「歴史舞台としての中国西南部・南部」第10回 「李白と桐梓夜郎」

中国有名人物と貴州(唐朝中期)
唐代の大詩人・李白(701年~762年)は晩年、夜郎(現在の貴州省桐梓県)に流罪となり、夜郎についての多くの詩を作る

「歴史舞台としての中国西南部・南部」
第10回 「李白と桐梓夜郎」

唐代の大詩人・李白(701年~762年)は、742年(天宝元年)、42歳になってようやく長年の夢が実現し、道士・呉筠の推薦で長安の朝廷に召され、翰林供奉を勤め玄宗皇帝に仕えることになるが、2年にも満たず744年(天宝3年)宦官・高力士らの讒言により長安を追われる。その後、755年に起った「安史の乱」と唐皇室内部の争いという混乱の中で、李白は反官軍に加わったとみなされ、官軍に捕らえられて牢獄につながれ、757年、中国西南部の夜郎(現在の貴州省)に流罪となる。758年、夜郎に向かうも恩赦を受けて引き返し、長江を下り洞庭湖へ出、漢陽に至り、その後、李白は、761年冬、当塗(現・安徽省)県令の李陽冰のもとに身を寄せ、翌年、手持ちの全ての詩稿を李陽冰に託し、762年11月、62歳で、当塗の李陽冰宅で病没している。

755年(天宝14年)11月、安禄山が范陽(現・河北省北京一帯)で兵を挙げ、以後9年間に及ぶ「安史の乱」が勃発。15万の兵で12月に副都・洛陽を落とし、翌756年1月、安禄山が洛陽を都とし大燕皇帝と称す。同年6月には長安が陥落し、玄宗皇帝は蜀に逃れ、途中、楊貴妃、宰相・楊国忠らは味方の手によって殺される。玄宗の第3皇子・李享は霊武(現・寧夏回族自治区)へ向かい7月に即位し、第7代皇帝・粛宗となり、年号を至徳と改元。玄宗皇帝の第16子・永王李璘(粛宗の異母弟)は、粛宗が即位する前に玄宗皇帝の命を受けて、山南東道・嶺南・黔中・江南西道の四道の節度使として長江中・下流一帯の防衛にあたっていた。

756年(至徳元載)の末、盧山(現・江西省九江県)に隠棲していた56歳の李白は、永王李璘からの幕僚参加の招聘を受けて自己の意志で永王李璘の軍の幕下に加わる。しかし、粛宗は「蜀に行って玄宗に仕えよ」との命を無視して長江を下り江南に向かった永王李璘の軍を反軍とみなし討伐の官軍を差し向けた。長江を下った永王李璘の軍は、長江下流の丹陽(江蘇省鎮江)で粛宗の遣した軍と対峙するが、永王李璘の軍内部には粛宗軍へ帰順する者が多く、たちまちに敗退。永王李璘は長江をさかのぼり、嶺南(広西壮族自治区一帯)に逃れようとしたが途中で殺される。一方、長江を上る途中で軍から逃亡した李白は、757年(至徳二載)の春、彭沢県(現・江西省)で捕らえられ、潯陽(現・江西省九江)の獄につながれた。潯陽での牢獄生活は半年たらずで終了するが、しばらくして夜郎(貴州省桐梓県)への流罪が正式決定され、翌758年(乾元元年)には夜郎に向けて出発する。

「夜郎自大」の故事でも知られる夜郎は、古代西南夷の一つとして、貴州省に興った戦国、秦、漢時代の古夜郎国のことであるが、ここでいう李白の流罪地としての夜郎とは、古夜郎国(古夜郎の中心地や勢力範囲については諸説あるものの、その中心地については大多数の学説は、現在の貴州省の西部・西南部とする)ではなく、現在の貴州省北部の桐梓県夜郎壩に治所が置かれた夜郎郡夜郎県のことだ。この桐梓夜郎は、州の名は、珍州、湊州、播州、西高州などと変遷はあったものの、古夜郎国が漢成帝河平2年(紀元前27年)に滅亡してから669年たった642年に唐が設置し、1120年まで、唐、五代、北宋の時代478年間、ずっと続いた郡県である。

ただ、李白は夜郎について数多くの詩を作ってはいるものの、夜郎への流罪の具体的な時期、行程、恩赦を受けた場所については、長年の謎となりいろいろな議論がある。特に、李白が流罪地の夜郎に到着してから恩赦を受け引き返したのか、或いは流罪地の夜郎に向かい夜郎に到着する前の途中で恩赦を受け引き返したのかという点が大きな争点となってきた。李白は夜郎に到着する前の途中、三峡の巫山で恩赦を受け引き返したという説がこれまで多数説であったように思えるが、この点については、最近の夜郎に関する中国語書籍『夜郎研究』(貴州民族出版社、2000年刊)では、李白は夜郎にたどり着き逗留していたという論文が掲載され、『夜郎文化尋踪』(四川人民出版社、2002年)でも、夜郎に到着したという学説を紹介している。

主たる参考文献
*『夜郎研究』 (貴州民族出版社、2000年)
*『夜郎文化尋踪』 (四川人民出版社、2002年)
*『李白』 (安楽充郎 著、かや書房、1996年)

■安史の乱
755年11月、范陽節度使(地方の軍政、民政をつかさどる長官)で、北方の異民族から国境を守るために15万の兵を掌握していた安禄山が、范陽(現・河北省北京一帯)で兵を挙げる。
安禄山の挙兵の名目は、奸臣、楊国忠討伐であった。15万の兵はまず副都・洛陽に向かった。わずかに1ヵ月で洛陽は陥落。安禄山は洛陽を都とし、大燕皇帝と称した。
安禄山の軍は年を越して、洛陽から進軍、哥舒翰の守る潼関(関所)を破り、長安を陥落。玄宗皇帝は一族を引きつれて蜀に逃れることになったが、途次、長安の西方50キロ、馬嵬で、護衛の兵士たちは、乱を招くこととなった楊国忠とその一族を惨殺し、楊貴妃をも殺すようにと迫った。玄宗皇帝は、今はこれまでと観念し、楊貴妃に別れを告げ、高力士に命じて殺させた。この後、玄宗は蜀に落ちのびた。
757年正月、安禄山はその子、安慶緒に殺され、安慶緒が洛陽で帝位についた。
757年、名将・郭子儀の軍は長安を奪回、次いで洛陽をも奪回して、同年10月に粛宗、12月には玄宗が長安に帰還。
759年、唐に帰順し范陽節度使となっていた史思明は再び反乱を起こし洛陽を陥れ、759年3月、安慶緒は、史思明に殺され、史思明は国号を「大燕」とし、自ら大燕皇帝と称した。
761年に史思明は、その子・史朝義に殺された。史朝義は一時勢力を伸ばすが唐軍に追われて、763年正月に、その部下に殺され、ここに9年間にわたった「安史の乱」が終結。
尚、玄宗・粛宗は、762年4月、相ついで没す。

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