メコン圏を舞台とする小説 第47回「クメールの瞳」(斉藤詠一 著)


「クメールの瞳」(斉藤詠一 著、講談社、2021年3月発行)

<著者紹介> 斉藤詠一(さうとう・えいいち) <本書著者紹介、本書発刊当時>
1973年、東京都生まれ。千葉大学理学部物理学科卒業。2018年、『到達不能極』で第64回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。

本書『クメールの瞳』の著者・斉藤詠一氏は、1973年生まれで、小説家を志したのは千葉大学在学中の頃で執筆を始め、5度目の応募で2018年にデビュー作『到達不能極』で、推理作家の登竜門と呼ばれる第64回江戸川乱歩賞(日本推理作家協会主催)を受賞。本書『クメールの瞳』は、江戸川乱歩賞受賞のデビュー作刊行から約2年半後の2021年3月に講談社より刊行された待望の2作目長編作品。2023年6には講談社文庫も刊行。デビュー作同様、現代の物語ながら、いろんな史実エピソードをうまく活用しながら密接に絡む、良く練られた構成で、世界を股にかけ時を超えて繰り広げられる、不思議な力を持つクメールの謎の遺物探しの冒険ミステリー。

本書のストーリーの謎を追っていく中心人物は、30歳の平山北斗で、都内の中堅IT会社に勤めながら兼業でカメラマンをしている。その兼業カメラマンの平山北斗が、神奈川県のとある海岸で、鳥の撮影をしている時に、「預けたいものがある」と突然、学生時代の恩師で東京の郊外にある南武大学理学部鳥類学研究室の樫野星司教授から、謎の電話を受け、その数日後に、樫野星司教授は野外調査中に崖から落ち不審死を遂げる。樫野星司教授の不審死の直前の電話の内容が気になる平山北斗は、学生時代からの十年来の友人の栗原均、大学は別の大学ながら学生時代から良く知っていた、少し年下の樫野星司教授の一人娘・樫野夕子と、樫野星司教授の研究室で教授の遺品整理をしながら手がかりを探す。

この平山北斗の友人・栗原均は、平山北斗と一緒に南部大学理学部鳥類学研究室に在籍し恩師が樫野星司という関係。勤めていた科学雑誌の出版社から独立し、フリーライターになり、主にミリタリーやオカルト関係の記事を書いていて、その知識も大いに活かされていく。また、この樫野星司教授の研究室での遺品整理には、アメリカの大学の若手研究者で日本に長期滞在しているエルザ・シュローダーという女性も一緒に参加。エルザ・シュローダーは、海鳥の研究をしていて樫野星司教授にアドバイスをもらっていたが、樫野研究室に出入りする手続きなど、英語のできる樫野夕子が手伝った縁で夕子とは親しくなっていた。

そして、平山北斗たち4人の若者は、謎の数字が書かれたメッセージと、古びた布袋から小さな骸骨の人形をみつける。この骸骨の人形の服の下には、小さな紙のタグがしまい込まれていたが、フランス語が読めるエルザ・シュローダーが紙のタグに記された文字を解読し、それによると、1866年12月、サイゴンにて、フランス人探検家のL・ドラポルトが、友人の日本派遣軍事顧問団のF・デンクール陸軍中尉から受け取り所持していたものと分かり、代わりにペンダントを渡したとも書かれていた。これらは一体何を意味するのか? 真実を追う平山北斗たちの前に、思いもよらないクメールの「秘宝」の争奪戦が繰り広げられることになる。

本書のストーリーの主たる展開は、現代の日本で進んでいくものの、本書タイトルがそもそも「クメールの瞳」とあるように、不思議な力を持つクメールの「秘宝」を巡る展開が本書の柱でもあり、またメコン圏に関わる興味深いテーマやトピックスがいろいろと散りばめられ、見事に絡みあったプロットが練りあがっている。まずは、序章に続いた本書の第1章の冒頭部分が、1866年、インドシナ半島南部 フランス領コーチシナの設定から始まっている。サイゴン港に設けられたフランス海軍工廠内の士官食堂の海を望むテラスで、フランス植民地帝国学術調査隊の隊員として、この地に派遣されてフランスのメコン川探検隊に参加しカンボジアを探ったフランス海軍少尉ルイ・ドラボルトが、フランスのメキシコ出兵から戻り、日本への陸軍軍事顧問団として幕末の日本に向かう、古い友人、フリエ・デンクール陸軍中尉と会う場面から始まる。

このフランス海軍少尉ルイ・ドラボルト Louis Delaporte(ルイ・ドラポルト(1842~1925)は実在人物で、1866年、ドゥダール・ドゥ・ラグレ海軍大尉(1823~1868)率いる(副官はフランシス・ガルニエ(1839~1873))メコン河流域の踏査(メコン川探検隊)に加わり、途上にアンコールの廃墟を目撃し、1873年にはアンコール遺跡調査を主な目的とした第2回メコン川探検隊を組織し隊長としてカンボジアを再訪。帰国後、初めてまとまった研究報告を著し、アンコールの考古学的・美術史的解明の端緒をつけた人物。1873年,第2回カンボジア遺跡探検隊長として沿岸の諸遺跡,住民の風俗,口碑伝説などを調査,ついにアンコール遺跡に到達したドラポルトの紀行文でアンコールに関する古典的名著も、日本語書籍で確認できる。<「アンコール踏査行」(ルイ・ドラボルト著、三宅一郎 訳、平凡社東洋文庫)> 

本書ストーリーは、太平洋戦争下の1944年の東京にも舞台を移すが、ここでは、大学で東洋美術史を専攻し、東洋、主に東南アジアの文化財の収集と調査研究を担当する東京・上野の東京帝室博物館勤務スタッフが登場する。1940年9月の日本軍の北部仏印進駐、1941年7月、南部仏印進駐があり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)と当時ベトナムのハノイにあったフランス極東学院との間で文化財の交換事業の史実が紹介される。1943年には東京帝室博物館からハノイのフランス極東学院に日本の文化財が送られ、1944年には、ハノイのフランス極東学院から東京帝室博物館にクメールの彫刻、陶器、金工などが送られた史実が、本書のストーリーにも絡んでいる。

更に、本書ストーリーは、ベトナム戦争末期の1975年3月のクメール共和国南部のジャングルにも舞台を移す。ここでは、1973年のパリ和平協定に基づき南ベトナムからアメリカ軍戦闘部隊が撤退するが、その後も、特殊作戦や工作活動に関わる日系三世のアメリカ陸軍兵士が登場し、山岳地帯の少数民族・モンタ二ヤードとともに、しばしばラオスやカンボジアへ潜入する。このアメリカ軍兵士もストーリー展開でその後も重要な関わりも持っていく。この1975年3月という時期は、1970年3月18日にロン・ノル主導のクーデターで王制を廃止してカンボジアに成立したクメール共和国の末期で、翌月の1975年4月17日には、カンプチア民族統一戦線が首都プノンペンを占領しクメール共和国は崩壊。

引き続き、本書ストーリーは、1975年4月のベトナム共和国の首都サイゴンが舞台となるが、1975年4月30日のサイゴン陥落、1955年10月20日に南ベトナムに成立していたベトナム共和国崩壊の直前の時期。その後も1994年のハイチへのアメリカ軍の軍事介入とにアメリカ合衆国フォート・ドラム陸軍基地や、シリアなど中東にもストーリーの舞台が広がる。メコン圏との直接の関係ではないが、ストーリー展開の上で、ナポレオン三世(1808年~1873年)によるフランス第二帝政(1852年~1870年)下での幕末の日本への第一次フランス軍事顧問団(1867年~1868年)の話が非常に重要なポジションを占めている。

徳川幕府は洋式軍隊を創設するため、慶応2(1866)年、パリにおいてフランスから軍事顧問団を招く契約を結び、第一次フランス軍事顧問団は 1866年11月19日(慶応2年10月13日)マルセーユを出発,アレキサンドリア―スエズ間を列車で,スエズから船に乗り,シンガポール、サイゴン、香港を経由し、およそ2ヶ月の行程を経て,シャルル・シャノワーヌ大尉(1835-1915)以下十数名が1867年1月13日(慶応2年12月8日)横浜に到着。幕府が慶応元年末から設営を行っていた兵営の太田村陣屋に入り,幕府の伝習隊に歩兵・砲兵・騎兵の三兵の訓練を行った。第1次顧問団は旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで敗北した後に廃止され、帰国したが、ブリュネ大尉をはじめ顧問団の一部は、明治政府成立後も幕府側に加担し、戊辰戦争に参加している。

目次
序章
第1章 遺物
第2章 端緒
第3章 因縁
第4章 暗雲
第5章 約束
第6章 継承
第7章 疑惑
第8章 誤算
第9章 真相
第10章  天眼
終章

関連テーマ・ワード情報
・ルイ・ドラポルト(1842年~1925年)とメコン川探検隊
・幕末のフランス陸軍・日本派遣軍事顧問団と伝習隊
・東京帝室博物館(現・東京国立博物館)とフランス極東学院との文化財交換事業

ストーリーの主な展開時代
・現代のある年(2018年か?)の初夏から夏の終わり頃、更に2ヶ月後まで
(*樫野教授のフィールドノートの日付が2018年であることから、2018年と推定)
・1866年 ・1868年 ・1944年 ・1975年 ・1994年
ストーリーの主な展開場所
・神奈川県(丹沢の山中、鎌倉、県内の海岸)・東京都内各所(新宿・上野・六本木など)
・会津地方
・インドシナ半島南部フランス領コーチシナ(1866年)
・小山宿、宇都宮、会津(1868年) ・東京(上野)(1944年)
・クメール共和国南部(1975年3月) ・ベトナム共和国サイゴン(1975年4月)
・アメリカ合衆国ニューヨーク州(1994年) ・中東某所(現代)

ストーリーの主な登場人物
<現代編>
・平山北斗(会社員と兼業でのカメラマン)
・樫野星司(南武大学理学部鳥類学研究室の教授で50代前半)
・樫野夕子(樫野星司の一人娘)
・栗原均(平山北斗の十年来の友人でフリーライター)
・エルザ・シュローダー(アメリカの大学の若手女性研究者で日本に長期滞在)
・樫野君江(樫野星司の夫人)
・塩屋敏明(樫野星司の高校時代親友で、防衛大卒の自衛隊三等陸佐。座間駐屯地勤務)
・日本野生生物保護協会の会報誌の女性編集長
・白石(日本野生生物保護協会の若手の女性職員)
・会津の浄松寺の初老の今の住職
・浄松寺の先代の住職
・ロックウッド(民間軍事会社ブラウンウォーターのCEO)
<過去編>

●ルイ・ドラポルト(フランス海軍少尉) *実在(1842~1925)
・フリエ・デンクール(フランス陸軍中尉、日本派遣軍事顧問団)
●ドゥダール・ドゥ・ラグレ(フランス海軍大佐) *実在人物
●ガルシア(フランス海軍中尉) *実在
・神田英之進(伝習隊第二大隊、歩兵九番小隊の小隊長)
●土方歳三(元新選組副長)*実在(1835~1869)
●大鳥圭介(伝習隊隊長)・実在(1833~1911)
●ブリュネ大尉(フランス軍事顧問団の一員で旧幕府軍に参加)*実在(1838~1911)
・神田篤(東京帝室博物館勤務。神田英之進の孫)
・神田道雄(陸軍士官で、神田篤の2歳上の兄)
・ジェイク・ナカムラ(日系三世でべベトナム戦争時はアメリカ陸軍伍長)
・タック(南ベトナム陸軍所属のモンタ二ヤードの上等兵。後にアメリカ陸軍兵)
・トンプソン(アメリカ軍の一等兵)
・ロックウッド(ベトナム戦争時はアメリカ軍の大尉)

関連記事

おすすめ記事

  1. メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第31回「メコン川物語 ー かわりゆくインドシナから ー 」(川口 敏彦 著)

    メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第31回「メコン川物語 ー かわりゆくインドシナから ー 」(川…
  2. メコン圏現地作家による文学 第16回「田舎の教師」(カムマーン・コンカイ 著、冨田竹二郎 訳)

    メコン圏現地作家による文学 第16回「田舎の教師」(カムマーン・コンカイ 著、冨田 竹二郎 訳) …
  3. メコン圏を舞台とする小説 第50回「バンコク喪服支店」(深田祐介 著)

    メコン圏を舞台とする小説 第50回「バンコク喪服支店」(深田祐介 著) 「バンコク喪服支店」(…
  4. メコン圏を描く海外翻訳小説 第18回「ヴェトナム戦場の殺人」(ディヴィッド・K・ハーフォード 著、松本剛史 訳)

    メコン圏を描く海外翻訳小説 第18回「ヴェトナム戦場の殺人」(ディヴィッド・K・ハーフォード 著、松…
  5. メコン圏関連の趣味実用・カルチャー書 第10回「ベトナム雑貨と暮らす Vietnamese Style」(石井 良佳 著)

    メコン圏関連の趣味実用・カルチャー書 第10回「ベトナム雑貨と暮らすVietnamese Style…
  6. メコン圏と大東亜戦争関連書籍 第8回「神本利男とマレーのハリマオ マレーシアに独立の種をまいた日本人」(土生良樹 著)

    メコン圏と大東亜戦争関連書籍 第8回「神本利男とマレーのハリマオ マレーシアに独立の種をまいた日本人…
  7. メコン圏が登場するコミック 第23回「密林少年 ~Jungle Boy ~」(著者:深谷 陽)

    メコン圏が登場するコミック 第23回「密林少年 ~Jungle Boy ~」 (著者:深谷 陽) …
  8. メコン圏対象の調査研究書 第29回「日本をめざしたベトナムの英雄と皇子 ー ファン・ボイ・チャウとクオン・デ」(白石昌也 著)

    メコン圏対象の調査研究書 第29回「日本をめざしたベトナムの英雄と皇子 ー ファン・ボイ・チャウとク…
  9. メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第31回 「アキラの地雷博物館とこどもたち」(アキ・ラー 編著)

    メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第31回 「アキラの地雷博物館とこどもたち」(アキ・…
ページ上部へ戻る