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メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第2回 「風景のない国・チャンパ王国」(樋口英夫 写真・文)
- 2000/1/25
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メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第2回 「風景のない国・チャンパ王国」(樋口英夫 写真・文)
「風景のない国・チャンパ王国」ー遺された末裔を追ってー(樋口英夫 写真・文、平河出版社、1995年11月発行)
〈著者紹介〉樋口英夫(ひぐち・ひでお)
1948年、北海道小樽市生まれ。日本大学文理学部、東京総合写真専門学校卒業。報道写真家。日本写真家協会会員。 日本及びアジアの伝統的な暮らしを続ける人々を対象に取材をしている。主な著書に、『日本の鰊漁』(マリン企画)『ビルマ黄金のパゴダ』『法然を歩く』(以上、佼成出版社)『タイ黄衣のゆらぎ』『海の狩人』(以上、平河出版社)など
昨年(1999年)11月に、めこん社から『チャンパー歴史・末裔・建築』と題した本が、チャンパやチャム族にはまりこんだ3人の著者の手によって発行された。その一人である写真家の樋口英夫氏が、チャム族を中心とするチャンパの末裔の現在の生活・暮らし・表情を追いかけた記録が、本書である。著者が1992年から1994年にかけ、カンボジア、ベトナム、日本、中国・海南島、マレーシアの地でチャンパの末裔たちと交わった記録が、60ページ以上にわたってのフルページカラー写真とともに綴られている。まず末裔たちがこれほど広い地域に暮していることに驚かされるが、加えてアメリカ、カナダ、フランス、オーストラリアなどにも多くのチャム人が暮しているといわれる。
そもそも著者がチャンパにはまり込む発端は、カンボジアのアンコール・トムの中心寺院・バイヨン寺院の回廊に刻まれた鳥の姿をした不思議な船に乗るチャンパ兵士の浮き彫りにあった。そして同じカンボジアにチャンパの末裔が暮していることを知り、懐古趣味的なものではない、20世紀のチャンパ王国を表現したいと思い始めた。そして、プノンペンから約10kmの距離にあるチランチャレム村、オーリセイ村(プノンペンから80kmほど離れたノン・リアル・ムスリムのチャム人たちが住む村)を皮切りに、チャンパの末裔が散らばるアジア各地を訪れていく。
動き回ることが好きだと言う著者は、チャンパの末裔が散らばる各地で、興味深い話しをいろいろと集め、さまざまな得難い機会に立ち会っている。クメール・ルージュの豚肉を踏絵にしたムスリム狩りやモスク(回教寺院)破壊、強制的に異教徒と結婚をさせるなどのポルポト時代の宗教弾圧、15世紀頃に東南アジア一帯に広まったイスラームの古い形が、19世紀のイスラム原理主義運動の影響を受けずに、村人たちの間に土着化し行き続けてきたとみられる「バニ」という信仰の形、チャンパ王家の血を引く「女王」と、それを証明する古文書、先祖がチャンパから200年前の巻物、チャンパ文字とチャム語、ベトナムとカンボジアに離れ離れになってしまったチャンパの末裔が受け継いでいる伝統楽器と音楽、山地民とチャム人を中心に1964年ベトナム国内で結成された反ベトナム武装ゲリラ組織・FULRO(フルロ)、現在のカンボジア政治指導者たちのチャムへのスタンス、日本軍と海南島のチャム人たちとの関わり、などなど、興味深いテーマ・トピックスがふんだんに同書で紹介されている。また精霊「チャイ」への感謝の踊りやチャンパの正月「カテ」の儀式に立会い、海南島では、漢民族との衝突事件(1994.3・23事件)現場に居合わせることになる。
コンポンチャム出身で、タイのカオイダン難民キャンプ、パナニコム・キャンプを経て神奈川県大和市の難民定住促進センターに入所していたという日本で生活するチャム人と彼の家族との交流も、彼らの13年ぶりのカンボジアへの一時帰国に同行までしており、著者のチャムへの食い込みの深さが感じられる。報道写真家という職業柄とはいえ、同じ村に通いつづけ、あえて同じ道だけを歩き回って村人に自分を印象付け、顔なじみをつくろうとしたり、丹念な調査と問い合わせを欠かさないその姿勢・スタイルがあればこそ、興味深い話しをいろいろと聞き出し、またさまざまな得難い機会に誘われたり遭遇できたりするのだと思える。
同書で紹介されている土地の今後の変化だけでなく、今回触れられていないタイ・バンコクのチャム人集落(チュムチョン・バーンクルア)、更には地名にチャンパ・チャムが付いているラオスのチャンパサック(チャンパの栄光・誉という意味)やカンボジアのコンポンチャム(チャムの港という意味)にも是非著者に訪れていただき、チャンパ・チャムの観点からこれらの土地やそこに住む人々がどうあるのか紹介してほしいと願っている。
尚、著者がチャンパにはまり込むきっかけとなった、バイヨン寺院の鳥の船の浮き彫りについて、著者は、2つの理由を挙げて「鎮魂船」ではないかと解き明かしている。
ー 『風景のない国・チャンパ王国』の目次 ー
発端 鳥の船に乗った兵士(1992年4月)アンコール遺跡/チランチャムレ村(カンボジア)
第1章 豚肉の踏絵(1993年2月)チランチャムレ村/古都ウドン/オーリセイ村
第2章 50ドルの国(1993年7月)日本
第3章 聖地の朝食(1993年5月・11月・12月)聖地ミソン(ベトナム)、三亜(中国・海南島)
第4章 地平線に消える湖(1993年12月)プノンペン近郊のチュルイチュンワ村(カンボジア)・ トンレサップ湖岸の漁村・チョンクネアシュ(カンボジア)
第5章 楽園の弾圧(1994年3月・4月) 中国・海南島、香港
第6章 バラモンの正月(1994年10月)ホーチミン、ファンラン「チャム文化センター」・ホウドック村第7章 ミシェルのピンナップ(1994年10月)チュルイチュンワ村(カンボジア)、コタバル(マレーシア)
あとがき(1995年9月)
本書での関連紹介情報の一部抜粋引用
●ポルポト時代に破壊されたモスクの数は144、仏教寺院は1968であったと、後のヘン・サムリン政権発表(第1章より)
●チャム人は、モンドルキリ、コンポンスプー、ラタナキリの3州を除いたカンボジア全土に約200のモスクを中心に独自の村を作って暮している (第1章より)
●1993年の総選挙のために、UNTACが行った人口調査によれば、カンボジア国内のチャム人の有権者数(成人)は28万人になっている(第1章より)
●カンボジア各地で破壊されたモスクは、1982年頃から徐々に再建され始めた。建設資金は、難民として国外に暮らすチャム人やイスラーム諸国からも寄せられてくるが、大部分はカンボジアに住むチャム人の喜捨による(第1章より)
●ベトナムのポートピープルを乗せた漁船が出港した港は、メコンデルタの「カントー」や「ミトー」「ホーチミン」、さらに北へ上がった南シナ海沿岸の「ファンティエット」「ファンラン」「ニヤチャン」「クイニョン」などだ。この南シナ海沿岸の港のどれもが、かつてこの一帯を支配していたチャンパ王国が、1000年も昔に切り拓いた貿易港だった。「海のシルクロード」の要衝にあったチャンパは、東西交易の中継基地として、また沈香(香木)や象牙などの森林産物や陶磁器などの輸出国として栄えていた。(第3章より)
●こうした動乱の時代に(宋から元にまたがる11~13世紀)、祖国を棄てて海南島に新天地を求めたチャンパ人たちのことが、『欽定古今図書集成』という中国の古い記録に記されている。(第3章より)
●日本軍が海南島に上陸したのは1939年2月のことだった。・・・ベトナムやビルマから昆明、重慶にのびる中国への支援ルート(援蒋ルート)を封じる目的で、海南島に航空基地が建設されたのだ。しかし結果的にはあまり意味がなく、むしろ島の占領は、豊かな地下資源の獲得と、インドシナを視野にした「南進」の足がかりという目的にかわっていった。(第5章より)
●チャンパの伝説的な国王「ポー・グロン・ガライ」の末裔が住むチャム人の村「ホウドック」でもカテがある。カテ前日には、「ラグライ人」たちが、宝物とされているチャンパの女王の古い衣装を携えてホウドック村へやってくる。・・・・・かつてチャンパは、各地の王がいて、その小王国の連合体がチャンパ王国を形作っていたらしい。・・・チャム人以外にも、「ラグライ」「エデ」「チュル」「コホ」「フロイ」「バナール」「ジャライ」「カトゥー」といった、ベトナムの山地に住む人たちもチャンパ王国を構成していた仲間なのだ。(第6章より)