.「天使」と呼ばれて ー スラムの先生
スラムに咲く花/ クロントイの生活/ ソンピット小父さん/ 1日1バーツ学校/ 飛躍/ ドゥアン・プラティープ財団の設立
2.バンコクの熱い季節
バンコクへ
青春の冒険/ 東京での生活
出会い
スラム問題とその解決方法
熱い思い
バンコク路地裏奮戦記
スアンプルー通り/ 住民図書館の建設/ ノーン少年/ 「子供の家」ができるまで
3.アジアに吹く風と共に
タイに生きる
決断/ ガラヤニ王女の贈り物/ タイの結婚式/ アジア・民衆
新たなる生活
「かけこみ寺」/ 信仰心と日常生活/ 父よやすらかに
4.21世紀に向かって ー 都市化とスラム問題
クロントイ・スラムの行方/ 闘う/ 清き一票を
5.プラティープの思い

Ⅱ 五月の赤い雨
6.五月・民主化への胎動
王宮前広場(サナーム・ルアン)/ 民主国家としてのタイ/ チャチャイ政権の終わり/ 強硬な軍部首脳/ 高かったアナン首相の評判/ 有力政治家への働きかけ/ チャラート氏への共感/ 「民主主義連盟」の結成
7.民衆の覚醒
30万人の決起集会/ プラティープの演説/ デモ行進の始まり/ 流血
8.血の弾圧
民衆を引き裂く連射音/ 「発砲をやめろ!」/ プラティープの証言/ プラティープ逮捕の情報
9.身重の妻への配慮
日本大使公邸に避難/ 岡崎大使との協議
10. タイの流血は何だったのか

「民主主義連盟」の再会/ スチンダ首相の辞任/ アナン第二次内閣/ 権力構造への挑戦/ 国際協力と民主化運動/ 五月流血事件のその後

あとがき

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