「歴史舞台としての中国西南部・南部」第8回「明玉珍の夏国と雲南の元朝勢力」

元末の群雄割拠の時代、西系紅巾軍から起こり明玉珍により四川に興った夏国と、夏国による雲南への攻略 

「歴史舞台としての中国西南部・南部」第8回「明玉珍の夏国と雲南の元朝勢力」

元朝末期、白蓮教の宗師・韓山童(?-1351年)と、その遺児・韓林児(?-1366年)を戴いて元朝転覆を図る反乱(1351年)をきっかけに、元末の大乱が起こり、各地に群雄が割拠する大混乱時代となる。白蓮・弥勒教徒からなる宗教的農民運動は、紅巾で頭をつつんで標識としたため紅巾の賊(「紅巾軍」)と呼ばれ、各地の反乱勢力が紅巾の乱に呼応した。最終的に元朝末期の混乱を生き延び蒙古の元朝を倒し新たな漢人の皇朝「明」を樹立した明の太祖、朱元璋(1328年~1398年)も、極貧の流浪僧から紅巾軍に身を投じ、紅巾軍の郭子興(?~1355年)の部下となって頭角を現わしていく。朱元璋、張士誠(1321年~1367年)、陳友諒(1316年~1363年)の3人が、代表的な元末群雄といえようが、元末の南方には、他に東系紅軍、西系紅軍、非紅軍系の数多くの群雄が登場した。

 明玉珍(1331年[至順2年]~1366年[至正26年])もその一人である。明玉珍は、随州(湖北省随県)の人で、代々農業を営む中小地主であったが、徐寿輝が兵を起すと、郷里の豪傑を集め、武器を整え防壁を築いて、郷里を護り、屯長に推された。徐寿輝から宣撫され、紅軍に加わり、徐寿輝の武将として元軍と戦い、戦功を立てて統兵征虜大将軍となった。1357年(至正17年)には、四川に攻め入り、四川地方を占領。1360年(至正20年)、徐寿輝が部下の陳友諒に殺されると、自立して隴蜀王となり、兵をもって瞿塘を守らせ、陳友諒との往来を絶った。1362年(至正22年)には、明玉珍は、帝と称し、重慶を都として、国号を大夏、年号を天統と称した。

 四川地方に拠る明玉珍の夏国は、領土を保ち、民を安んじ、礼をもって名士を招聘し、また節約につとめ進士の試験を行い、雅楽も愛で、税は収穫の十分の一を徴しただけで、宗教については仏、道の2教を廃し、弥勒教だけを行い、各地に弥勒の仏堂を建立させたといわれる。

 この四川の独立国たる夏国は、他で各地の群雄や元朝の官軍が争っている時に、元朝の皇帝に所属する蒙古梁王帖木儿不花(ティムールブファ)と雲南行省の役人勢力が残っていた雲南地方に攻め入っている。夏国の明玉珍の命を受けた武将の万勝、鄒興が、軍を率いて雲南に攻め入っているのだが、その年代については、『元史類編』では、1364年[至正24年]とあり、『元史・惠帝本紀』では、1362年[至正22年]と記されている。

 夏国の軍は、2路に分かれ、叙州(現在の四川省南部の宜賓)と建昌(現在の四川省南部の西昌)から雲南に攻め入りが、元朝支配に不満をもっていたイ族、白族や漢族等の支持を得て、易々と中慶路(昆明)に攻め入ることができ、蒙古梁王帖木儿不花(ティムールブファ)と雲南行省の役人たちは、西部の威楚(現在の雲南省楚雄)に遁走した。雲南での元朝勢力の統治を徹底的に覆すために、明玉珍は、自ら軍を率いて雲南に入り、先行部隊と合流し、イ族や白族の軍への参加も吸収して西に蒙古梁王たちを追撃していった。

 当時、雲南地方の政治状況は、昆明を中心とする元朝の蒙古梁王勢力以外に、大理地方を中心に、政治的には元に隷属し、元朝の地方官制に組み込まれ、府・州・県などに区分されてはいたが、内部の主権を行使していた白族の族長の段氏の勢力があった。更には、それ以外の地区として雲南南部の思普一帯の多くの少数民族の地区があった。1309年(至大2年)以来、蒙古梁王と、段氏勢力はずっと対立してきたが、明玉珍の紅巾軍が蒙古梁王勢力を昆明から西の地方に追撃することは、段功を代表とする大理白族封建領主たちの存亡にも関わる問題となった。ここに至り、段功は、一転して蒙古梁王を支持し、大理白族の地方武装勢力を集め、明玉珍の紅巾軍に反攻する。大理白族の封建勢力は、明玉珍の紅巾軍を大いに破り、四川に退却させることになる。

 段功が雲南に攻め入った紅巾軍を鎮圧した後、蒙古梁王は、段功を雲南行省平章政事にと元の皇帝・順帝に奏上し、自分の娘を段功に嫁がせ、雲南での元朝統治の安定を図るが、最後には梁王は段功を謀殺してしまう。

 一方、四川の夏国であるが、明玉珍は皇帝在位5年、わずか36歳と言う若さで亡くなり、子の明昇が、10歳で2代皇帝の位を継いだが、諸将は権力を争い、国の勢いは衰えていく。朱元璋は、陳友諒、張士誠を破り、元朝の最後の皇帝・順帝(1320年~1370年)を北方に追い払い、1368年(洪武元年)をもって帝と称し、天下を大明とすることに定め、洪武と建元、応天(南京)を都とした。こうして新皇朝「明」が樹立されたが、この時点では、朱元璋が中国全土の統一はまだ為されておらず、中国南部は、明の建国の年に、福建・両広(広東・広西)は平定されたが、四川と雲南には、明昇の夏国、蒙古梁王の元朝残存勢力が、まだそれぞれ残っており、これらの地方の平定着手は、明建国以降となる。

   主たる参考文献
*『雲南民族史』 (雲南大学出版社、1994年)
*『超巨人 明の太祖 朱元璋』 (堺屋太一、講談社、1986年)
関連ワード

■徐寿輝 ?~1360(至正20年)
元末群雄の一人。羅田(湖北)の人。もと販布を業とした。兵を起して蘄水(湖北)で皇帝と称し、国号を天完、治平と建号して一時勢を振るったが、元末群雄の一人、陳友諒に殺された。
■陳友諒 1316年(延祐3年)~ 1363年(至正23年) 元末群雄の一人。沔陽(湖北省)出身。
漁夫の子に生れ、はじめ小役人となったが、徐寿輝が兵を起すと、その武将・倪文俊の書記となり、しだいに勢力を得た後、倪文俊を倒してその兵をあわせ、さらに徐寿輝を殺して帝と称し、国号を大漢、年号を大義と称した。しかし、明の太祖(朱元璋)と鄱陽湖付近で戦い敗死した。
■張士誠 1321年(至治1年)~ 1367年(至正27年)元末群雄の一人。泰州・白駒場(江蘇省大豊県)出身。江南に進出し平江府(蘇州)に拠ったが、明の太祖(朱元璋)と競合し、以後10年にわたって争覇戦を展開し、大敗する。

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