メコン圏を舞台とする小説 第59回「愉楽の園」(宮本 輝 著)


「愉楽の園」(宮本 輝 著、文藝春秋、1989年3月発行)

<著者紹介> 宮本 輝(みやもと・てる)<本書著者略歴より、本書発刊当時>
1947年、兵庫県に生れる。追手門学院大学文学部卒業、1977年、「泥の河」で第13回太宰治賞を、翌1978年、「蛍川」で第78回芥川龍之介賞を受賞。さらに1987年、「優駿」で第21回吉川英治賞を受ける。著書に「蛍川」「幻の光」「星々の悲しみ」「道頓堀川」「錦繍」「青が散る」「流転の海」「春の夢」「避暑地の猫」「ドナウの旅人」「葡萄と郷愁」「優駿」「夢見通りの人々」「五千回の生死」「花の降る午後」、エッセイ集「二十歳の火影」「命の器」、旅行記「異国の窓から」、対談集「道行く人たちと」「メイン・テーマ」がある。

1947年兵庫県神戸市生まれの本書の著者・宮本輝は、1977年「泥の河」で第13回太宰治賞を受賞して30歳で作家デビュー。1978年「蛍川」で第78回芥川賞を受賞し、1987年「優駿」で吉川英治文学賞、2004年「約束の冬」で芸術選奨文部科学大臣賞文学部門、2010年「骸骨ビルの庭」で司馬遼太郎賞を受賞、同年紫綬褒章受章をするなど、多数の著作を執筆してきた人気作家で、「泥の河」「蛍川」「道頓堀川」と、川を背景とした三部作も有名だが、本書「愉楽の園」は、水の都バンコクのチャオプラヤ川と運河を背景とした作品。本書「愉楽の園」は、1989年3月に文藝春秋より単行本が刊行されているが、初出は「文藝春秋」1986年5月号~1988年3月号に掲載の長篇小説。本書あとがきで著者自身が記しているが、自分の処女作について、「螢川」とか「泥の川」だとか述べてきたが、真の処女作は「弾道」という題名のバンコクを舞台とする小説を、著者が27歳の時に、会社勤めをしながら書いていたと明かしている。しかも驚いたことに、一度も行ったことのないタイのバンコクを舞台に小説をなぜ書いたのか、そのときの自分の気持ちも忘れてしまったとのことで、文藝春秋で小説を連載しないかという話が来たときに、即座に、全くの成品であった真の処女作を蘇らせようと決めたのだが、できあがった作品は、何もかも異なった作品が出来上がったとのこと。

本書の主人公・藤倉恵子は、26歳の日本人女性で、3年前からバンコクのチャオプラヤ川近くの運河のほとりに、かつての貴族の旧邸に、タイ政府の高官の愛人として、あてがわれた屋敷と使用人たちと暮らしているが、タイに来て3年になるのに、タイ語を覚えようという気はまったくなく、タイ・シルクだけは気に入っていたが、タイ人を好きになれなかったし、タイ料理も口にあわず、小乗の伽藍の色彩も模様も、大通りの喧噪と煤煙も、路地の悪臭も嫌いという、無為に日々を送っている感じの女性として登場。藤倉恵子を囲っている相手のタイ人男性サンスーン・イアムサマーツは、王室の血を引く人間で内務省の高官で資産家の家系。45歳で2人の娘がいて5年前に妻を病気でなくして以来ずっと独身という地位も資産もある男性。この2人の最初の出会いは、3年前に、藤倉恵子が、バンコクに来て5日目で、翌日スリランカに向かうつもりのあてのない旅をしていた時で、藤倉恵子は、タイ人の物理学者と結婚した学生時代の友人に会うために、教壇に立っているチュラロンコン大学に会いにでかけ、大学からホテル②帰るためタクシーに乗り、シーロムロードとラマ四世通りが交差する地点に差し掛かった時に、自分の乗ったタクシーにサムローが追突。夕暮れの交差点は、すさまじい数の燕が飛び交っていた時の災難の最中に、サンスーン・イアムサマーツが車で通りかかっての出会い。

どうして、ただ立ち寄っただけのバンコクで、そこで偶然出会ったタイ人男性に身を任せてしまうことになったのか、気になる主人公の藤倉恵子の前歴は、本書の第1章で紹介される。東京生まれの藤倉恵子は、大学を卒業してアメリカ系の航空会社にスチュワーデスとして就職し、3ヶ月間、アメリカでの養成機関を経て、あと2ヶ月で機内勤務が始まるころに突然退職。会社を辞めて3ヶ月後にあてのない旅に出て、バンコクにちょっと立ち寄った時に、サンスーン・イアムサマーツと出会う。突然退職するに至った事情は、結婚の約束をしていた恋人の指揮者の男性が心の病気からか、首を吊り、一命はとりとめたものの植物人間になり、藤倉恵子は半年間は病院に通って看病するも、結婚もできず、つらくて哀しくて、恋人から逃げ出し、どこでも良かったが、恋人のいるところから遠くへ逃げ出したくて海外に出国していた。立ち寄っただけのバンコクで偶然出会った独身で資産家で政府高官のタイ人男性サンスーン・イアムサマーツから見染められ、運河のほとりの邸宅をプレゼントされ、メイドとコックもみつけてくれるという話に、この男に身を任せて、贅沢で怠惰な数ヶ月を過ごすことで、植物人間化した恋人をすっかり忘れるための時間と場所を得ようとし、いつのまにか3年の月日が経っていた。

物語自体は、この段階から始まり、チャオプラヤー川近くの運河の畔の邸宅で、タイ人男性の囲われ者に近い形で3年にもわたる歳月を、贅沢で怠惰な生活を送っていた若い日本人女性が、自分の人生を、この先どう取り戻していけるのか?というのが、本書の一つの読みどころ。ストーリーは、藤倉恵子とサンスーン・イアムサマーツとの思い出の場所でもある、チャオプラヤー河のほとりのタイ・バンコクの最高級ホテル、ザ・オリエンタル・バンコク(2008年名称変更で現マンダリン・オリエンタル・バンコク)から展開する。ホテルの名称の明記はないものの、ホテルの場所や特徴の記述などから推定できる。このホテルで、藤倉恵子は、プールサイドでの水着姿をアメリカ英語を話すイギリス人男性・ロバート・ギルビーに盗み撮りされたり、10数年勤めた会社を何の見通しも無しに辞めて1年間世界を放浪しタイに立ち寄った36歳の日本人男性・野口健と知り合ったり、自称23歳の少年に見えるホテルのボーイ・テアンが登場してくる。

そこから物語は、大臣を目指すサンスーン・イアムサマーツの政治的野望とその周囲の人たち、野口健の友人で36歳の新聞社のバンコク支局の特派員・小堀秀明とその周囲の人たち。ホテルのボーイ・テアンとその周囲の人たちが、意外な繋がりを持ちながら展開し、登場人物たちが突然亡くなったりと、ある種のミステリー的な小説であるかもしれない。ただ、やはり、それ以上に、本書は、藤倉恵子がサンスーン・イアムサマーツから求婚されるに至り、二人の関係が結婚し正式な夫婦に発展していくのか、あるいは、突如現れた36歳の人間臭いが無職で何も持っていない野口健との関係はどうなるのか、大人の人生・恋愛小説としての読後感の満足度が強い。チェーホフの短編小説「恋について」の話の挿入も効果的。また、たくさんのタイ人の登場人物の中でも、市井の使用人家族や行商人の様子も、闘魚が大好きなことの描写も含め、家族思いの様子など人間味あふれるシーンがあるが、非常に哀しく気になる登場人物たちの存在感も強烈な印象。

生後間もなく寺院の前に捨てられ孤児として育ったホテルのボーイ・テアンも、その幼く愛らしく見え年齢不詳の少年か青年か分からないことから、男色好みの人たちから目をつけられてしまうが、他にも、サンスーンの私服護衛官で元タイ国軍少佐という、エカチャイ・ボーウォンモンコンも哀しい。サンスーンが全幅の信頼を置き、6年前、軍の若手の将校による小さなクーデターに連座して逮捕され、軍籍を剥奪されたが、2年前に復帰している人物だが、哀しさが残る展開となっている。もう一人の重要な登場人物は、生まれた時から、下半身に奇怪な魚の鱗のような、蛇のような痣があり、親からも捨てられて売られ、幼いころは、バンコクの王宮前の広場で見世物にされていたというチラナンという青年。華僑の養親のおかげで、タマサート大学にも進学し、作家の才能を発揮し、学生時代に小説を2つ発表して注目されていたが、1976年の血の水曜日事件の時に、共産分子と見なされて以降、地下に潜っている若い作家。19歳で書いた処女作「王宮前」は、見世物の道具にされて、王宮前の広場で過ごした朝から夕方までのことを書いた小説で、それをバンコクに見世物のために連れてきた男の目で描いているという作品という設定。これらの登場人物が、藤倉恵子、サンスーン・イアムサマーツ、野口健という本書の主たる登場人物たちと、驚きの繋がりを持って行く。

本書のストーリーの展開時代については、具体的な記載は出てこないが、登場人物の1人のチラナンが、20歳のタマサート大学の学生の時に、1976年10月6日にタマサート大学で起こった「血の水曜日事件」(10月6日事件、タマサート大学虐殺事件)が起こっていることと、チラナンと兄妹のように育った女性スワンニー・バンクットポンが27歳であることから、1984年以降の1980年代中頃と推定できる。また本書のストーリーの展開場所は、ほとんどタイのバンコク市内各地で、唯一ヶ所、サンスーン・イアムサマーツと野口健が2人で向き合うシーンが、バンコクから南西80kmにあるラーチャブリ県のダムヌンサドゥアック水上マーケットとなっている。本書はバンコク市内各地や通りが登場し、また、タイのいろんな料理や文化、事象などにも触れているが、やはりチャオプラヤー川沿いや運河などの情景が非常に印象的。藤倉恵子の住んでいる邸宅の場所についても、明確な記述はないものの、タイ国立図書館近くのチャオプラヤー川の運河のほとりと推定できる。ダムヌンサドゥアック水上マーケットの様子だけでなく、チャオプラヤー川の対岸と行き来しながら川を上ったり下ったりする渡し船を利用するシーンもあり、藤倉恵子と野口健が、チラナンと親しかった女占い師が露店を出しているタマサート大学近くのマハラート市場を訪ねる時も、チャオプラヤー川のマハラート船着き場を利用している。

よく言われるタイ、バンコクの怪しい魅力について、本書の中でも、”バンコクの魔法。この国には、なんか媚薬みたいなものがたちこめてる。”という会話も出てきているが、本書の特徴的なシーンである蜘蛛の巣のように張り巡らされた運河については、”運河の<向こう側>と<こちら側>との世界を分断し、なおかつ、行き来する小舟を用意しておく”とか、”世界のいたるところに、<向こう側>と<こちら側>とがあり、それはなにもタイだけの現象ではなかった。けれども、タイという国は、ことのほか<向こう側>と<こちら側>との境界は遠く、その境界を成すものは、多くの場合、運河であると藤倉恵子は知ったのである。この見事な分断の道具が、<向こう側>の人々にとっても<こちら側>の人々にとっても共通の道路であった時代は終っていない。貧しい者は、そこで小舟を操って小商いを営み、富める者は船遊びを楽しむ。運河は狭く、<向こう側>の岸はいつも見えているのに遠くて、大きな船で多数の人間を渡すことが出来ない・・。せいぜい、2,3人が乗れる程度の小舟でしか渡れない運河。このタイという国を象徴する見事な運河・・・。”という感じ方が述べられていて面白い見方と思えた。本書の最後は、チャオプラヤ河を、流れに逆行して、上っている、輪ゴムが次から次へと浮遊して流れてくるシーンで、このシーンが何を意味するかは、本書を最後まで読むと良く分かるが、エンディングとして非常に独創的な描写で驚いた。

<目次>
第1章 薄墨色の目
第2章 人間の鱗
第3章 雨期の雨
第4章 王宮広場
第5章 闘魚
第6章 水の道
第7章 漂流物
あとがき

ストーリーの主な展開時代
・1980年代半ば頃と推定(具体的な年代記載無し)
ストーリーの主な展開場所
・<タイ> バンコク、ラーチャブリ

ストーリーの主な登場人物
・藤倉恵子(3年前にタイに立ち寄り、そのままバンコクに住んでいる26歳の独身日本人女性)
・サンスーン・イアムサマーツ(タイ政府の内務省の高官で45歳)
・野口健(会社を辞めて、1年間、世界を放浪していた36歳の日本人男性)
・チェップ(藤倉恵子に仕える23歳の住み込みのメイドで3人の子の母)
・ティム(藤倉恵子に仕える40歳の住み込みではないメイドで主に料理と洗濯を担当)
・コップ(チェップの夫で運転手と庭師と雑用夫を兼ねる住み込みの使用人)
・テアン(オリエンタルホテルと思われるホテルの自称23歳の少年に見えるボーイ)
・エカチャイ・ボーウォンモンコン(サンスーンの私服護衛官で元タイ国軍少佐)
・ロバート・ギルビー(サイアムスクエア近くに事務所兼住まいを構える50歳のイギリス人男性)
・小堀秀明(野口健の友人で36歳の新聞社のバンコク支局の特派員)
・スワンニー・バンクットポン(タマサート大学卒業のバンコクの木賃宿の黄金旅社の27歳女性経営者)
・チラナン(下半身に魚か蛇のような大きな痣がある若い作家)
・朱和晋(バンコクの華僑でスワンニーの養父)
・喬鵬全(金物屋「喬鵬全公司」の親父で、朱和晋と親友)
・マイ(テアンと運河沿いに住む小船を操る料理の名人のタイ人女性。置き屋から女性を連れて寝る場所を提供)
・カンヤー・バンヤワン(スワンニーと大学が同じで、日本の大学に留学後、日系企業のバンコク支店に勤務の女性)
・カイ(天秤棒を担ぎ、鶏の肉や贓物などを七輪のようなもので焼いている60歳ぐらいの行商人男性)
・サム・ポーン(粗末な食堂兼雑貨店主)
・サム・ポーンの店先で、いつもたむろしている三人組のごろつき
・オリエンタルホテルと思われるホテルのフロント係
・オリエンタルホテルと思われるホテルロビーのウエイトレス
・サンスーンの長女(フランスに留学中で来年卒業予定でフランス人男性と付き合っている)
・パク(サイアムセンターに近い通りに面した食堂の若い主人)とその妻子
・アメリカで働く37歳のタイ人女性弁護士(サンスーン・イアムサマーツの再婚候補者)
・藤倉恵子の学生時代の友人(タイ人の物理学者と結婚し、夫と同じチュラロンコン大学で近代日本史と日本語を教える)
・藤倉恵子の結婚の約束をした、かつての日本人の恋人の指揮者
・藤倉恵子の日本に住む5歳上の兄
・藤倉恵子の日本に住む母
・野口健の日本に住む妹
・黄金旅社に宿泊のアメリカ人の青年
・黄金旅社に宿泊のフランス人の大学生たち
・黄金旅社に宿泊のフランス人の大学生で、17歳まで5年間、バンコクで暮らしていた外交官の息子
・ハリス(黄金旅社に宿泊のイギリス人の大学生で、産婦人科医の父の跡を継ぐことが決まっている医学生)
・サイアムセンターの一角にある、ベトナム系の顔をしたカメラ店の主人
・タイ人の婦人警官
・コニー(置き屋で働く16歳のタイ人少女の娼婦)
・朝だけ美味しいお粥を食べさせる屋台の主人
・王宮広場で物を売るテアンの友人の青年
・王宮の近くのビルにある政治家や高い地位にある役人が集まる会員制のクラブのスタッフたち
・アメリカのタイ大使館で一等書記官として4年間勤務して帰国したばかりのタイ人男性
・タマサート大学近くの市場の露店の女の占い師で、チラナンの友人
・タマサート大学近くの市場の闘魚屋の親父
・オリエンタルホテルと思われるホテルのタイ人の宴会係
・行商人カイの息子夫婦と2人の孫
・サンスーン・イアムサマーツの小説出版記念パーティーの招待客たち
・桑田(サンスーン・イアムサマーツのタイ在住の日本人友人の実業家)

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