コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第34話 「漢字と泰・越語(1)」

漢字は多くタイ語をはじめとする南方系の古語をモデルに形・音・意味が考案された?

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第34話 「漢字と泰・越語(1)」

中国語を勉強する人たちは、かなり早い段階で「女」ヘンに「也」という字に遭遇することと思います。これは英語の「SHE」に相当する中国語の人称代名詞で、発音は「他」と同じです。1920年代の中国の流行詩人の劉半農が、英語の「SHE」にヒントを得て、従来男女を問わず三人称代名詞として使われてきた「他」という漢字から、とくに女性を示す専用の字として「女」ヘンに「也」という字を作り出したのでした。恋愛詩にはうってつけの字で、あれよあれよという間に、中国語の堂々たる三人称女性を表す不動の地位を確立したのですね。

劉半農という人は日本ではほとんど知られていません。しかし胡適や周作人とならぶ文学界の大物で、パリ大学で博士号を取り、内モンゴルのフホホトに方言調査に出かけた際に、熱病にかかって死にました。天津の『大公報』が、「シラミが劉半農を噛み殺した」と書いたので、この文句は当時の流行語になったと言われています。ともあれ劉半農が考案した「女」ヘンに「也」という字は、従来「他」の字で表されたそれに先行する「タ」という言葉があって、それに英語の「SHE」にヒントを得た女性原理を示す「女」ヘンをニンベンと取り替えてできた文字である。最も新しい漢字であり、漢字はそれが甲骨文字として発生した紀元前十四世紀と同じ、若々しい造字能力をいまだに失っていないと言えましょうか。

さて、中国語は市場の交易用語、つまりマーケット・ランゲージとして北方のアルタイ系の言葉と南方のタイ系の言葉が影響しあって発生したという説があります。人口の多かったタイ系の言葉がマーケット・ランゲージの基礎になったと岡田英弘氏は言います。たしかにタイ語は単音節語で中国語もそうです。そして文字言語である漢字もまた単音節でできています。金はトルコ語でアルティン、モンゴル語でアルタンと言いますが、タイ語ではカムと言います。銀はタイ語ではングァーン。また言語学的な論理の操作で推定された音ではない、現存する漢字の発音ではもっとも古い音と思われる漢字のベトナム音では、金はキム、銀はンガンと発音されます。文字言語の前には必ず音声言語が先行します。金や銀などの貴金属においては漢字に先行する音声言語として単音節のタイ系の言葉があり、漢字は多くタイ語をはじめとする南方系の古語をモデルに形・音・意味が考案されたのではなかったでしょうか。

殷という王朝は紀元前17世紀ごろから、黄河流域に帝国を形成し始め、甲骨文字が生まれたのは前にも触れたように紀元前十四世紀とされています。殷帝国六百年にわたって揚子江の流域を含めてそれから南方の地域には、タイ系、ベトナム系、モン・クメール系、それに苗(HMONG)族が住んでいたとされています。「南蛮」の「蛮」とは苗族の自称「MANG」がモデルとなった文字言語であると言われます。ところで揚子江は古代においては「江」とだけ呼ばれ、この字の古い音はクラウンで、川を意味するモン語のクルン、チャム語のクラウンにつながり、紀元前千年紀に漢字の文化が揚子江の流域に及んだときに、モン・クメール系の言葉でクラウンと呼ばれていた川を対象に、原語の発音を「工」という音符に写しとり、サンズイをつけて「江」の字が作られた、とはビルマのモン人のナイパンフラ博士(博士の名前は耳で聞くとネバラと聞こえる)の説である。実に「江」の字はモン語のクルン、チャム語のクラウンにつながる古語としてのモン・クメール系言葉がモデルになって作られた文字言語ということができますね。

 香港やシンガポールの街では、父という意味を表す漢字に、「父」を上に「巴」を下に組み合わせた字があります。「パ」と発音するので語源は英語のパパかなと思っていたら、実は違うのですね。『康煕字典』を見ると、この字が載っていて、「夷の言葉で老人をパパと称し、後世の人が巴の上に父を加えた文字を作った」と説明がありました。さらに「呉人は父をパ(父+巴の文字)という」との古典の引用もあって、どうやら揚子江下流域の呉の地方で優勢な民族の言葉が先行する音声言語として、この字のモデルとされたようです。また漢字の「不」はベトナム音ではバッと読み、僕は北タイ・東北タイ・ラオスで話されるタイ語のボにつながり、ボという言葉の古語を音声言語のモデルとして形成された文字言語ではないかと思います。以下、つれづれなるままに、多くの漢字を取り上げ一緒に考えてみましょう。

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