メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第35回「アジアに浸る SOAKED IN ASIA」(高樹のぶ子 著)

メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第35回「アジアに浸る SOAKED IN ASIA」(高樹のぶ子 著)


「アジアに浸る SOAKED IN ASIA」(高樹のぶ子 著、文藝春秋、2011年2月発行)

<著者略歴> 高樹のぶ子 <発行掲載時、本書著者略歴より>
1946年、山口県生まれ。1980年「その細き道」でデビュー。1984年「光抱く友よ」で芥川賞、1995年『水脈』で女流文学賞、1999年『透光の樹』で谷崎潤一郎賞、2010年「トモスイ」で川端康成文学賞を受賞。近著に『飛水』『甘苦上海』『HOKKAI』『マイマイ新子』『ナポリ 魔の風』などがある。

本書の著者・高樹のぶ子 氏は1946年、山口県防府市生まれ山口県立防府高等学校、東京女子大学短期大学部教育学科卒業後、出版社勤務を経て、1980年「その細き道」を「文學界」に発表、創作活動を始めた小説家。1984年『光抱く友よ』で芥川賞、1994年『蔦燃』で島清恋愛文学賞、1995年『水脈』で女流文学賞、1999年『透光の樹』で谷崎潤一郎賞、2006年『HOKKAI』で芸術選奨文部大臣賞、2010年『トモスイ』で川端康成文学賞を受賞。「透光の樹」は、2004年映画化もされている。他、多数執筆。2001年より芥川賞選考委員ほか、多くの文学賞の選考委員を務める。2009年、紫綬褒章受勲。2017年、日本芸術院賞、旭日小綬章受章。

高樹のぶ子 氏は、2005年から2010年まで、九州大学アジア総合政策センター特任教授(アジア現代文化研究部門)として、 SIA (Soaked in Asia)という、アジアに浸るという意味の、アジアとの文学交流プロジェクトを主宰。本書「アジアに浸る SOAKED IN ASIA」(高樹のぶ子 著、文藝春秋、2011年2月発行)は、その5年の歳月をかけアジアの10ヶ国を訪ね歩いて各国の作家や市井の人々と交流し、その成果を様々なメディアを通じて発信するというプロジェクト SIA(Soaked in Asia)の記録。対象国は、10ヶ国地域で、本書の第1章から順に、フィリピン、ベトナム、台湾、マレーシア、中国・上海、モンゴル、タイ、韓国、インド、インドネシア・バリ。半年ごとにアジア10ヶ国地域を訪ね、現地の作家と交流し、文学だけでなく、その国地域の人々の暮らしや社会が抱える問題も取り上げている。

尚、SIA (Soaked in Asia)プロジェクトから生まれた本として、本書以外に、アジア10ヶ国地域の作家による短篇10編を収める「天国の風 ー アジア短篇ベストセレクション」(高樹のぶ子 編、新潮社、2011年2月発行)や、各国の作家の作品を「新潮」誌上に一篇ずつ紹介掲載し、それにインスピレーションを受けて、高樹のぶ子氏自身も毎回短篇を書き下ろして「新潮」誌上に一篇ずつ掲載発表するが、それらの短編小説をまとめて収めた「トモスイ」(高樹のぶ子 著、新潮社、2011年1月発行)も刊行されている。「天国の風 ー アジア短篇ベストセレクション」(高樹のぶ子 編、新潮社、2011年2月発行)は、アジア各国地域の文学の第一人者による翻訳と解説も充実しているが、本書「アジアに浸る SOAKED IN ASIA」では、著者・高樹のぶ子氏がアジア各国地域の作家たちを訪ね交流の模様を文学とともに紹介している。タイ編では、何かと話題性が高く注目されてきた1972年生まれの女性作家カム・パカーが取り上げられているが、ベトナム編では、1954年生まれの女性作家チャン・トゥイ・マイ氏を訪ねた様子は「天国の風 ー アジア短篇ベストセレクション」に綴られているが、本書ではチャン・トゥイ・マイ氏のことは書かれていない。

本書の「第二章 ベトナムに浸る」では、5つのトピックが挙げられている。まず最初は、ハノイ美術大学に入学したのち中退してベトナム戦争さなかの軍隊に入ったハノイに住む画家ウンさんの話。戦車で偵察行動中にアメリカ軍の銃撃に遭い重症を負い、生死の瀬戸際、意識がもうろうとしてくる中で、自分の目から流れ出る血で、手近にあった紙にホーチミン首席の顔を国旗を描き、言葉も書き加えたところで、出血多量で倒れた物の、その後、一命を取り留めたという人物。その次に取り上げられている話は非常に衝撃的な話で、ハノイから南へ車で2時間半のニンビン省に住む1948年生まれの元女性兵士のダオさんの話。対フランス植民地解放戦争では、およそ百万人の女性ゲリラが参戦し、アメリカとのベトナム戦争では、ベトコンと呼ばれた部隊の指揮官の4割が女性だったとの報告もあり、少なくとも数十万人の若い独身女性が最前線で闘ったらしい。ダオさんは戦争で聴力を失い、頭痛や妄想に襲われ心身を壊し、戻った実家の村も貧しく若い男たちは多数戦死していて恋愛や結婚をあきらめなくてはならない状態。彼女のように、ベトナム戦争の後遺症をおおきく被ったベトナム人の女性兵士、独居女性への対策として、1980年代に、婚姻外の出産を容認する政策がとられ、ダオさんの将来を心配する周囲の人たちの手配で、一夜限りの性交渉で子供を得て、ベトナム社会で生きる場所を獲得したという。このような元女性兵士は、何千人にものぼるとのこと。

他には、平均的なベトナムの若者の結婚式と披露宴に参列し、結婚への意識などを問うたり、ベトナム南部に多くの信者を持つカオダイ教の寺院を訪れたりしているが、著者らしい捉え方が独特だと思えたのは、マルグリット・デュラス作「愛人(ラ・マン)」の映画で逢い引きの家として使われたサイゴンの中華街・ショロン地区の建物や、物語の舞台のメコン河を訪ねているが、マルグリット・デュラス作「愛人(ラ・マン)」への視点。「18歳でわたしは年老いた」という一節が有名で、”長いあいだこの一節が、デュラスの文学そのものであり、またベトナム、というより仏領インドシナの匂いそのものでもあった。その匂いは熟れた果実のような、性の煮詰まった喘ぎのような、フランス植民地支配の断末魔のような、不健康で甘美な魅力で私を捉えて放さなかった。”という文章も素敵だが、フランス人少女と中国人青年との性愛の物語以上に、小説「愛人(ラ・マン)が人生が終ろうとしている場所から書き始められていて、激しい欲情と悦楽を味わった頃の若さより老いた自分の顔の方が美しいといいきることができる作家の自信に注目している。

タイ編は、本書の「第七章 タイに浸る」で、21歳の男性の体を持って生まれ女性への性転換手術を受ける21歳のオーイさん、バンコクの下町チュンチョン・ロンプーン地区で美容院を営み地区の住民のためにいろんな事の面倒を見しっかり者のビッグママで知られながら元は男性でタイで二番目の手術例の性転換手術を受けていた65歳のケーンさん。バンコクの南30kmのブッタワナラーム村の46歳村長で性転換手術は受けていないが戸籍は男性で心は女性のチュチャートさん、バンコクのタン・トン・チン商業高校の化粧をする美少年の男子高校生トーイ君と、4人が取りあげられている。更に、1972年生まれの女性作家カム・パカーさんのことは、本書では、”近代化に統一しようとする「タイ化政策」に反旗を翻し、「性と性をめぐる人間関係」を描くことで、覆い被さってくる「良識や常識」にあらがい、「締め付けてくる意識の枠組み」を跳ね返そうとする、”と紹介されてはいるが、その意味するところは、「天国の風 ー アジア短篇ベストセレクション」(高樹のぶ子 編、新潮社、2011年2月発行)に収録されているカム・パカーさんの短篇2編を読むと、理解しやすくなるかと思う。この第三の性に寛容なタイ訪問を機に高樹のぶ子氏により創作された短篇が「トモスイ」で、表題作として短篇作品集「トモスイ」(高樹のぶ子 著、新潮社、2011年1月発行)が刊行され、小説「トモスイ」は2010年川端康成文学賞を受賞。

その他の国地域については、フィリピン編では、ミンドロ島のマンヤン族の詩やホセ・リサールの話など、台湾編では蘭嶼島のタオ族、マレーシア編では多民族と宗教の話。中国・上海編では華やかな富裕層とは違って昔ながらの上海の生活とそこに住む慎ましい生活をしている人たちに焦点があてられている。モンゴル編では市場経済に移行し弱肉強食、利益優先、自由競争で社会が急速に変化する中、生まれてくる歪みを浮き彫りにしていて、親の庇護を失ったストリートチルドレンやマンホールチルドレンが激増した問題を取りあげている。韓国編では儒教社会で抑圧されてきた女性の地位、インド編ではカーストの問題、イスラム教徒が多数のインドネシア編では、バリ・ヒンドゥというインドネシアではマイノリティの独自の文化を大事にしてきたバリ島に限った話となっている。

目次
第1章 フィリピンに浸る
マンヤンの恋文/ 触れなくては解らない/ キアポの歓声/ 生と死の場所/ 来日した独立の英雄と/ ローデス夫人と素敵な女性たち
第2章 ベトナムに浸る
ウンさんの幸福(しあわせ)/ こうして母になりました/ メコン河、二人のデュラス/ 単純明快、原初の営み/ 南国的、極彩色の理想郷
第3章 台湾に浸る
野銀村のサツマイモ/ 神聖な色、帯びて育つ/ シャマンさんのかなしみ/ サヨリと男たちと風葬の島/ 不確かな共存
第4章 マレーシアに浸る
椰子農園のヒンドゥ寺院/ セランゴールの蛍/ マラッカの夕陽/ カラフルな女たち/ 三人の女性、笑みの陰には/ ありがとう、墓守り人よ
第5章 中国・上海に浸る
母と娘と卵ギョウザ/ お茶の香りと揚げ油の匂い/ 上海ドリーム/ 孫娜(ソンナ)ちゃんのお手伝い/ 大樹の治療/ 外灘(ワイタン)の美女たち
第6章 モンゴルに浸る
ゲルは世界と繋がっている/ ローソクに話そう/ 一語もたがわず声で再現/ 強い国、強い人間への憧れ
第7章 タイに浸る
オーイさんの痛み/ ビッグママ/ 性を超えた村長さん/ タイ化政策 「心は女、体は男、そのままで」/ 放課後のお化粧
第8章 韓国に浸る
「アヘンの缶」という懐刀/ 非婚宣言/ ホンさんの夢/ 幸せを守り通してきたもの/ 万病の治療薬
第9章 インドに浸る
ヤーダブ姓/ お腹の塊り/ 塀/ 虐待された少女の明るさ
第10章 インドネシア・バリに浸る
オカ・ルスミニさん/ 命と匂い/ プレエさんは92歳/ 霊媒師スアルダナさん/ 信仰と科学と芸術

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