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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第14話 「伊都から伊豆へ」
- 2001/3/10
- コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」, 企画特集
親呉の「イト」国滅亡と、日本書紀に大船を建造したという記事の見える伊豆の国との関係は?
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第14話 「伊都から伊豆へ」
古代の海人族のセンターであった壱岐の島の人たちの言い伝えに、昔は泰平の世の中で「一生八月常月夜、米の飯に小菜の汁」と言われたものだ、というのがあります。壱岐の島は韓国から吹いてくる北風で、冬ともなれば厳寒の地に変わります。壱岐の島をいくら古代に遡っても、そこは「一生八月」なる温暖の地ではありません。だいいち四季のある日本では「一生八月」という概念は想像上のことで終わってしまいますが、バンコクのような暑いところで暮らしていますと、ははあこういう気候の地に住めばまさに「一生八月」だなあ、という実感がわいてきます。
まさか壱岐の島の人たちの先祖が古代においてバンコクに住んでいたわけはないでしょうが、しかし中国南部の南越王国あたりの温暖の地に住んでいたと考えてもおかしくありません。あのへんは古くからの稲作地域で三度三度米の飯が常食だったところです。僕はこの壱岐の島人に伝わる言い伝えの、古代の泰平の世の中とは南越王国のことで、壱岐のような北方の小島に移ってきた海人族たちが往時の暮らしを懐かしんだ嘆きが、代々語り継がれてこのような言い伝えに結晶したのではないかと考えています。
ところで朝鮮海峡の両岸に移住してきた海人族・南越王国など越族の遺民たちは、倭の百余国を形成し、漢に使節を送って服属した後、ようやく平和で安定した生活を始めたものと思われます。その中から大船の造船技術センターを持つ北九州のイト国が、漢の金印を受けて倭国のセンターになりました。このイト国の王権は三国の呉が滅亡する290年ごろまで続いたのではないかと考えるのですが(三国時代は魏の勢力が朝鮮に伸びるまでは倭国はだいたい親呉で、239年に魏が卑弥呼に親魏倭王の金印を発給してから、晋が中国を統一する290年まで、親呉のイト国王と親魏の卑弥呼およびイヨ(トヨ)の二つの王権が並存した)、呉はインドシナの扶南王国に使節を派遣したり、また魏に滅ぼされる以前の遼東から朝鮮にかけての楽浪公国に1万人の呉の兵隊を送りこんだり、外洋船がなければできないような芸当を行いました。南シナ海・東シナ海・黄海の制海権は呉が握っていたのであり、イト国は南越王国以来の技術で外洋船を建造し、呉を支援していたのではないでしょうか。広州の外洋船の遺構のようなものが、北九州で発見されればと思いますが現在のところは歴史的な確証はありません。
確証はむしろ『日本書紀』に30メートルのカラノの大船を建造したという記事の見える伊豆の国にあると言えましょう。これが4世紀末期、呉が滅んで約100年後のことです。南越王国の大船の建造・操船技術が、イト国に伝わり、イト国は呉の滅亡とともに親魏の倭国に滅ぼされ、イト国の遺民は伊豆半島に逃れて第2のイト国(伊豆国)をつくり大船の建造・操船技術が残されたのではないでしょうか。北九州と伊豆半島には外洋船の造船所があったことでしょう。その遺構を発見したら僕はおそらく日本のシュリーマンになれるかもしれません。
『旧事本紀』に、神功皇后のときに伊豆国造が任じられた、とあります。神功皇后は応神天皇の母ですから、彼女が権勢をふるったのは4世紀中期あたりのことでしょう。国造というのは土着の勢力の統領に与えられるものですから、伊豆半島に逃れたイト国の遺民は、イト国の滅亡後数十年で堂々たる地方国家を作っていたものと考えられます。「イト」という発音に「伊都」ではなく「伊豆」の字を充てたのは、神功側の政権だったかも知れません。中国語では「都」の字も「豆」の字もともに無気音で発音され、都はトゥ(北京音)・トウ(潮州音)、豆はトウ(北京音)・タウ(潮州音)です。「都」と「豆」の発音については、『古事記』にスサノオが宮殿を造ったときに詠んだ歌が、万葉仮名で「夜久毛多都、伊豆毛夜弊賀岐」すなわち「やくもたつ、いづもやへがき」と表記されており、「都」が「ツ」、豆が「ヅ」と発音されたことがわかります。万葉仮名を考えた人は元来同じ無気音である「都」と「豆」を、日本語の清音ツと濁音ヅの区別に当ててしまったわけで、それはそれでかまわないのですが、4世紀に神功皇后が伊豆(イト)国として認識した国が、それから300年後の7世紀後期あたりの万葉仮名により伊豆(イヅ)という発音に化けてしまったのではないかと考えられるのです。ちなみに伊豆の国名は湯出(ユズ)に由来するという説がありますが、『風土記』の類に見られる他愛のない地名起源の話でしかないでしょう。