メコン圏を舞台とする小説 第31回 「アジアの隼」(黒木 亮 著)


『アジアの隼』黒木 亮 著、2002年月、祥伝社
『アジアの隼』(上・下) (祥伝社文庫、2004年10月)

本書は、1990年代後半のアジア金融市場で熾烈なビジネス攻防を繰り広げながらも市場に翻弄される3人の東洋人国際金融マンの姿をリアルに描いた長編国際経済小説。著者は、国際協調融資をテーマに邦銀と米国投資銀行との息詰まる主幹事争いを描いた長編国際経済小説『トップ・レフト』(祥伝社、2000年11月)でデビューを飾った国際金融の現場で長らく働く黒木亮氏だ。デビュー作『トップ・レフト』では副題に”ウォール街の鷲を撃て”とあったが、本作ではアジアを舞台に鷲”ではなく”隼”をタイトルに使っている。力強く大空を舞い行動がすばやく冷酷で獲物を鋭く狙い掴み取る鳥というのは、過酷な国際金融戦争を生き抜く企業や国際金融マンと、イメージが重なるだろう。

本書の登場人物の中での主人公は、まずは日本長期債券銀行に勤める真理戸潤だ。アジア市場が急成長を続けていた1990年代半ば、邦銀の香港支店プロジェクト金融課長としてアジアを担当していた真理戸潤は、ドイモイ政策で外国投資に沸くベトナム事務所開設を託され、1996年初、ハノイに赴任する。賄賂・たかりが横行する共産主義体制下で、ハノイ駐在員事務所開設に悪戦苦闘する真理戸潤は、出張で出かけたベトナム最南端、カンボジアとの国境間近の洋上に浮かぶフーコック(富国)島で出会った大手総合商社の重電機輸出部メンバーに請われ、ホーチミンから南東に6,70キロ離れたバリアでの巨大発電プロジェクトのファイナンスを持ちかけられ、この入札に参加することになる。

800メガワットの大型プロジェクトで約6億ドルとなるビッグ・ディール落札を目指し、熾烈な闘いを繰り広げる各国の企業連合。この巨大プロジェクトの入札をめぐり、邦銀ベトナム事務所の真理戸潤と日系商社の前に一人の男が立ちはだかる。アジア経済の暗部を渡り歩く大手米銀ハノーバー・トラストの香港現地法人の松本賢治ことヴー・スアン・シンだ。彼は元々サイゴンで生まれ育ったベトナム人で、10代の後半にボート・ピープルとしてベトナムを脱出し、苦労を重ねた末に日本名と日本国籍を取得した男だ。

残りの1人の東洋人国際金融マンとは、香港の地場証券会社ペレグリンの債権部長である韓国系アメリカ人のアンドレ・サクジン・リー。香港の地場証券会社「ペレグリン(隼)」は、1988年に創業し、華人人脈に加えトップダウンによる迅速な意思決定とリスクを恐れぬ積極性で、アジア・ブームの追い風を受け、短期間に急速にビジネスを拡大しアジアの王座へと駆け上がりつつあった。

まさに本書のタイトル『アジアの隼』という、この香港の地場証券会社ペレグリンは実在の会社で、日本を除くアジア最大の証券会社になったが、1998年1月突然倒産する。中国企業の香港上場で中心的な役割を果たしてきた同社の倒産の直接的な引き金は、インドネシアの運輸会社ステディーセーフ社への2億6千万ドルに及ぶ貸付の焦げつきであるが、同社の急速な拡大発展からタイ・バーツ暴落と通貨危機が香港の証券会社「ペレグリン」を揺るがし破綻に至るドラマも本書に詳しい。

著者は都市銀行に14年間勤務し、ロンドン支店国際金融課で国際協調融資、プロジェクト・ファイナンス、貿易金融などを手がけ、その後ロンドンの投資銀行に移籍しベトナム事務所開設にも携わり、総合商社英国現法でプロジェクト金融部長を務めるという経歴もあって、ベトナム政府から駐在員事務所開設免許取得に苦労するところや本社から会長が出席する駐在員事務所開設パーティの話、ベトナム人職員採用や事務所賃借契約など事務所開設の諸準備、商社や機器メーカーと取り組むインフラ・プロジェクト入札の様子、更に本社との間で行われる社内やり取りやベトナムからの研修訪日団の受け入れなど、本書で描かれる様々なビジネスシーンが実にリアルに描かれている。私事ではあるが、長年アジアのインフラプラント商談に携わり、高成長を続けるアジア市場ブームからバーツ暴落、アジア通貨危機に至る時期に、アジアの民活プロジェクトやインフラ事業に関わっていた私にとっては、本書は、当時の展開がありありと思い返される非常に感慨深い小説でもある。

パキスタン、インドネシア、タイ、香港、東京などの話題も登場し、ロンドンやシンガポール、スイスなども国際金融ビジネスのつながりから登場してくるスケールが大きいストーリーではあるが、本書のストーリーの主たる展開場所は、ベトナムで、なかでも主人公の真理戸が赴任するハノイだ。当時のベトナム投資ブームや、ベトナムの電力事情や発電プロジェクトについて詳しいだけでなく、主人公が暮らすハノイの町や郊外の様子も描かれている。また、主人公の真理戸は、入行後数年して銀行の研修生として留学したカイロで、帯同していた妻を病気で亡くしていたが、ハノイで別れた前夫が残した借金返済のためナイトクラブで働くベトナム人女性クインと出会い、愛を育んでいく。

尚、主人公の真理戸が勤める日本長期債券銀行とは、日本長期信用銀行をモデルとしていることは、明らかだ。苦労して開設したハノイ駐在員事務所の閉鎖により一旦東京に戻った主人公が、ハノイを訪ねるのは、真理戸がクインに出会ってちょうど2年たった1998年10月であった。そして本書での日本長期債券銀行のモデルとなった日本長期信用銀行は、同年10月23日に、日本政府(小渕恵三首相)が、日本長期信用銀行の国有化(特別公的援助)を決定、10月24日付で上場廃止、同年10月28日特別公的管理が公告され、正式に国有化となった。

本書の目次

プロローグ
第1章  黎明のアジア
第2章  火焔樹
第3章  キャリー・トレード
第4章  ホア・スア
第5章  事務所開設
第6章  引受グループ組成
第7章  タイ・バーツ陥落
第8章  日本激震
第9章  ルピアの闇
第10章  別離の季節
第11章  帝国の崩壊
エピローグ

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