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「歴史舞台としての中国西南部・南部」第6回「諸葛孔明の南征と西南夷」
- 2000/9/10
- 企画特集, 関連世界への招待「中国西南部・南部の歴史舞台」
中国史と西南夷(三国時代)
三国時代の蜀漢と西南夷(古代中国の四川省西南、貴州、雲南の各少数民族)
「歴史舞台としての中国西南部・南部」
第6回「諸葛孔明の南征と西南夷」
日本でも相変わらず根強い人気のある「三国志」であるが、『三国志演義』には、蜀の宰相・諸葛孔明の南征と、「七擒七縦」(七たびとらえ七たびはなす)の故事で知られる雲南の少数民族の首領・孟獲との交戦の様子が描かれている。秦、漢の時期、現在の四川省西南、貴州、雲南の各少数民族は西南夷と称され、漢の時代は、中央に対し服従と反抗を繰り返していた。後漢末から益州(四川省から雲南省までを含む地域)を統治した劉焉・劉璋父子、蜀漢の劉備の時代は、当地の豪族や少数民族の首領などの当地勢力が大きかったものの、この益州南部の西南夷の地方に、官吏を派遣していた。
しかし紀元223年に劉備が病死し、劉禅が即位すると、蜀の益州郡(雲南省昆明県)で、土地の豪族・雍闓が、太守・正昻を殺して叛乱を起こした。同郡の少数民族の首領・孟獲や、越嶲郡(四川省西昌市一帯)の少数民族の首領・高定元、牂牁郡(貴州省西部)の太守・朱褒も呼応し、蜀への公然とした叛乱の規模は拡大していった。しかし夷陵の敗戦で蜀の国力は弱っており、諸葛孔明はすぐには討伐の兵を出すことはしなかった。内政の整備に力を尽くし国力を回復させ、また対外的には呉と再び友好を結んで、側面からの脅威も取り除いた。
こうして叛乱勃発から2年後の紀元225年春、諸葛孔明は自ら大軍を率いて出征した。蜀軍は兵を3方面に分け、馬忠に命じて牂牁郡(貴州省西部)に向かわせ、李恢に命じて益州郡に向かわせ、諸葛孔明自身は、西路の主力軍を率いて成都を出発し、岷江に沿って南下、安上(四川省屏山)を経て越嶲郡(四川省西昌市一帯)に入り、まず高定元を攻めた。雲南東部から高定元を支援に来ていた叛乱の首謀者・雍闓は、反乱軍の内紛で高定元の部下に殺されてしまい、諸葛孔明の軍は、反乱軍内部の混乱に乗じ、一挙に越嶲を攻め、高定元を殺した。
孟獲は残余の兵を率いて雲南に逃げ、益州郡(雲南省昆明一帯)に拠り、頑強に抵抗を続けた。諸葛孔明は、同年5月、瀘水(現在の金沙江)を渡り、李恢の軍と合して孟獲を攻めた。この交戦の時、孔明は孟獲を7回捕らえるも、自らの軍の陣形を見せて7回釈放したという故事が「七擒七縦」である。こうして同年秋には叛乱を平定し、その後この地方の行政区画の改正を行った。諸葛孔明はこの南征の成功後、紀元227年有名な「出師の表」を皇帝・劉禅に上奏して、魏と戦うべく北征の途につくことになる。
諸葛孔明の南征に際し、「出師の表」の中で「5月、瀘を渡り、深く不毛の地に入る」と述べているが、その渡河地点は現在のどこにあたるのであろうか?また孟獲(故事の通り本当に7回捕らえ放たれたかは別として)を捕らえた場所は現在のどこにあたるのであろうか?このことは、三国志ファンや旅行好きの方ならば、非常に興味があることだと思うが、この疑問に答えてくれる本が、『三国志歴史紀行』(龔学孺 著、人民中国雑誌社日本語部 訳、尚文社ジャパン、1994年発行)だ。この本によれば、渡河地点については諸説あるが、雅礱江と金沙江の合流点にある攀枝花市であろうという(市の東南約60kmの拉鮓)。同書ではこの拉鮓一帯に伝わる孔明と孟獲に関する興味深い故事「饅頭祭江」も紹介されている。また孟獲を捕らえた場所については、一般にいわれていた雲南省西部・大理の天生橋ではなく、孟獲の家郷・建寧(現在の曲靖市)あたりであろうとしている。三国志演義の影響で清代に大理に「漢諸葛武候擒孟獲処」と彫られた碑が建てられたが、当時、大理は雲南西部の永昌軍の太守・呂凱の勢力に属しており、呂凱は蜀に忠誠で雍闓や孟獲の叛乱に断固反対抵抗していた人物であった。孟獲が四川から雲南に逃げる時、わざわざそのような敵の場所に向かうはずがないというものだ。曲靖市は、昆明から東北167kmにある大都市で、町から北に5キロ行った白石湖畔には、1987年に完成した大レリーフがあり、結盟の杯を挙げている諸葛孔明と孟獲を中心に、漢族と少数民族百余人が彫ってある。
尚、孟獲は後に成都で、「御史中丞」という中央監察官に任ぜられたという。
主たる参考文献
『諸葛孔明』(植村清二、中公文庫)
『三国志歴史紀行』(龔学孺、尚文社ジャパン)
●関連ワード
■蜀(紀元221年~263年)
207年、諸葛孔明(181年~234年)が劉備(161年~223年)に仕え、翌208年、呉の孫権(182年~252年)と連合して赤壁の戦いで曹操(155年~220年)の魏を破る。209年荊州を領有し、劉備は荊州の牧(長官)の地位につく。214年には後漢皇室の名族・劉焉の子で、益州の牧で劉璋(?~219年)から益州を奪うが、翌215年には荊州の領有をめぐって呉の孫権と対立。結果同州を分割することで和解。
219年、定軍山の戦いに勝利して魏の曹操から漢中を奪い、劉備は漢中王を称する。
220年後漢(25年~220年)が滅亡し魏王朝が成立すると、翌221年劉備は蜀を建国し皇帝となる。
しかし263年、劉備の子・2代目皇帝の劉禅が魏に降伏し蜀が滅亡する。