メコン圏現地の民話・伝承 第1回「カンボジアの民話世界」(高橋宏明 編・訳)

メコン圏現地の民話・伝承 第1回 「カンボジアの民話世界」(高橋宏明 編・訳)


「カンボジアの民話世界」(高橋宏明 編・訳、めこん、2003年12月発行)

本書は、カンボジアの民話11編を収めているうえに、それぞれの民話の解説、更に後半部には、編訳者による「カンボジアの民話世界とクメール人の世界観」についての論考が掲載されている。編訳者が述べているが、「アンコール・ワット」に代表されるアンコール文明と、現代カンボジアの民衆文化との関連は少なく、そのうえアンコール地域から離れた村落に暮らす多くのクメール人にとっては、現在も過去もアンコール遺跡は遠い世界にある「聖地」にすぎず、現代カンボジアの農村文化は、「アンコール文明の栄華や壮麗さ」とは隔絶した世界にある。そして、クメール農民の間で語り継がれてきた民話に、クメール農民の世界観、思考様式、精神的世界などを知るてがかりがある。

 カンボジアの民話については、本書によれば、フランス文化人類学者の主導により、カンボジア全土に伝わる民話の採集と編纂のプロジェクトが1921年い開始され、最終的に「仏教研究所」より、1959年から1971年にかけて『クメール民話集』全9巻が刊行された。本書では、このなかから、11編の民話が選ばれ訳出されている。その選定にあたっては、現在のカンボジアにおいて、年配のものから若者まで、年齢を問わず、よく知られている物語を中心に、カンボジア王立芸術大学考古学部の学生やプノンペン国立博物館資料室の館員の意見を参考にしたとのことだ。

 本書では、動物の物語として6編、動物と人間の物語として2編、人間の物語として3編が収められているが、これら11編の民話は、どれも短く読みやすいが、更に各章に解題と題した解説が付されている。ここに収められた動物の物語では、水牛、ウサギ、オオカミ、カメ、カラス、シギ、ニシキヘビ、スズメ、トラが登場しているが、なんといってもウサギが頻繁に登場し、重要な役割を演じているのが特徴的だ。カンボジアにおけるウサギは、「知恵者」であり、「いたずら者」であり、裁判官として社会規範を説き弱者を助ける役柄で登場する一方で、「トリックスター」として既存の関係を引っ掻き回し、秩序を転換させている。ウサギの裁判官は動物の間だけでなく、本書のなかの「男が娘に結婚を申し込む」の話のように、本来は社会正義を体現するはずの人間の裁判官が強者に買収され不正に関与するに対し、ウサギの裁判官が人間の強者のたくらみを挫き人間の弱者を助けている。

 また、「村の水牛と森の水牛」「村のカラスが森のカラスに教える」「村のスズメと森のスズメ」といった具合に収められた民話のタイトルを見ただけで、すぐに気付く特徴として、「村」と「森」の対比がある。この点についても編訳者による詳細な解説が為されているが、本書後半部には、クメール人の空間認識としての「村」(スロック)と「森」(プレイ)とか、クメール人にとっての「森」についての論考がある。

 人間の物語として選ばれている「女の世渡り」という物語は、1人の女の生き方をめぐる話であるが、この女性は非常にしたたかで知恵があり危機に瀕しながらも世の中を生き延びていく。しかしここで賞賛されている女性というのは決して清廉な女性ではない。「夫を裏切り浮気をしている女」であり、情夫と結託して夫の命までも狙う女性だ。夫の命を狙う事に失敗し反対に情夫の死体の処理に困ると、今度は泥棒を利用する事を思いつき、彼らを罠に陥れる。その後も窮地に陥っても賢明に生き延びる女性の生き方が描かれている。

 こうした民話そのものの話のストーリーも面白いが、本書では語句の訳注が非常に親切で、特にカンボジア語の諺が面白い。訳注では、興味深い話も色々と紹介されており、1970年代後半に民主カンプチア政府(ポル・ポト政権)が、隣国ベトナムを批判して、「ワニ以上に忘恩の徒であるベトナム人」という言い方をしたことも紹介されている。ワニ(クロプー)は、餌をくれる飼い主にまで噛みつくような、「恩を仇で返す動物」とされていて、カンボジア語で「アー・クロプー」(ワニ野郎)といえば、「恩知らず」を意味するが、1970年から75年にかけて実行されたカンボジア革命のおかげでベトナムは対米戦争に勝利したにもかかわらず、その間にカンボジア併合を目指すような行動を裏でとっていたからだということだ。

本書の目次
はじめに
動物の物語
村の水牛と森の水牛/オオカミとカメ/カラスはシギの敵/村のカラスが森のカラスに教える/毒を吐き出したニシキヘビ/村のスズメと森のスズメ/解題
動物と人間の物語
欲張りな人/男が娘に結婚を申し込む/解題
人間の物語
二人の隣人/女の世渡り/怠け者の完璧な妻/解題

カンボジアの民話世界とクメール人の世界観
1.カンボジア近代史と民話の「発見」
2.フランス植民地以前のカンボジア社会と民話の世界
森と動物の物語/農民の世界観と価値観/民話に見られる人間関係
3.クメールの空間認識
「村」(スロック)と「森」(プレイ)/クメール人にとっての「森」

あとがき

著者略歴(本書紹介文より。2003年発刊当時)
高橋宏明(たかはし・ひろあき)
1963年、横浜市生まれ。中央大学大学院修士課程修了。プノンペン国立芸術大学講師、在カンボジア日本大使館専門調査員等を経て、現在、上智大学アジア文化研究所研究員。専攻=カンボジア地域研究、近現代史。訳書=『母なるメコン、その豊かさを蝕む開発』(リスベス・スルイター著、共訳、メコン、1999年)。著書=『アンコール遺跡と社会文化発展』(共著、連合出版、2001年)、『カンボジアの復興・開発』(共著、アジア経済研究所、2001年)

 動物(本書での訳注の一部)
水牛(クロバイ)
カンボジア語で「ポホ・クロバイ」(水牛の腹)といえば「食いしん坊」の意であり、「アー・クロバイ」(水牛野郎)とは「バカ野郎、愚か者」を意味する。水牛は、よく食べる愚鈍な動物と見られているのである。民話の中の水牛も、のろまで愚かな動物のイメージが強い。
ウサギ(トンサーイ)
ウサギは、すばやい動作の持主で、人間の世界(村)と自然界(森)の双方の空間を、自由にかつ軽快に行き来する。ちなみに、カンボジア語で、「チュー・トンサーイ」(ウサギの病気)といえば「仮病をつかう」の意味
オオカミ(チョチョーク)
現在のカンボジアにオオカミは生存していない。すでに絶滅したと言われている。しかし、民話には頻繁に登場する。民話の世界のオオカミは、鋭い牙を持ち、足も速いので、一見すると、森の強者に見える。ところが、しばしば自分よりも身体の小さな弱者にやり込められる存在として描かれる。身体的には強者の条件を備えているのだが、知恵が足りず、思慮に欠ける。
カメ(オンダエク)
カメは、身体が小さく、足も遅い。動作が鈍いことから、のろまなイメージを持たれている。しかし、民話におけるカメは、時として、したたかな存在として登場する。そうした性格が反映されたからなのであろうか、カンボジア語でもあまり良い意味はない。「モアット・オンダエク」(カメの口)は「全く意味のない、何の役にもたたない」、「メー・オンダエク」(カメの主人)は「やり手婆(売春等の斡旋をする女)」、「マダーイ・オンダエク」(カメの母親)は「子供を産みっぱなしで面倒を見ない母親」を、それぞれ表す。
シギ(クヴァエク)
水辺に住む。長いくちばしと脚を持つ。民話にはあまり登場しない。
カラス(クアエク)
カラスは人間にとって、身近な鳥であると同時に、不吉な鳥でもある。村と森の境界に住み、ウサギと同様に、「トリックスター」(いたずら者)の役割を担う事が多い。
ニシキヘビ(ポッ・トラン)
民話では、ニシキヘビの毒は猛毒とされ、人の足跡を舐めただけで毒による被害を受けるとされていた。ヘビは、その姿から狡猾で陰湿なイメージが付けられている。
トラ(クラー)
民話の世界において、トラは森の王者である。森では権力者であり、強者の象徴として描かれる。カンボジア語で「チューン・クラー」(トラに与える)といえば、「権力のある人には機嫌をとっておけ」を意味する。一方で、トラは野蛮な動物として見られている。「チエニュチェム・クラー」(トラを飼う、トラを育てる)とは、「恩知らずに恩を施す」という意味になる。

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