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メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第41回 「ハノイは燃えている」(ハリソン・E・ソールズベリ 著、朝日新聞外報部 訳)
- 2026/8/17
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- 1954年のジュネーブ協定, グエン・バン・チョイ, コンコ島, ディエンビエンフー, ノーマン・モリソン, ハムロン橋, ハリソン・E・ソールズベリ, ファン・バン・ドン, ロンビエン橋, 北爆, 国際休戦監視委員会(ICC)
メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第41回 「ハノイは燃えている」(ハリソン・E・ソールズベリ 著、朝日新聞外報部 訳)

「ハノイは燃えている」(ハリソン・E・ソールズベリ 著、朝日新聞外報部 訳、朝日新聞社、1967年4月発行)
<著者紹介> ハリソン・E・ソールズベリ(1908~*1993)<本書著者略歴より、本書発行当時>
1908年生れ。現在ニューヨーク・タイムス紙編集局次長。ミネアポリス大学卒。1946年 UP通信社からニューヨーク・タイムス紙に移り、同年から1954年までモスクワ特派員。「新しいロシア」「ロシアの米国人」などの著書があり、共産圏関係の国際問題記者として有名。1966年12月、米人記者として初めてハノイに入った。
本書の著者ハリソン・E・ソールズベリ(Harrison Evans Salisbury)(1908年~1993年)は、共産圏の国際問題記者として著名なアメリカのジャーナリスト。1908年、ミネソタ州ミネアポリスに生まれ。ミネソタ大学卒業後、約20年近く、UP通信社に勤務。1944年にはUP通信社モスクワ支局長に就任。1949年から1954年までニューヨーク・タイムズ紙の特派員としてモスクワに5年間滞在、同紙に連載した記事により、1955年「ソ連のアメリカ人」でピュリッツァー賞を受賞。翻訳され日本語で出版された書籍も、「変革の時代 ソールズベリー回想録」(時事通信社、1993年9月)の1993年7月没後直後に翻訳出版された回想録をはじめとして、「攻防900日 包囲されたレニングラード」(早川書房、2005年12月)、「天安門に立つ:新中国40年の軌跡」(NHK出版、1989年9月)、「長征:語られざる真実」(時事通信社、1988年2月)、「ニューエンペラー 毛沢東と鄧小平の中国}(福武書店、1993年4月)、「燃える東部戦線」(早川書房、1986年8月)、「黒い夜白い雪 ロシア革命 1905-1919年」(時事通信社、1983年4月)、「独ソ戦 ー この知られざる戦い」(早川書房、1980年11月)、「中ソ戦争」(早川書房、1970年)など多数。
本書は、1966年12月のクリスマス前から2週間の期間、アメリカ人の記者として初めて北ベトナムに入った著者による北ベトナムのレポートで、ハノイから寄せたレポートがニューヨークタイムスの紙面に掲載されてはいたが、1967年1月にペーパーバックの形式で「BEHIND THE LINES ー HANOI:December 23,1966 – January 7,1967」のタイトルで原書がニューヨークタイムスより刊行。本書は日米同時出版として、朝日新聞外報部の訳により、1967年4月に朝日新聞社から刊行された日本語訳本。原著のタイトルにあるとおり、著者の北ベトナム滞在は、1966年12月23日から1967年1月7日の約2週間。アメリカは南ベトナム駐留米軍兵力が段階的拡大(エスカレーション)を重ねて飛躍的に増強され、また1964年8月のトンキン湾事件をきっかけに始まった北爆は1965年2月から本格化し、ベトナムに対する巨大な米軍軍事力が投入され続けていたが、当時は、共産圏の中で、北ベトナムが一番固く閉ざされた国に見え、西側の常駐特派員は1人もいなく、共産諸国からの代表でさえ、あまり多くは訪問していなかった。ベトナム共産主義やその政権の性格については知られておらず、北爆がどれほどの被害を出し、どんな狙いで行われ、北ベトナムにどんな影響を与えているかも、アメリカ一般国民は、詳しくは分かっていなかった。
本書の著者ハリソン・E・ソールズベリは、1965年夏に、北ベトナム訪問を希望し、それから、北ベトナム入国ビザ取得のためにいろんな活動努力を続けるが、1966年12月15日に、ハノイへのビザがパリで用意されるという通知を取得。フランスのパリの北ベトナム領事館で北ベトナムへのビザを取得し、エア・フランス機でカンボジアのプノンペンに飛び、そこから1954年のジュネーブ協定の遺物のような国際休戦監視委員会(ICC)の連絡専用機で、ヴィエンチャン経由でハノイ入国を果たす。監査機関は、カナダ、インド、ポーランドの3ヵ国で構成され、ICC機は、サイゴン、プノンペン、ビエンチャン、ハノイの間を往復。この著者が半年前の1966年6月、カンボジアに滞在した時には、プノンペンからハノイへカンボジア王国航空のの直行便が出ていたが、ラオスや北ベトナム上空を飛ぶのが危なくなってきたので中止されていた。他に唯一つのハノイへの空便は、中国・南寧から飛ぶ中国の航空路だけだが、米国市民の中国一時通過に中国が反対している以上、米国人がハノイへ行くのに使えるルートではなかった。著者のハノイへの入国努力の一つとして、米国国防総省の前で焼身自殺を遂げたクエーカー教徒ノーマン・モリソン(1933年~1965年11月2日)の未亡人が著者のために北ベトナムに手紙を書いてくれたことが紹介されている。ノーマン・モリソンが北ベトナムで英雄というより、聖者とでもいうべき存在で、未亡人とその子供も、北ベトナム全土で敬愛されている、ということを後で著者は知ったとのこと。
ハノイ市内で、著者が最初に見たいという希望を申し出たのは、爆撃による損害個所で、特に米国人として、1966年12月13日と14日の爆撃の結果を見て、この爆撃で何が壊され、どんな損害があり、米軍は何をしようとしたのかを確かめたく、ハノイ市内のありふれた労働者住宅街などやハノイから少し離れた村など、市民の財産や非軍事的な目標にひどい破壊が加えられた場所を取材。大使館区域にも被害が出ていた。米軍は爆弾が”軍事目標”の上に正確に落ち、外科医の正確さで軍事目的を達成しつつあり、戦史上はじめて市民を殺傷したり、市民生活を損なうことなく、的の戦闘力をくじいていると繰り返していたが、地上からみた爆撃の実態と米軍発表との間に大きなギャップのあることを確認。更には、とくに米機によって爆撃された地方の田舎を見たいと申し入れ、爆撃の被害の跡は、田舎でも、市街地と同じようにたやすく見られたとのこと。米国はまず17度線のすぐ北への爆撃を開始し、段階的に爆撃エリアが拡大。1996年7月にはハノイ、ハイフォン地区に侵入し、北部のあらゆる地域、省に及んでいるが、北ベトナム側は戦争のエスカレーションを予期し慎重に対策を進めてきていて、指導部の決意だけで無く、民衆も備えつつあるが、農村も爆撃対象になっていて、北ベトナムの食糧持久力にも深刻な影響を与えていたり、村の生活が戦争によってひどく妨げられていると、爆撃の被害を報告している。
ただ、著者がハノイから郊外や地方に車で移動するにつれて、いかに大量の鉄道復旧用資材が手近に置かれているかに驚かされたと述べているが、北ベトナムから南ベトナムへの兵員の移動、物資の補給を止められると、ベトコンとその母体である民族解放戦線の戦争継続能力に実質的な打撃を与えることになるが、兵員の移動、物資や食糧、軍需品の動きが現に止められておらず、北ベトナムを既に2年間も爆撃してきたし、ハノイ・ハイフォン地区に対する爆撃作戦は、この一年来拡大するばかりなのに、輸送の道が確立していることは、戦争の最も重要な局面の一つと述べている。米国が大量の空軍力を動員しているのに、米国に対抗して北ベトナムがどこまで戦闘を続けられるかがポイントであるが、北ベトナムは、人的資源、労働力の大量投入と国内資源の慎重な活用で、輸送や鉄道の軌道や橋の修復工事など対処してきていると見る。
もう一つの面として、中国が鋼鉄や車両その他鉄道に必要な資材の主な供給者。南寧と昆明から中国国境を越えて北ベトナムに南下し、再び北に上る鉄道線の維持の為、中国の鉄道工兵大隊が援助しているとも言われていると言うが、鉄道輸送について、ガソリンやオイルに依存するトラック輸送と異なり、北ベトナムの炭鉱で産する石炭を使っているという点も指摘。ガソリンとオイルは、ソ連あるいはルーマニアからタンカーで北ベトナムの主要港ハイフォンに運び込まなければならない。北ベトナムの石油貯蔵施設に対する米軍の爆撃は、これまで最も成功した軍事的打撃の一つと言われてきたが、北ベトナムでは、石油をはじめとする軍需補給品を敵の爆撃から守るため、野天に貯えておき、野原や道路沿いに分散して置かれている。アメリカが絶対的な制空権を支配しているが、米軍の爆撃の効果がどこまで有るのかについては疑問を呈している。
ベトナムが南北に分割されたとき、1954年~55年にかけて数十万のカトリック教徒が北から南へ逃げたと伝わるが、ハノイ政権の”教会と宗教に対する関係”も著者の追求テーマの一つ。北ベトナムにおける仏教徒の活動や北爆によるパゴダの被害状況なども問い合わせしているが、カトリックも仏教も、国家の存立をおびやかす脅威と闘うため、政府及び全国民と協力しているとの見方。ハノイでの人々の生活については、食糧の供給・配給や衣類も不足し、ハノイでの生活には、くつろぎや息抜きが少ないと報告。戦争と学校の問題でも、多くの学校が爆撃され、爆死した生徒達も多数。教育機関もハノイから疎開。ハノイの外科診療所も訪問するが、医療施設が爆破され、北ベトナムの保健衛生問題は、北爆によって非常に混乱。ただ、北ベトナムに関する限り、この戦争を闘う北ベトナム人民の精神が、今度の戦争のもっとも重要な局面とし、中国とソ連からどれほど物資の補給があろうと、もしこの精神がなかったら、あの膨大な米国の科学技術に立派に対抗できる見込みはまずありえないであろうと著者は言う。愛国心が強く、北ベトナムは非常に若い国で、この戦争は、10代の若者の戦いといってよいほどなのだとも言う。この戦争に参加しているという意識。北ベトナムの人々は、多くの者が武器を持っていて、この戦争に参加しているという意識が高く、自分たちの政府を支持していることに注目している。
北ベトナム政府は、愛国心をかきたてるため、わざと分かりやすい物を選んで愛国心の象徴としているとし、いくつかの事例が挙げられている。17度線の境界線に近いトンキン湾の沿岸から2km位離れた沖合の海上の小さな島のコンコ島は、主にレーダー観測基地として、また防空施設があるため重要で、四六時中、第七艦隊の飛行機の爆撃にさらされていたため、コンコの高射砲手たちの英雄的な勲功に憧れたり、ハノイの南約160kmにありタンホアを流れるマ川に架けられているハムロン橋は、北ベトナムではもっとも重要で、この橋を守っている砲手たちは北ベトナムの国民的英雄に称えられたりする。ハノイで有名な英雄達の中で、マクナマラ米国防長官暗殺未遂事件で処刑されたグエン・バン・チョイ(1940年~1964年10月15日)ほど、圧倒的な力の差があるにもかかわらず必死になって愛国の行為のため自分自身を犠牲にした若者として、北ベトナム人の気質に申し分なくぴったりくる英雄はいないように思えたとも述べている。戦争が激しくなるにつれ、特に米国が北爆を開始して以来、北ベトナム国民の愛国心が、変ることなく日増しに高まり、北爆は民衆の愛国心に油をそそいだとまで書いている。また、著者は、ハノイでの滞在が長びくにつれ、1954年5月のディエンビエンフーでのフランスへの勝利から生じた自信と、1946年のフランスの協定反古と1954年のアメリカのジュネーブ協定反古に由来する不信感ほど、北ベトナム人の心に重要なものはないということを強く感じるようになったと強調している。
本書は、著者による北爆の被害の状況や、北ベトナムの人々の戦時下での生活などの取材報告ルポも貴重ながら、本書の後半に掲載されている、4時間半にわたったファン・バン・ドン首相との会談(1967年1月2日午後)をはじめ、北ベトナム外務当局者との意外に率直な議論、民族解放戦線ハノイ駐在代表のグエン・バン・ティエンとの会談、東欧のある共産主義者と西欧の共産党出身の青年との非公式な懇談の4つの異なる会談・議論・懇談の詳細なやり取りは、非常に読み応えがある。中でも、北ベトナム外務省の役人との話し合いは、ある意味では、著者がハノイ滞在中行った話合いのうちで、ファン・バン・ドン首相との会談を除けば、一番ききごたえのあるものだったと本書で記しているくらい。多岐にわたる話題の中で、米国の経済問題にかなり相手方の質問が集中しているが、相手方が、米国の経済問題と、これとベトナムとの関連について話せば話すほど、相手方の狙いが、1945年~46年以降数年間、フランスの直面した情勢と米国が占めている立場の間に類似点を見出そうとしていることがはっきりするが、フランスの例は米国には当てはまらないということを著者は相手に詳しく説明している。また、「ベトナムには米国が物質的関心を寄せるようなものは何一つない。米国がベトナムにとどまるならば、ただ金がかかるだけだ」と、米国は植民地主義国家でなく、この戦争は植民地主義戦争にはあてはまらない、と著者は反駁している。
民族解放戦線ハノイ駐在代表のグエン・バン・ティエン氏は、サイゴン出身で元サイゴン大学の教授で、1945年以来の抵抗運動の一員で、民族解放戦線の強力な中央委の委員。民族解放戦線とハノイ政府との関係や戦いが終わった後のベトナムでの果たす役割など、多くの人が気にする質問が行われているが、本書では、民族解放戦線の基本綱領と政策で、多様な党派の存続を認めたり、混合経済の経済体制、外交政策での中立主義国家の樹立など、共産主義のハノイ政府との大きな相違点を著者は強調している。東欧や西欧の共産主義者たちとの非公式な懇談の話も興味深い。1954年ジュネーブ協定の成立後、北ベトナム政府の平和宣言が出された当時にもハノイにいたという東欧の共産主義者の話では、”われわれすべての同志が一体となって団結していたあの素晴らしい時代”を懐かしみ、「あのことはね、ロシア人も中国人も東欧諸国も、みんなが北ベトナムを立派に仕上げようと、一生懸命力を合わせた。みんなが北ベトナムを、一つのお手本か飾り窓、いわば共産主義がアジア、特に東南アジアにどんな成果をもたらしうるか、という一つの模範にしようと努力した」と語り、今は、共産主義陣営が分裂してしまっていることを嘆く。また、中国の近衛兵問題や党内権力闘争、ソ連との対立など、中国の危機に触れられている。
ファン・バン・ドン首相(1906年~2000年)との会談については、ファン・バン・ドンがベトナム戦争について著者に言いたかったことは、ハノイ側がみたベトナム紛争に対する米国の介入についての概要と、戦闘の結果がどうなっているかについて語りたかったと総括し、ファン・バン・ドンが米国軍部は軍事的勝利を達成出来ず、エスカレートする以外に真の選択の道はなくなっている、と見ていることや、北ベトナムには用意が出来ていて、計画を持っているし、この戦争は人民の戦争であり、やむを得ずやる人民の戦争は長期戦なのだと、ファン・バン・ドンが語っている。解決の問題については、外国で大変な論議が行われている「四項目」(①ベトナムの平和、独立、主権、統一、領土保全の承認の米軍の撤退 ②ベトナムの二つの地域に対する外部勢力の不干渉 ③民族解放戦線の綱領に従い、外国の干渉なしに行われる南ベトナム問題の解決 ④ベトナムの両地域住民によって解決されるベトナムの平和的再統一)についての話がされている。本書では、最後に、著者が北爆の効果にも疑問を呈し北爆問題への見解を述べているが、更に、中国における混乱が、北ベトナムに戦争を終結させる可能性を積極的に、しかも真剣に探求する用意があるようになってきていると見て、ベトナム問題の解決に向けたチャンスではないかと、「解決」の章で著者の見解をまとめている。尚、著者がハノイ訪問の時点では、重要な軍事目標物として、ハノイ市内のロンビエン橋があるが、まだ米機の爆撃は加えられていなかったことに不思議に思っているが、著者のハノイ訪問の半年後の1967年夏からはロンビエン橋が米機の爆撃の被害に遭っている。本書は北ベトナム入国ルポが本題ではあるが、本書の冒頭部分では、「ふしぎな国・ラオス」と題した文章で、”中立”の旗印のかげに隠れて、東南アジアの戦争の中でも最も野蛮な米機の空軍作戦がおし進められている奇妙なラオス的正常さ”と述べ、1960年代半ばのラオスについても触れている。
目次
ハノイからの電報
新しい冒険の世界へ/戦闘の拡大/中国の周辺/モリソン未亡人の手紙
おまわり
パリの雑踏/ 明日では遅すぎる/ くよくよしない
71人のアルバニア人
パリの空港で/ 変更された予定航路/ プノンペンへ
ハノイへの道
テラスの外交官たち/ 陽気な軍曹の話/ ふしぎな国・ラオス/ 敵の前線の背後へ
敵地に入って
禁止されたカラー写真/ 決意に満ちた町・ハノイ/ 置忘れたトップ・コート
革命博物館
恐ろしい武器/ 民族の英雄たち/ ホー・チ・ミン/ ディエンビエンフーの勝利
フォグエンチエプ街
爆撃のあと/ 労働者住宅街/ 大使館区域にも被害
「聖し、この夜」
ハノイのクリスマス・イブ/ ハノイ政権と教会/ 北ベトナムの仏教徒
爆撃に耐えて
国道一号線を南下/ 廃墟となったフーリーの町/ 野天に分散される軍需補給品
”軍事目標”訪問
ナムディンという町/ 消滅した文明都市/ ナムディンの神秘
「最悪に備えよ」
「3月8日繊維工場」/ ハノイの生活/ ベトナム最大のお祭
新年
東洋のバルビゾン/ 爆撃される農村/ ある尼僧の墓碑
子供たちの問題
戦争と学校/ 爆死した生徒たち/ 空襲とたたかう医療施設
10代の若者の戦い
ドン首相の言葉/ 高射砲手たち/ グエン・バン・チョイ/ 愛国の熱情
ジョンソン氏の「アジア計画」とは何か
ベトナム料理のご馳走/ 大砲とバター/ 防空壕にはいる
「北の社会主義、南の民主主義」
解放戦線の代表たち/ 解放戦線の基本綱領/ レ・ジュアン第一書記の演説/ 「兄弟間の問題」
血のように赤い壁
2人の共産主義者/ 細心に扱われる中国問題/ 二つの供給ルート/ しみついた独立意識
「きょうは意見が合わなくとも、あすは一致しよう」
3人の革命運動家/ ドン首相との会話/ ベトナム人の士気/ 「四項目」の意義/ 待機する義勇兵
ロンビエンの長い橋
天びん棒の婦人たち/ 私の報道に対する非難攻撃/ ”レージー・ドッグ”/ 北爆の効果/ ハノイの米軍捕虜
曲り角
北京の熱風/ 北ベトナムと中ソ/ 話合いの可能性
解決
困難な交渉/ 世紀のチャンス/ 平和への道
あとがき













