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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第35話 「漢字と泰・越語(2)」
- 2003/1/10
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漢字のベトナム音は古代の楚の発音がベトナム訛りで定着した?
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第35話 「漢字と泰・越語(2)」
個々の漢字の分析に入る前に、ベトナム音と古代の漢字の歴史についてざっと見ておきましょう。漢字の発音で最もあたらしいのは北京音です。十七世紀のなかごろに満州人が北京を占領して満州貴族が中国の行政権を握った後、官界では満州訛りの発音の中国語がはばをきかせるようになりました。中国語の標準語のことを英語ではマンダリンと呼びますが満大人(マンダーレン)から出た言葉だといわれます。
バンコクの中華街ヤワラート界隈を歩きますと、年寄りの中国人らが大声で彼らの中国語をしゃべっているのが聞こえます。主に広東省東部で話される潮州音の発音で、僕の耳には瓦礫をかき混ぜるようなダグダグガシガシという音に聞こえます。ところが中国や台湾からの輸入CDなどを売っている店に入ると、そこでは北京音の歌がかけられており、硬質の磁器を打ち合わせるようなティンティンリンリンという音に聞こえます。満州人好みの音に改造された北京音は、日本人の耳にもなかなか心地よい音に聞こえます。
予断ですが欧米の学者の通弊は漢字で書かれた古代の地名や国名を北京音で読んでしまうことです。彼らは現代中国語を勉強しつつ中国文化の世界に入るのですから無理もないといえば無理もないのですが、扶南(プナム)を北京音でフナンと読んだり、真臘(セッラムまたはセンラム)を同じく北京音でチェンラと読んだり、漢音や呉音を知る日本人にとっては首をかしげたくなるケースが多いのですね。極端なケースは唐の時代の文献に出てくる文単という地名をヴィエンチャンと読んだヨーロッパ人がいるのです。
満州人の影響をまったく受けていない南部の潮州音や広東音は、七~九世紀の中国の唐の音を遺していると言われます。日本には周知のように漢音と呉音という二つの漢字の発音が残っています。このうち呉音は五~六世紀の中国の南朝(宋や梁などの国)の音が百済経由で入り倭人訛りで定着したものでしょう。漢音は紀元前二〇二年に長安を都に成立した前漢の長安の発音が倭人訛りで定着したものでしょう。また釜山をプサンと言うような韓国音もあります。これは日本の呉音と同じく五~六世紀の中国の南朝(宋や梁などの国)の音が百済に採りいれられ韓人訛りで定着したものでしょう。
さて漢字のベトナム音ですが、たとえば河内をハノイと読んだり、順化をフエと読んだり、独特の発音を彼らは持っています。中国人に対しては歴史的に憎悪の勘定が先に立つベトナム人が、中国人の文字である漢字をまるで彼らの文化遺産でもあるかのように大切に守り通しているのも不思議な話ですね。現代に伝わる漢字の原型は紀元前三世紀の秦の時代に統一されたもの前漢によってそっくり受け継がれ、後漢の時代の紙の発明によって筆記しやすいように字体に変更が加えられたものです。
ベトナムが本格的に中国の支配を受けるのは紀元前二世紀の前漢の時代のことで、中国に対する抜きがたい憎悪が生まれるのは、一世紀のハイバーチュン姉妹によるベトナムの独立に対する漢の伏波将軍馬援の徹底した弾圧からのことです。それ以前は、たとえばベトナム神話に見える建国の始祖フンヴオン(雄王)は紀元前六世紀の楚の荘王に由来するという説もあって、南方の大国で「我は蛮夷なり」と公言してはばからなかった王の治める楚の国と、なみなみならぬ因縁を持っていたように思います。つまり中国に対するベトナム人の憎悪が生まれたのは後漢の時代のことで、はるか以前の楚に対してはまるで故国のような親しみと敬意を抱いていたと言えるのではないでしょうか。それゆえにこそ、彼らは漢にはじまり唐・宋と中国人の大国の支配を受けながらも中国人の漢字の発音を一切受け入れず、かたくなに彼らのベトナム音を現代に伝えることができたのではないでしょうか。僕は漢字のベトナム音は古代の楚の発音がベトナム訛りで定着したものと考えます。それは日本の漢音よりも数百年は古いもので、言語学者の理論的な操作による架空の音ではなく、現存する発音としては最古のものではないかと思います。
楚の王が周の成王により周の政治体制に加わったことを認められたのは紀元前十世紀のことといわれています。周は殷の文化である漢字をそっくり受け継ぎましたが、それがこのころから楚の国にもたらされたものでしょう。ナイパンフラ博士が言うようなモン・クメール系の言葉のクラウン(川)をモデルとして「江」という漢字が造られたのは、楚の国が周との文化交流によって漢字という技術体系を知り、漢字を造りはじめてから後のことでしょう。