「歴史舞台としての中国西南部・南部」第9回 「朱元璋の明軍による雲南平定」

中国史と雲南地方(明朝初期)
元朝末期の群雄割拠を戦い抜き1368年明を建国した朱元璋(洪武帝)が付友徳を将軍とする征南軍を、元朝滅亡後も蒙古梁王が支配していた雲南地方に派遣し、1382年雲南を平定

「歴史舞台としての中国西南部・南部」
第9回 「朱元璋の明軍による雲南平定」

元朝末期、極貧の流浪僧から郭子興(?~1355年)の部下として紅巾軍の身を投じた朱元璋(1328年~1398年)が、群雄割拠の状態を駆け抜け、1368年に応天(南京)で帝位につき、国号を明とし新たな漢人の皇朝「明」を樹立。明の初代皇帝・洪武帝(太祖・朱元璋)は、武将・叙達を派遣し、元の順帝を大都(北京)から北方のモンゴルの地に追い払い、明軍は大都に入城し、北平府と改称する。

明の建国時には、中国東北部だけでなく、福建、広東・広西の中国南部、更に中国西南部も、四川には、初代皇帝・明玉珍(1331年[至順2年]~1366年[至正26年])の没後、10歳で2代皇帝となった子の明昇の夏国が、雲南には、蒙古梁王の元朝残存勢力が、まだそれぞれ残っていた。蒙古貴族達は、北方に追いやられた後も、雲南と連携し雲南を根拠地として元朝統治の回復を図ろうとする動きもあった。しかし、福建、広東・広西は1368年(洪武元年)にはすべて平定され、四川の夏国も、1371年(洪武4年)、明軍に攻め入られ陥落し、四川も平定されてしまう。

一方、洪武帝(太祖・朱元璋)は、雲南地方については、僻地で険しい土地でもあるため、兵力を用いることを望まず、平和的手段で蒙古梁王の帰順を説き雲南の明王朝版図への組み入れを図るべく、1369年(洪武2年)、1370年(洪武3年)、1372年(洪武5年)、1374年(洪武7年)、1375年(洪武8年)と、5度にわたり臣を雲南に派遣した。しかし、王褘、吴雲の明の使者が相次いで梁王に殺されるなどあって、洪武帝(太祖・朱元璋)は、1381年(洪武14年)、ついに直接軍事進攻をすることを決定する。

付友徳を征南将軍とし、藍玉、沐英を副将とする30万もの大軍で、この主力部隊は、湖南から西に進み、洪武14年(1381年)12月、普定(現在の貴州省安順)を攻め雲南東部の曲靖に入った。一方、郭英、陳恒率いる5万の明軍の別部隊は四川永寧(四川省叙永)から南下し、烏撒(貴州省威寧)に迫った。この地は四川、雲南、貴州の3省が境を接する地点で、蒙古梁王と通じていたイ族の武装勢力が割拠する地であった。この別働隊の動きにより明軍の主力隊が雲南東部への進攻を助け、曲靖を奪取した後、付友徳は藍玉、沐英には軍を率いてそのまま昆明に向かわせ、自らは北上して郭英等を支援するために烏撒に向かい、烏撒にあったイ族の軍を挟み撃ちにした。

永昌候藍玉、西平候沐英率いる軍は、洪武15年(1381年)正月、梁王軍を一蹴し、中慶路(昆明)を目指した。蒙古梁王は、その王衣を焼き、妻子をともなって昆明湖に逃れたが、明軍が中慶に無血入城したのを知り、湖水に身を投じた。

昆明を中心とする雲南東部はこうして平定され、付友徳も中慶に入り、ただちに中慶路は雲南府と改められ、雲南都指揮使司、雲南布政使司が置かれ軍政が施行された。付友徳は軍を分け、曹震率いる一軍が臨安を南下し、当地のイ族や哈尼族などの少数民族勢力も帰順を申し出た。もう一軍は西に向かい段氏の支配にあった大理を1382年3月攻め陥し、雲南西部も平定する。しかしその後もしばらくは雲南各地でイ族や白族等の明への反乱が続くことになる。

尚、明軍の雲南平定に活躍した3人の将軍であるが、朱元璋の養子であった沐英は、雲南平定後、雲南を52府、63州、54県に分けた洪武帝(朱元璋)が彼をこの地に留め鎮守させた。沐家の子孫は3百年にわたって雲南でその地位を世襲することになる。明建国の元勲である常遇春の妻の弟にあたる藍玉は、四川、雲南平定や元軍との戦いに大功があり、徐達(朱元璋の幼友達)亡き後の明軍の中心的人物となり、特に1388年、大将軍に昇格し、15万の大軍を率いて漠北の地で北元軍を大破したが、1393年、藍玉の獄と呼ばれる洪武帝による大粛清が行われ、彼自身は市中で磔の刑に処せられ、一族等多数のものが誅された。付友徳も、その翌年の1394年、洪武帝によって誅殺されている。

主たる参考文献
*『雲南民族史』 (雲南大学出版社、1994年)
*『永楽帝』 (伴野朗、徳間書店、1999年)
*『朱龍賦』 (伴野朗、徳間書店、1992年)

■明初の福建平定
元朝末期、福建に割拠していたのが、福建・福清出身の陳友定。根拠地は、閩江に沿った延平(現在の福建省南平)。
陳友定は、貧農の出身であったが、富農の家に婿入りした。商売を始めたが失敗し、駅卒となった。1352年(至正12年)、紅巾軍が福建に進攻すると、地主の民兵となり、戦功を立てた。その後徐々に頭角を現わし、福建行省平章となった。元朝には恭順の意を表し、毎年北京へ食料を送っていた。
明の洪武帝は、南征軍を編成し、中書省平章の胡廷瑞を征南大将軍とし、江西行省左丞の何文輝を副将軍として、江西、福建方面に派遣。
胡廷瑞は攻撃軍を3つに分け、彼が率いる本隊は、江西から杉関(江西省黎川)を越えて、福建へ南下。湯和と寥永忠は明州(浙江省寧波)から水軍で福州を衝き、」李文忠は浦城(浙江省浦城)を経て建寧(福建省建甌)を攻めた。
延平の陳友定は善戦したが、福州、建寧を陥されて、孤立無援となり、延平は包囲され、1368年(洪武元年)正月に陥ちた。
陳友定は服毒自殺を図ったが、死にきれず、捕らえられ応天(南京)に送られ、洪武帝の命で首を刎ねられる。

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