メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第24回「危機に立つアンコール遺跡」(井川一久 編、写真: 金井三喜雄・高津守

メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第24回「危機に立つアンコール遺跡」(井川一久 編、写真: 金井三喜雄・高津守)


「危機に立つアンコール遺跡」(井川一久 編、写真: 金井三喜雄・高津守、朝日新聞社、1990年3月発行)

井川一久(いかわ・かずひさ)1934年生まれ。朝日新聞東京本社編集委員。
石澤良昭(いしざわ・よしあき)1937年生まれ。上智大学教授。
金井三喜雄(かない・みきお)1944年生まれ。朝日新聞東京本社写真部。
高津 守(たかつ・まもる) 1956年生まれ。朝日新聞東京本社写真部。
(本書紹介文より。本書発刊当時)

アンコール遺跡群の修復作業は、1970年以来のカンボジア内戦、ポルポト政権時代、1979年以降のカンボジア武力紛争により、長らく中断されていたが、上智大学アジア文化研究所は1989年3月、石澤、千原両教授と河野靖講師(元ユネスコ本部アジア文化部長)からなる初の本格的な調査団を現地へ派遣。アンコール遺跡は荒廃の一途をたどり、その多くは全面崩壊の危機にさらされていることを確認。この調査団に朝日新聞社からと井川一久編集委員と金井三喜雄写真部員が加わり、更に朝日新聞社は、1989年9月、井川一久編集委員と高津守写真部員をアンコール現地に派遣。そして1989年10月に、東京で金井・高津両氏が撮影した「危機に立つアンコール遺跡」の写真展が開かれた。本書の写真集は、写真展の展示写真を中心に、アンコール遺跡群の全貌を紹介し、その救済を訴えるものとなっている。

アンコール遺跡は、1992年、ユネスコの「世界文化遺産」に登録され、緊急の救済措置が必要とされる「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録された。その後、日本を初めとする国際社会からの遺跡保存修復活動の結果、2004年7月の第28回世界遺産委員会において「危機にさらされている世界遺産リスト」からの除外が決定されている。本写真集の写真は、国際的な遺跡保存修復活動が再開される前の1989年当時のオールカラー写真ということで、アンコール遺跡群や彫刻群の美しさを紹介する写真も少なくないが、アンコール遺跡の1989年当時の荒廃状況を伝える問題の写真が、本書の発行目的からいっても、当然数多く掲載されている。

写真集は、アンコール・ワット、アンコール・トム、アンコール遺跡複合体、それに珠玉の彫刻群、という4編に分かれているが、荒廃し危機に瀕していたアンコール遺跡の問題状況については、巻末に、井川一久氏による『亡びゆく美神の涙』と題した詳しい解説文が付されている。この井川氏の解説文では、まず「栄光から悲劇へ -波乱の運命」と題した文章に始まり、1986年のカンプチア人民共和国政府との6ヵ年協定にもとづくインド政府によるアンコール・ワット修復保全事業の有様にも触れて、アンコール・ワットや、アンコール・トム、更にはその他の遺跡群の荒廃状況とその原因について詳細な報告が為されている。遺跡の荒廃を招いた原因については、浸水・日射の繰り返しによる鱗剥、カビによる腐蝕・砂泥化、コウモリの排泄物の硫酸化による石材侵蝕、基盤に浸み込んだ水が石組みを土台から狂わせたり、壊れかけた石組のすきまに入り込んだ樹木の根と幹が石材を動かすこと、「とろけ」(酸性水などによる溶崩)、更には不時の天災、戦災とポル・ポト時代の人為的破壊、彫像やレリーフの盗掘などが、挙げられている。

アンコール・ワットの写真では、バクテリアの繁殖で黒ずむ第1回廊西面、砂泥化した本殿の石材、1970年代に落雷で崩れ落ちたアンコール・ワット第2回廊南面塔門、デバダー(女神)の群像で名高い第2回廊内壁のカビの侵食、鱗剥現象で痩せ細る石柱基部,中回廊の列柱を横から支える一本石の梁材折損などの写真が紹介されているが、とりわけ、第2回廊内壁の剥落する壁面彫刻の写真は痛ましい。第1回廊の屋根を洗浄で白く変色させたりしたインド隊の修復作業に関わる写真も収められている。

アンコール・ワットだけでなく、アンコール・トムとその周辺の遺跡の大半が、当時、崩壊の危機にあり、これらの状態を示す写真掲載も少なくない。バイヨン本殿の石組みの乱れは全構造に及び、中央塔仏面の1つは崩落しており、バイヨンの石材はおおむねカビに侵され、第1,2回廊のレリーフは半ば崩れ去り、堂塔は外側へ大きく傾き倒壊寸前。アンコール・トム城内の三層ピラミッド型寺院バプーオンや古王宮内部に建つピミヤナカの上部は崩れ落ち、象のテラスや癩王のテラスでは壁面彫像とクメール碑文が各所で剥落している。南大門や勝利門などの城門にも危機の兆候が見えている。

アンコール・ワットとアンコール・トムで進行していた荒廃の危機は、両者以外の遺跡では更に深刻で、12世紀末の大寺院プリヤ・カーンは半ば崩壊状態で、とりわけ目立つのが、樹木の繁茂によるジャングル化と彫刻類の人為的破壊・紛失とのことだ。「多様の美 アンコール遺跡複合体」の章では、バンテアイ・スレイ、バコン、プリヤ・コー、タ・プローム、ロレイ、タ・ケウ、プリヤ・カーン、トマノン、チャウ・サイ・テボダ、スラ・スラン、プラサット・クラバン、西バライ、ネアク・ポアン、東メボン、バンテアイ・クデイ、プレ・ループと数多くの遺跡の写真が掲載されている。

「『クメールの微笑』珠玉の彫刻群」では、プノンペンの国立クメール美術・考古学博物館に収蔵されている珠玉の彫刻群が紹介されている。シエムレアプ市にあるアンコール遺跡保存事務所の収蔵庫の写真もある。キャプションには”カンボジア戦争終結の1975年4月、ここには7675点の彫像があったが、ポル・ポト時代に3678点が紛失した。その後、盗難防止のため遺跡群から集めたり、タイ国境で密輸中のものを押収したりして、1989年9月現在の収蔵品は7396点。”とある。

本書の目次

はじめに
人口の小宇宙-アンコール・ワット
世界都市 -アンコール・トム
多様の美 -アンコール遺跡複合体
「クメールの微笑」 ー珠玉の彫刻群
亡びゆく美神の涙  井川一久
クメールの美学  石澤良昭
カンボジアの歩み

本書 はじめに

石たちが泣いている。-カンボジアの、いや全人類の至宝ともいうべきアンコール遺跡群の石たちが。1989年3月、上智大学アジア文化研究所の調査団は、かつての大クメール王国の栄光を物語るこの世界最大級の石造文化遺産たる、アンコール遺跡群が、1970年以来の戦乱や異様な「文化否定」政権の支配による修復保存事業の中断のため、東南アジア随一の美しさで知られる彫刻もろとも荒廃の一途をたどり、その多くは全面崩壊の危機にさらされていることを確認した。

「現状のままでは長くて5,6年しかもたない」と、調査団長の石澤良昭教授はいう。これは朝日新聞社から調査団に加わった私と金井三喜雄写真部員の印象でもある。大規模な国際協力による修復保全事業の再開は、文化を愛する人々にとって急務中の急務であろう。

朝日新聞社は、1989年9月、石澤調査団の調べ残した一部遺跡の状況を知るため井川一久氏と高津守写真部員をアンコール現地に派遣し、同年10月には東京で両写真部員のカメラがとらえた「危機に立つアンコール遺跡」の、日本では1970年代以来初めての写真展を開いた。この写真集は、その展示写真を中心にアンコール遺跡群の全貌を紹介し、その救済を世界の文化的良心に呼びかけるものである。

1990年2月  朝日新聞編集委員  井川一久

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