コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第45話 「『楚辞』の源流」

北ラオスを中心に雲南から北タイにまたがっているカムー族の招魂歌は「楚辞」の源流を継承?

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第45話 「『楚辞』の源流」

東西南北の方角をあらわす四つの漢字うち、「南」という字は黄河流域に国を経営していた殷の人たちが、自分たちの南に接するエリアに住む苗族の人たちの間に銅鼓が使われているのを異として、銅鼓をかたどった「南」という象形文字を造って、それにミナミという意味を与えた・・・白川静がこういうことを言っています。苗族(HMONG)は今でこそ中国の西南地方(貴州・雲南・広西)の片隅から北タイ・北ラオス・北ベトナムの北部に住む少数民族になっていますが、中国の学者によれば古代の楚の国の主要な人民は苗族の人たちで、また長江の河口にできた呉越の戦いで有名な呉の国は、苗族の人たちの国であったという説が有力になっています。余談ですが苗族出身の研究者である燕宝は、ヤマタイ国は苗族の国であるとするそれなりにスジの通った小論文を中国語で発表しています。

東南アジアとくにインドシナにおいては、現在、タイ系、ベトナム系の民族と、古代において大帝国を造ったモン・クメール系の民族が、それぞれの国を造っており、いずれの国にも歴史の上で傍流となってしまった民族が少数民族として住んでいます。古代の日本においてオオクニヌシ系の古い勢力が衰退し、アマテラス系の新しい勢力がのしあがり、その間にクズとかツチグモとかエゾとかハヤトと呼ばれる種々の少数民族が、それぞれの集団をなお維持している姿と、現代のインドシナの姿は、僕にはいつも二重写しになって見えるのですが、あるいは僕のアタマが古い言葉でいえば「南方ボケ」してしまったのかもしれません。

それはともかく最初の話題に立ち返って、銅鼓をかたどった「南」という漢字の音は「ナン」で、貴州省に住むタイ系のプーイー族は銅鼓のことを「ニアン」と呼び、北ラオスを中心に雲南省から北タイにまたがって住むカムー族は銅鼓のことを「ヤーン」と呼び、「ナン」と呼ばれた殷の時代の苗族の原語の音を、やや訛りながらも伝えているように思われます。「ナン」という音は殷の時代の苗語の音声言語で、「南」という字のかたちは銅鼓の象形であると言えましょう。

中国の学者によると鳳凰が崇拝されるのは楚の国に始まり、それは庸という国を楚が滅ぼしたときに庸からうけついだものだといわれています。庸という国は長江の中流でも西よりの長江の本流と北に分かれた漢水と呼ばれる河の間にあった国で、殷周革命の際には周に味方して連合軍に参加しています。東南アジアのモン・クメール系の民族はモン族を中心に「ホン」鳥という神鳥を民族の象徴としています。「ホン」鳥と鳳凰はつながるもので、庸という国はモン・クメール系の国ではなかったかと思います。楚の国は実にモン・クメール系の民族の文化を吸収することの多かった国のように思います。さきにふれた銅鼓を持つカムー族はモン・クメール系の民族で、古代においては苗族と接するところに住み、後になって南下したものと思われますが、カムー族は死者の魂を呼びもどすための招魂歌を持っています。これに注目したのはクリスチナ・リンデルという北欧の研究者で、彼女の訳による英語バージョンでは九十九語の簡潔なものです。彼女はそれを『楚辞』の中の「招魂」・「大招」につながるものとして位置づけ、古代の『楚辞』の中の招魂詩がカムー風に変化したものと考えました。

白川静によれば「招魂」は宋玉の作、「大招」は屈原または景差の作で、どちらも王侯の死者の魂を呼び戻すために作られたものだそうです。「招魂」は二百三十一句におよぶ長大なもので、美辞麗句や絢爛たる修辞がえんえんと続くのであるが、要は「魂よ帰り来たれ、身体を去りて何故四方へ行くのか。」とか「帰り来たりて故室にかえれ。」とか美辞麗句を取り去ってしまえば、カムー族の招魂歌にそっくりの面目が現われ、クリスチナ・リンデルが『楚辞』の中の「招魂」につながると考えたこともなるほどとうなづくことができます。美辞麗句や絢爛たる修辞はひとえに招魂詩の対象が王侯であったために、漢字を知る文学者たちにより創作されたものでしょう。そのもとになったのが一般人の葬儀に歌われる招魂歌で、カムー族の招魂歌はそれが伝え残されたものではないでしょうか。『楚辞』の中の「招魂」・「大招」がカムー風に簡略化され変化したものではなく、実はカムー族の招魂歌の方こそ『楚辞』の源流となった簡潔な招魂歌を継承するもののように僕には思われます。ちょうど漢字のもととなった現地語のように。

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