メコン圏を舞台とする小説 第43回「マラッカ海峡」(谷 恒生 著)


文庫本「マラッカ海峡」(谷 恒生 著、徳間書店【徳間文庫】、1991年5月発行)
<初出単行本は、1977年4月、KKベストセラーズより刊行>

<著者紹介> 谷 恒生(たに・こうせい)
昭和20年(1945年)東京生れ。鳥羽商船高校卒業。一等航海士として世界の海を航海し、昭和52年(1977年)「喜望峰」でデビュー、海洋冒険小説の若き旗手として注目されている。作品には他に「マラッカ海峡」「ホーン岬」「悪霊を撃て」「北の怒涛」「黒いヴァイキング」「黄金の海」「錆びた波止場」「一人っきりの戦場」「飛騨一等航海士」「船に来てた女」がある。
<1981年 単行本「バンコク楽宮ホテル」発刊時、単行本「バンコク楽宮ホテル」著者紹介> *2003年逝去 (1945年~2003年)

一等航海士として世界の海を航海し、勤務のかたわら小説を書き始め、昭和50年(1975年)「小説現代」および「野生時代」の新人賞に、それぞれ「港の描写」「冬の前線」が第2次予選通過と佳作入選となり、ここで本格的に作家を志し、昭和52年(1977年)「喜望峰」と「マラッカ海峡」の一挙2冊同時刊行という華麗なデビューを飾り海洋冒険小説の若き旗手として一躍注目された作家・谷恒生 氏。1981年にはアジア安宿の旅ブームの中で長期安宿旅行者たちの間で長い間、バイブルともなった「バンコク楽宮ホテル」を刊行。その後も、伝奇小説、時代小説、架空戦記、推理・アクション小説など、幅広く活躍。本書は、その谷恒生 氏の「喜望峰」と並ぶデビュー作。

本書のタイトルは「マラッカ海峡」とあり、ストーリーは、横浜、東京、シンガポール、マラッカ海峡と展開するが、ストーリーの主要な背景は、1975年4月のサイゴン陥落(解放)前の旧南ベトナムに関わる話が中心で、旧サイゴン政権の軍幹部残党、旧ベトナム解放戦線に、CIA(アメリカ中央情報局)や中国人民解放軍などが絡んでくる。サイゴン陥落(解放)が1975年4月30日で、今では約50年近く前のかなり昔のことに思えるが、本書(単行本)の刊行が1977年で、サイゴン陥落(解放)から2年しか経っていないことに改めて驚く。

1976年2月、船籍港がリベリア、船主はギリシア人、船長はじめ高級船員のすべてがヨーロッパ人、一般の乗組員はフィリピン人で日本人は一人も含まれていないはずだった不定期貨物船チグリス号が横浜港に入港し、1年前の1975年1月、マラッカ海峡で遭難死したと見られていた一等航海士・土岐雷介が、突然、横浜に現れるところからストーリーが始まる。土岐は昔なじみの横浜・日の出町の連れ込み専門の旅館の老女将・島田きよを訪ねトランクを預けるが、その夜、島田きよが、何者かに心臓をぶち抜かれて即死。その後も、横浜・本牧に顔面は硫酸で焼かれ頭蓋骨がめちゃめちゃに砕かれたベトナム人の死体があがり、さらに横浜・福富町のサパークラブで暴力組織の覚醒剤密売ルートを追っていた新聞記者が射殺と、横浜で次々と殺人事件が起こる。

土岐雷介の横浜に現れてからの不可解な行動と、1975年1月のマラッカ海峡での貨物船の謎の遭難の真相を追って、土岐雷介の友人でフリーのルポライターの凄腕の事件屋・相崎哲は、貨物船チグリス号が向かったシンガポールに飛び、更にマラッカ海峡まで出向くことになる。そしてマラッカ海峡の海で劇的なエンディングが用意されている。このフリーのルポライターの相崎哲は、5年ほど前、雑誌社から船員特集の取材を頼まれ、横浜港に係留された錆だらけの貨物船に乗り込んで、陰惨な幽鬼のような翳を持つ男・土岐雷介に出会っていた。

そして、シンガポール、マラッカ海峡まで相崎哲に同行するのが、横浜で土岐雷介と衝撃的な出会いをしてしまい、土岐雷介の過去を含め知りたい衝動に駆られた速水麻紀で、横浜・山元町のアパートに住む文学部3年の大学生で、横浜・福富町のサパークラブでホステスのアルバイトをしていた女性。この相崎哲と速水麻紀が、事件の謎を追う主役コンビかと当初思える内容だが、やはり本書の主人公は、安穏を侮蔑し刹那の快楽にしか生きる価値を認めない血の濃いダークヒーローのようにも思える土岐雷介だ。尚、この土岐雷介が再登場する「新マラッカ海峡」(谷恒生 著)が角川書店より1982年に刊行されていたり、土岐雷介が登場する「暴力伝説」(谷 恒生 著、祥伝社、1988年)も更に刊行されている。

本書ストーリー展開の謎に関わる重要な話が、サイゴン陥落(解放)3か月前の1975年1月、リベリア船籍、ギリシア人船主の貨物船エクスポーター号が、サイゴン港を出帆、マラッカ海峡西端のペナン島に向かう航海の途中、消息を絶ち、乗組員は、モロー船長以下43名、全員行方不明で謎の遭難をしたということ。この乗組員の中には、日本人一等航海士、土岐雷介も含まれていた。そして、この貨物船は旧サイゴン政権の黒幕の大統領特別軍事顧問のダン・ファン・クワン中将が財力にものを言わせて手に入れた、1億ドルにのぼるアンナン皇帝の財宝と、アメリカがサイゴンで犯した数々の謀略に関する資料が積み込まれていた。

そして、かつてサイゴンの大黒幕と自他ともに認め、旧サイゴン政権のグエン・バン・チュー大統領特別軍事顧問のダン・ファン・クワン中将は、サイゴン陥落直前の1975年4月、アメリカ戦艦で国外へ脱出したが、その後、彼は表向きは山岳地帯で密かに栽培した麻薬密売の理由でアメリカ合衆国から亡命を拒否され隣国カナダはもとよりヨーロッパ諸国にもみはなされ、流浪の憂き目に遭っていたが、アメリカのベトナム戦争介入からサイゴン陥落直前までアメリカと不仲で、身の安全を確保するためにもアメリカの対ベトナム謀略を克明に記録したクワン・リストを作成していて、アメリカはそのリストを闇に葬る必要があった。また、サイゴン陥落前にサイゴンに商社員として駐在し、商品売込みの過程で、ダン・ファン・クワンと親密になり、やがてダン・ファン・クワンの親衛組織のダン機関と深くつながっていった日本の東亜物産の橋本という営業マンも登場するが、日本の経済発展とベトナム戦争との関係についても本書で言及されている。

情勢が一気に慌ただしくなった1975年1月のサイゴンでの事件がマラッカ海峡での貨物船遭難につながるもので、1974年12月にフォクロン省のほぼ全域が解放され、1975年1月7日は、サイゴン真北120キロの首都フォクビンが解放民族戦線によって占領。グエン・バン・チュー大統領は3日間の服喪を宣言し、サイゴンは轟々と迫る解放の足音に、初めて震え上がり緊迫と混乱の様子も描かれる。

尚、本書の主なストーリー展開時代の1976年2月の時点では、1975年4月30日のサイゴン解放後であるものの、1976年7月2日のベトナム社会主義共和国成立前で、南ベトナムは、1969年6月8日に地下政府として始動したフィン・タン・ファト(1913~1989年)率いる南ベトナム臨時革命政府(1969年6月8日~1976年7月2日)の下にあった。

目次
第1章 甦る
第2章 過去の呼び声
第3章 追う
第4章 星(シンガポール)港
第5章 マラッカの伝説

関連テーマ・ワード情報
・1975年4月30日のサイゴン陥落(解放)とその前後
・1975年1月7日、南ベトナムのフォクロン省都フォクビンを解放戦線が占領
・グエン・バン・チュー(1923~2001年、ベトナム共和国(南ベトナム)大統領1965~1975年4月21日)
・南ベトナム臨時革命政府とフィン・タン・ファト(1913~1989年)

ストーリーの主な展開時代
・1976年2月 ・1975年1月(回想)
ストーリーの主な展開場所
・横浜(横浜港、日の出町、福富町、山元町、関内、高島、本牧、伊勢佐木町、山下町、野毛坂下)
・川崎港、三浦半島の観音崎
・東京(新宿、飯田橋、青山、四谷、丸の内、赤坂、麹町、大手町、幡ヶ谷

・シンガポール
・マラッカ海峡、ポートクラン(Port Klang)
・サイゴン(解放前)

ストーリーの主な登場人物
・土岐雷介(一等航海士)
・相崎哲(東京・飯田橋に事務所を持つフリーのルポライターで凄腕の事件屋)
・島田きよ(横浜・日の出町の連れ込み専門旅館「ひさご」の女将)
・順平(高島町の船舶食糧品屋で働いている元甲板員の青年で、焼津の漁師の息子)
・雅代(横浜・福富町のサパークラブ「スバル」のママ)
・塩野夏江(土岐雷介の元妻で雅代の以前の店のホステス)
・速水麻紀(横浜・山元町のアパートに住む湘南大文学部3年で、サパークラブ「スバル」のアルバイトホステス)
・ハロルド・マイク(ユニバーサル商会東京オフィスのユダヤ系アメリカ人)
・ルイ・マッケイ(ユニバーサル商会東京オフィス勤務のあから顔の大男)
・カトリーヌ・マルセル(四谷のG大日本語学科に留学中のフランスとベトナムのハーフ女性)
・橋本(35歳前後の東亜物産の営業マンで1974年までサイゴン駐在)
・ダン・ファン・クワン中将(旧サイゴン政権の大統領特別軍事顧問)
・ダン機関(クワンの親衛隊)のベトナム人メンバーたち
・福原(東洋日報の記者)
・佐上周蔵(解放前後の2年間、サイゴンにいた事件屋)
・ビセンテ・タビデュラン(フィリピン国籍の船員)
・長谷部正則警部補(神奈川県警保安課の51歳の現職警察官)
・ナム(橋本のベトナム人ボディーガード)
・チャン(シンガポールの中国人男性タクシー運転手)
・シドゴ(老朽貨物船チグリス号のフィリピン人の若い操舵手)
・横浜の若い税関吏
・横浜のシーサイドホテルのフロント隣のマネーチェンジの係の女性
・横浜のシーサイドホテルのフロアマネージャー
・たちのよくない横浜の雲助タクシー男性運転手
・四谷のG大の女子事務員
・ジャパン・シー・サービス東京オフィス(丸の内)の配乗課長
・横浜精神病院の看護婦
・宗(シンガポールのオリエント商会船舶代理店業務課スーパーバイザー)
・周大人(シンガポールの舢板(サンパン)の元締め)
・モロー船長(貨物船エクスポーター号のオランダ人船長)
・ロビオ(貨物船エクスポーター壕のフィリピン人の操舵手)

関連記事

おすすめ記事

  1. メコン圏が登場するコミック 第23回「密林少年 ~Jungle Boy ~」(著者:深谷 陽)

    メコン圏が登場するコミック 第23回「密林少年 ~Jungle Boy ~」 (著者:深谷 陽) …
  2. メコン圏を舞台とする小説 第50回「バンコク喪服支店」(深田祐介 著)

    メコン圏を舞台とする小説 第50回「バンコク喪服支店」(深田祐介 著) 「バンコク喪服支店」(…
  3. メコン圏現地作家による文学 第16回「田舎の教師」(カムマーン・コンカイ 著、冨田竹二郎 訳)

    メコン圏現地作家による文学 第16回「田舎の教師」(カムマーン・コンカイ 著、冨田 竹二郎 訳) …
  4. メコン圏関連の趣味実用・カルチャー書 第10回「ベトナム雑貨と暮らす Vietnamese Style」(石井 良佳 著)

    メコン圏関連の趣味実用・カルチャー書 第10回「ベトナム雑貨と暮らすVietnamese Style…
  5. メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第31回 「アキラの地雷博物館とこどもたち」(アキ・ラー 編著)

    メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第31回 「アキラの地雷博物館とこどもたち」(アキ・…
  6. メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第31回「メコン川物語 ー かわりゆくインドシナから ー 」(川口 敏彦 著)

    メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第31回「メコン川物語 ー かわりゆくインドシナから ー 」(川…
  7. メコン圏を描く海外翻訳小説 第18回「ヴェトナム戦場の殺人」(ディヴィッド・K・ハーフォード 著、松本剛史 訳)

    メコン圏を描く海外翻訳小説 第18回「ヴェトナム戦場の殺人」(ディヴィッド・K・ハーフォード 著、松…
  8. メコン圏対象の調査研究書 第29回「日本をめざしたベトナムの英雄と皇子 ー ファン・ボイ・チャウとクオン・デ」(白石昌也 著)

    メコン圏対象の調査研究書 第29回「日本をめざしたベトナムの英雄と皇子 ー ファン・ボイ・チャウとク…
  9. メコン圏と大東亜戦争関連書籍 第8回「神本利男とマレーのハリマオ マレーシアに独立の種をまいた日本人」(土生良樹 著)

    メコン圏と大東亜戦争関連書籍 第8回「神本利男とマレーのハリマオ マレーシアに独立の種をまいた日本人…
ページ上部へ戻る