メコン圏を描く海外翻訳小説 第23回「太平洋の防波堤」(マルグリット・デュラス 著、田中 倫郎 訳)

メコン圏を描く海外翻訳小説 第23回「太平洋の防波堤」(マルグリット・デュラス 著、田中 倫郎 訳)


「太平洋の防波堤」(マルグリッド・デュラス 著、田中 倫郎 訳、<集英社文庫>集英社、1979年3月発行)

<著者>マルグリット・デュラス (1914年~*1996年)<本書文庫本著者紹介より、本書発刊当時>
1914年、フランス領インドシナ生。ソルボンヌで学ぶ。1942年、処女作「あつかましい人々」を発表。代表作「モデラート・カンタービレ」「ラホールの副領事」アラン・レネ監督の映画台本「二十四時間の情事」。

<訳者>田中 倫郎(たなか・みちお)(1930年~2021年)
広島県生まれ、東京大学文学部卒。フランス文学者・翻訳家、跡見学園女子大学名誉教授。一貫してマルグリット・デュラスの作品を翻訳。

本書の原著者のマルグリット・デュラス(1914年~1996年)は、20世紀後半フランスを代表する作家として、非常に多彩な才能を発揮し、特に文学、そして映画では監督、脚本家、また演劇作家としても活躍。「愛人 ラマン」をはじめ「モデラート・カンタービレ」「太平洋の防波堤」「北の愛人」「苦悩」など、数多くの作品が河出書房新社より日本語翻訳としても出版され、マルグリット・デュラス原著の日本語翻訳小説以外にも、マルグリット・デュラスを論じた日本語の書籍も数多く出版され、また映画「愛人 ラマン」(1992年 フランス・イギリス合作、1992年5月、日本映画公開)をはじめ、映画「雨のしのび逢い」(1960年 フランス・イタリア合作、日本公開1961年10月)、映画「インディア・ソング」(1975年 フランス製作、日本公開1985年10月)など、マルグリット・デュラスの原作をもとにした映画の日本公開作品も少なくなく、日本でもよく知られたフランスの作家。本書の原著書は1950年、マルグリット・デュラスの第3作目にあたる初期の作品で、この『太平洋の防波堤』で作家としての地位を確立することになった作品。発表後、数年間ベストセラーになっていた本書は、何度か翻訳、劇化され、1957年には映画化され、「海の壁」というタイトルで日本公開されている。

フランス人女性のマルグリット・デュラスは、仏領インドシナに派遣されていた教育公務員の両親のもとに仏領インドシナのサイゴン郊外で1914年に生まれ、ハノイやカンボジア、メコンデルタ地帯、サイゴンで主として幼少期を過ごしている。大学教育からパリに移住しているが、1943年に処女小説『あつかましき人々』を発表以来、作家歴40年以上の大家で70歳になっていた1984年に、幼少期を過ごした仏領インドシナを舞台に、15歳の時の金持ちの中国人青年との最初の性愛経験を語った自伝的作品「愛人 ラマン」を発表。センセーションを捲き起こし、世界的ベストセラーにもなり、日本語翻訳「愛人 ラマン」は、原著が発表されてすぐ翌年の1985年6月に、日本語翻訳小説「愛人 ラマン」が河出書房新社から単行本が刊行。更に映画「愛人 ラマン」(1992年 フランス・イギリス合作、1992年5月、日本映画公開)公開のタイミングで、1992年2月、河出書房新社から「愛人 ラマン」文庫本が刊行。更に、マルグリット・デュラスの代表作の一つの1984年発表の「愛人 ラマン」と同じ題材を取りあげ、物語の大枠はほぼ同じながら、いろいろと違った形式や視点、内容で描かれた小説「北の愛人」は1991年6月に原著が発表されている。

代表作の一つの「愛人 ラマン」が1984年発表と、マルグリット・デュラスが70歳の時の発表作品に対し、本書の原著書『太平洋の防波堤』は、1950年発表と、マルグリット・デュラスが36歳で第3作目にあたる初期の作品。「太平洋の防波堤」も、マルグリット・デュラスが幼少期を過ごした仏領インドシナを舞台とした自伝的小説ながら、「愛人 ラマン」の主たるストーリー舞台は仏領インドシナのベトナム南部のサイゴンやメコンデルタ地帯に対し、「太平洋の防波堤」の主たるストーリー舞台は、小説では仏領インドシナのカンボジア南部で、小説ではラムと呼ばれるプノンペンの南西約200kmの地点にありシャム湾に面した沿岸貿易港の町や、カムと呼ばれるカンボジア南部の町、そして主人公の家族が住むラムとカムの間の平原にあるバンテと呼ばれる所。本書では、ラムと表記されるが、「愛人 ラマン」では、レアム(Ream)」と表記されている。この町は、今はカンボジア南西部のリアム海軍基地がある場所で、中国海軍の艦船が寄港を継続し、中国の支援で拡張工事が完了したりと中国軍との関係強化の動きが話題となっている町。本書でカムと呼ばれる町は、胡椒の町としても有名だったカンボジア南部のカンポットの町。

マルグリット・デュラスの作品の中で、繰り返し語られる、彼女と家族が味わった不幸すぎる出来事は、「愛人 ラマン」でも主人公のフランス人少女の境遇に大きな影響を与えていることとして語られているが、本書「太平洋の防波堤」は、まさにその不幸すぎる出来事に、より直接的に関係した話となっている。マルグリット・デュラスの母親が夫の病死後に、それまで貯め込んだお金を将来のためにつぎこみ、カンボジア南端のシャム湾に面したカンポット近くの土地の払い下げ分譲による開発権利を取得したものの、植民地行政の腐敗のために、高潮の時期になると海水に浸ってしまう耕作不能の土地を得てしまい、更に、海水を防ごうと防波堤を築く事業に取りかかるが、防波堤の決壊という事業の壮絶な失敗で、一家は更に経済的な窮乏に追い込まれて母親は絶望に陥ってしまうという運命的な出来事。本書「太平洋の防波堤」のストーリーは、その高潮で耕作不能と土地を得てしまい、その海水を防ごうとする防波堤の建設も防波堤が決壊してしまった後から始まる。

主な登場人物は、著者自身を思わせる17歳のフランス人少女のシュザンヌを中心に、シュザンヌの20歳の兄のジョゼフと母親の3人家族で、物語も、倦怠と苦難に満ち満ちた3人の家族の話が中心。本書では具体的な年代についての記述はないものの、1914年生まれの著者が17歳の少女で、家族の不幸な出来事の後でもあり、父親が亡くなった後の仏領インドシナのカンボジアでの生活が描かれるので、1920年代後半から1930年前後のはず。本書でのシュザンヌの兄のジョゼフは、マルグリット・デュラスの1911年生まれの次兄ポールがモデル。本書でシュザンヌの母は、フランスの百姓の娘に生まれ、非常に成績が良い子で、高等教育免状を得て、フランスで村の小学校での教職に就くが、教員の夫とともに、村役場の植民地宣伝のポスターを見て、二人そろって植民地教員名簿に加入を申込み、仏領インドシナに任命され、仏領インドシナに来てから子供たちが生まれる。娘シュザンヌが生まれると、母親は公の教職をやめ、フランス語の個人教授をする。彼女の夫は、現地人の学校の校長に任命されていた。ずいぶん裕福な暮らしをしていて、この頃の何年かが彼女の生涯での幸福な最良の時期だったが、娘が小さいときに夫が死に、彼女はフランス語とピアノの両方を教え、それでも生計が苦しく映画館のエデン座にピアニストとして雇われる。こうして夫の死後、苦労して貯め込んだお金を、払い下げ地を購入し開拓しようと植民地土地管理局へ申し込み、土地を手に入れてから、子供2人を連れ、払い下げ地のシャム湾に面した仏領インドシナのカンボジア南部の平地に来て6年になっていた。

何も育たない荒れ地での孤独と不毛の生活で、特に、母親は、晩年になってこれほどとてつもない不運に見舞われ、耕作不能の土地をつかまされ、更に希望の防波堤が決壊してからは、世間の不公平さを思い知らされ、うちのめされ、生きてゆくのに嫌気がさし絶望の状態。母親の2人の兄妹の子供も、先が見えない孤独な土地で鬱積した気分で絶望で病む母親との同居生活を送っていた。こうした家族に関わる登場人物たちとしては、17歳のフランス人少女のシュザンヌに言い寄る男たちがいて、家族のおのおのがそれぞれの希望を見いだし、貧窮の状況を変えることになるかもしれないという家族の期待も生まれる。まずは、港町レアム(リム)の酒場で出会う運転手付きの豪華な黒塗りの大型リムジンに乗った25歳ぐらいの資産家の息子でパリ帰りのムッシュ・ジョーが登場。北部のゴム栽培主で、港町レアム(リム)には生ゴムの積込みの監督のために来ていた。メコン河の渡し船の上で出会う黒塗りのリムジンの中国人資産家の息子と出会う「愛人 ラマン」とも似た話ではあるが、男性の描かれ方は全く違うものになっている。本書でも、この資産家の父親が如何に財を成したかの過程に触れている。植民地最大の都会(サイゴン?)に隣接した土地に投機しその都会が急速に拡張されていったおかげで、儲け分を再投資出来るだけの利益をあげ、新しい土地に投資するかわりに、建築業をはじめ、棟割長屋方式の現地人向け安家賃の借家を建て、その次に北部のゴム栽培業者たちに目を付け金貸しをしていった話が詳しい。

「愛人 ラマン」を先に読んでいると、尚更、この資産家の息子ムッシュ・ジョーとの関係がどう展開するのかが気になるところではあったが、男性の描き方も全く異なり、2人の関係も不思議というか意外な展開を辿る。カンボジア南部の平原では住んでいる適齢期の白人男性が全くいないが、パイナップル農場も始める農園主の若い遊び人のジャン・アゴスティがいるだけで、阿片と酒の密輸も、リアムの酒場の主人と組んで行っている男性も登場。物語も閉塞的なカンボジア南部の荒れ地とその周辺で終結するのかと思いきや、後半の第2部では、サイゴンと思われる植民地最大の都会に場面が移り、この都会で出会う様々な人物が登場する。17歳のフランス人少女のシュザンヌに言い寄る男の一人として、カルカッタの製糸工場で造られる綿糸の注文取りに世界中を出張している外交員で40歳ぐらいの英国人の大男、ジョセフ・バーナーもいるが、サイゴンでは兄のジョゼフがカンボジアの平原での生活から脱却できるきっかけとなる富裕な西洋人人妻と出会っている。

サイゴンと思われる植民地最大の都会の街やそこに暮らす人たちの描写も興味深く、白人用区域でも産をなした白人たちだけが生活できる高級住宅地エリアと、産をなすことの出来なかった白人が暮らすエリア、現地人区域が明確に分かれ、植民地白人社会の階層の様子が窺えるし、また、シュザンヌ家族がサイゴンでの定宿セントラル・ホテルは、港の淫売屋から一挙に身を起こした65歳の老植民地婦人マダム・マルトと、父親がだれか分らない35歳の一人娘のカルメンが経営していたが、そのホテルの定住客というのも、代理商、自前で住み着いている娼婦、女の仕立屋、税関や郵便局の下っ端従業員たち。サイゴンだけでなく、カンボジアの港町リアムの酒場でも、郵便船が着くごとにやってくる海軍士官や、いろんな国籍の娼婦たち、税官吏と家族、ゴム栽培場主などが入り交じる。後半の第2部の終盤で、サイゴンからカンボジア南部の平原の家に一家が戻り、物語は家族それぞれのメンバーに新たな展開が生まれることになる。

舞台がカンボジア南岸なのに、なぜ、本のタイトルが「太平洋の防波堤」なのか気になったが、作品の中で、”母親は、頑強に太平洋と呼んだ。彼女の目には”シナ海”というのは何か田舎くさく、若き日の彼女が夢を託したのは太平洋であって、いたずらに事情がややこしくなる小規模な海などではなかったからだ ”という文章は挿入されている。植民地白人社会でも貧窮したシュザンヌ家族の話だけで無く、仏領インドシナのカンボジアでは、飢えや貧しい現地人の人たちやおびただしい数の子供たちが亡くなっていく様子が描かれているが、中でも衝撃的なのは、伍長(ル・カポラル)という仇名の現地人のシュザンヌ一家の住み込み召使いと妻子の話。シュザンヌの母に雇われる前の植民地社会の道路建設に従事していた頃の貧困、搾取差別状況も詳しく書かれているが、あまりに酷く悲惨な話。土地管理局の役人たちの不正腐敗ぶりも、シュザンヌの母親の告発の手紙の文章などに生々しく現れている。ハンターや狩りの話も盛り込まれているが、シュザンヌや兄のジョゼフにとっての森も特別な存在として意識されている。他には、蓄音機やダイヤモンド、映画館が、物語のパーツとしては印象深い。産物としては、カンボジア南部の話で、カムポートやレアムでは、生ゴムだけでなく胡椒の栽培や港への積込みのこととか、中国人の胡椒栽培業者と植民地行政の土地管理局との結託などの話も気になるところ。

ストーリー展開時代
・1920年代後半から1930年頃のはず

ストーリー展開場所(主たる回想)
・仏領インドシナ(シャム湾に面したカンボジア南岸、サイゴンと思われる大都会)

主な登場人物たち(主たる回想)
・シュザンヌ(17歳のフランス人少女)
・ジョゼフ(シュザンヌの20歳の兄)
・シュザンヌとジョゼフの母親
・伍長(ル・カポラル)という仇名の現地人のシュザンヌ一家の住み込み召使い
・伍長の妻と娘
・ジャン・アゴスティ(ジョゼフより2歳年上の遊び人)
・バール(ラムの酒場のフランス人男性の主人)
・パールの養子(カンボジアの平原から現地人の養子を迎え酒場の仕事を担当)
・ムッシュウ・ジョー(北部のゴム栽培場主の金持ちの青年)
・カムの土地管理局の役人たち
・カンボジア平原でのシュザンヌの母を診る医者
・払い下げ地に隣接した村々の現地人の人たち
・マダム・マルト(港の淫売屋から一挙に身を起こした65歳の老植民地婦人で、セントラル・ホテルの経営者)
・カルメン(マダム・マルトの35歳の一人娘で父親は誰だか不明、セントラル・ホテルの管理)
・サイゴンと思われる町のダイヤモンド商人たち
・サイゴンの映画館の前の溜まり場あたりの港の淫売屋らしい2人の女性
・ジョセフ・バーナー(カルカッタの製糸工場で造られる綿糸の注文取り外交員で40歳ぐらいの英国人の大男)
・リーナ(ジョセフが映画館で知り合う西洋人人妻)
・ピエール(リーナの夫)
・ジャン・アゴスティの父親(退役兵曹長で阿片吸引者)
・ジャン・アゴスティの母親
・ジャン・アゴスティの妹(ラムの港の税官吏と駆け落ち)

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