コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第48話 「ワニと龍(2)」

「古事記」等に見えるヤヒロワニ(八尋鰐)と、サンスクリットのマカラが語源のタイ語のマンコーン

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第48話 「ワニと龍(2)」

どうです。東南アジアではワニも龍も河の底に人間の女をさらっていって一緒に住んでいるのですぞ。ところで雲南省シップソンパンナーに住むタイ・ルー族に、「卵の捧げ物」という話があります。原本は中国語で書かれたそうで僕はその英訳本を読みました。その出だしは次のとおり。

「農夫マイジンは偶然にも龍王の娘と知り合い、二人は恋に落ちて結婚し、龍王の家で暮らす。龍王は『息子や。寝るときは寝室で灯をともすものではないよ』と言い、はじめはそんなものかなと思っていたマイジンも、次第に疑問を抱き、ある夜、灯火を持って寝室に入ると妻が龍の姿になって眠っていたので怖くなり、別れの言葉も言わずに自分の村に戻ってしまった。龍王の娘は妊娠しており、ほどなく人間の姿をした男子を産む。」

この話は龍の世界と人間の世界が往来できる設定になっていて、後に成長した息子は父の村を訪ねて父と暮らすようになります。タイのワニ(むしろモン人のワニか)やカムー族の龍は、人間の女を連れ帰って河の底に住まわせていましたが、タイ・ルー族の説話では龍が女性で人間の男を連れ帰って自分の家に住まわせています。タイ・ルー族の説話では男が見てはならないタブーを破って、妻が龍の姿になっているのを見て驚いて逃げ出しますね。これとほとんど同じ場面が『日本書紀』のトヨタマヒメが子を産むところに見えます。すなわちヒメが夫に「子を産むところを見てくれるな」と禁じたところ、夫はどうしても見たくなってのぞき、まさに産む瞬間に龍の姿になったヒメを見ました。ヒメは怒って海の自分の家に帰ってしまいます。『日本書紀』の本文では龍の姿として記されていますが、一書(第一と第三)および『古事記』ではヤヒロワニ(八尋鰐)になったと記しています。この違いについて津田左右吉は龍の姿になったのは仏典に由来があるのではないかとしていますが、すると『古事記』を含めてワニの姿をとっていたとする類話は、仏典に接する以前の面目を留めていることになりますね。とはいえ仏典に見える龍(ナーガ)と殷の甲骨文字以来の龍はまったく別物ではないのでしょうか。津田左右吉の推定をとるならばワニとナーガの間に断絶が生じて、そういう考え方の筋道はなんとなく無理じゃないか、という気がするのですが。

仏典のナーガを仮にインドの龍、殷の甲骨文字以来の龍を仮に中国の龍と呼びましょう。標準タイ語とランナー語には、マンコーン(中国の龍)・ナーク(インドの龍)という二つの単語があり、両者を識別しています。バイラーン(貝葉文書)を読むためのランナー語から英語への辞書を見れば、マンコーンは「ワニのような、角のある、胴体の長い、中国の想像上の動物」と解説されており、一方ナークは「伝説上の頭飾りのある大蛇」と解説されています。ナークの語源はサンスクリットのナーガで、マンコーンの語源は同じくサンスクリットのマカラです。マカラとは想像上の海の怪物ですが、かつて中部ベトナムに栄えたチャンパ王国の遺跡に残されたチャム彫刻には、このマカラ像が多く見られます。写真で見る限り名古屋城の金のシャチホコにそっくりの印象で、大口を開けて牙をむき出した寸詰まりのワニ、という印象を受けます。またマカラと同系のタミル語の単語のマカラムは、ずばりワニの意味を持っています。

インドシナ地域に南下してきたタイ族は、すでに「龍」の観念を持っており、それがワニに似た想像上の動物であることを承知しており、インド文化に接してマカラという恰好の観念を得て、その言葉によって自分たちの「龍」の観念を表そうと試みたのでしょう。彼らの「龍」の観念は限りなくワニに近いものだったことが、ランナー語の辞書におけるマンコーンの解説書からうかがえますね。実際、長江に棲息するアリゲータ種のワニは、大きなものでもせいぜい体長は1・5メートルで、『古事記』をはじめ『日本書紀』の一書に見えるヤヒロワニは、字義どおりに解釈すれば、体長14-15メートルのワニ、ということになります。これはまさに「ワニのような...胴体の長い...」と解説されたランナー語のマンコーンに瓜二つではありませんか。倭国の古伝承を伝えた海人族はサンスクリットを知らず、従ってマカラ、マンコーンという言葉を知りません。海人族の知る唯一の手がかりは現存するワニという動物であったため、現実にはありえない体躯の長大なワニという観念で、それが想像上の動物でワニのようなものであると、中国の龍を表現したものでしょう。

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