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論考論文・探求活動記「東南アジアの仏足石」(鈴木 峻さん)第3編「タイ西部・中部・北部 仏足跡探訪記」第1回
- 2026/3/16
- 「東南アジアの仏足石」(鈴木 峻さん), 手記投稿等, 論考論文・探求活動記
論考論文・探求活動記「東南アジアの仏足石 」(鈴木 峻 さん)
第3編 「タイ西部・中部・北部 仏足跡探訪記」 第1回
鈴木 峻(すずき・たかし)
1938年8月5日、満州国・牡丹江市生まれ。1962年、東京大学経済学部卒業。住友金属工業、調査部次長、シンガポール事務所次長、海外事業部長。タイスチール・パイプ社長。鹿島製鉄所副所長。(株)日本総研理事・アジア研究センター所長。
1997年、神戸大学大学院経済学研究科兼国際協力研究科教授。2001年、東洋大学経済学部教授。2004年定年退職。その間、東京大学農学部、茨城大学人文学部非常勤講師。立命館大学客員教授。経済学博士(神戸大学、学術)。
2012年9月~2014年6月、タイ・ラオス、カンボジアに数次にわたり仏足石調査旅行。主な著書『東南アジアの経済』(御茶ノ水書房、1996年)、『東南アジアの経歴史歴史』(日本経済評論社、2002年)、『シュリヴィジャヤの歴史』(2010年、めこん)、『THE HISTORY OF SRIVIJAYA under the tributary trade system of China』(英文。2012年、めこん)、『扶南・真臘・チャンパの歴史』(2016年、めこん)、『THE HISTORY OF SRIVIJAYA, ANGKOR and CHAMPA』(英文。2019年、めこん)、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)<注記>本著作分は、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)発刊以前に、著者ホームページで発表掲載されていたものの一部で、ホームページ閉鎖に伴い、著者より転載許可を得て再掲載されているものです。原文初出の主な時期は2010年代です。従来の発表文章などの延長が、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)の発刊に繋がっています。
タイ西部、中部、北部 仏足跡探訪記(2013年4月28日~5月9日)第1回
南タイの仏足石については松久保秀胤先生の数次にわたる調査団の現地調査もあり、実態はかなり詳しく解明されつつある。私自身もシュリヴィジャヤ史研究の現地調査も兼ねてしばしば南タイに出かけ、仏足跡も見てきた。この地域は仏教伝来の過去にさかのぼって仏足跡も制作され今日に残っているという特徴がある。結論的には各港付近の丘の上の岩盤に彫りこまれた足型だけの素朴な仏足跡が多く、またスコタイ・アユタヤ以降に作られた装飾も豪華な大型のものも存在する。しかし、それら大型仏足石(跡)も多くはその近くに原始的なものが存在するか、その古いもののうえに新しい仏足跡を乗せた例もある。
今回の私の旅の目的は、タイ大陸部でビルマとのつながりの深い西部、中部と北部の一部にある仏足跡がいかなるものであるかを観察したいと思って出かけた。古代の東西貿易は主にベンガル地方のタムラリピテ(現在のカルカッタの近く)港からインドの物産をビルマ沿岸に運び、それをチャオプラヤ水系などを使ってタイ湾にまで陸送し、その多くは扶南がオケオ港に運び、そこから中国やインドシナ半島に運ぶというルートが確立していた。当時、ビルマ沿岸で貿易に従事していた民族は「モン族」であり、彼らはインドの宗教(ヒンドゥー教、仏教)の影響を交流の当初から(紀元前数世紀)受けていたことは間違いない。
古来ビルマ側のテナセリム(Tennaserim)は頓遜として漢籍に記され、3世紀に扶南の范師蔓の開発した手漕ぎのスピード・ボートの海軍によって制圧された主要港の1つである。ここには毎日1万人の商人が集い、無いものはないとさえいわれたところである。『梁書』は范師蔓の事績について次のように語っている。「蔓勇健有権略、復以兵威攻伐傍国咸服属之。自号扶南大王。乃治作大船、窮漲海、攻屈都昆、九雅、典孫等十余國、開地五六千里・・・」とある。扶南は領地の拡大を目指したものではなく、その主眼はあくまで貿易上の拠点の拡大である。そのために当時の交易上の要地を支配下に収めたのである。この戦略は後のシュリヴィジャヤにも受け継がれた。彼らは軍事力としては徹底的に海軍力の強化と維持に注力した。海も陸もという欲張った考え方ではない。
そのテナセリムでインドなどの外国商人から仕入れた財貨は三仏塔(スリー・パゴダ)峠を越えてカンチャナブリに運ばれた。そこからかメクロン川(Maeklong River)を使って船で下流のラチャブリやペチャブリ(ペブリ)に運ばれた。そこからタイ湾を使い扶南の主要港であるオケオまで運ばれ、さらに中国への朝貢も最初はオケオ発の船で運ばれたものと推察される。その後、バンドン湾のチャイヤーやスラタニ港にも運ばれるようになったに相違ない。西方からの輸入品はこちらのほうが便利である。タクアパからの積荷もここに来る。
もう一つのビルマとの交流地点は北部のターク県のメー・ソット(Mae Sot)である。これもメー・ソットからターク市まで財貨が運ばれ、それがピン川を使ってチャオプラヤ水系を利用してタイ湾にまで出て、同じくオケオまで運ばれたものであろう。また、タークからスコタイ方面にも運ばれた。タークは交通の要衝であった。この地域に居住し支配していたのはモン族である。したがってモン族は仏教の受容も早かったはずであり、紀元1~2世紀にはすでに始まっていたとみてよいであろう。モン族の集落にはインド商人や金属加工の職人などが合流した。そこにインド人の仏僧がベンガル地方からやってきた。仏教の信仰を広めるためには何らかの「崇拝の対象」が必要となる。仏像がこの地に本格的に登場するのはおそらく6世紀になってからであろうから、その前は「仏足跡(石)」を作って拝んだと考えられる。これは南タイでも同じことである。
また、扶南によってタイ湾への出口をふさがれたモン族は内陸の深くに浸透し、中国の雲南省に活路を開いたものと思われる。チェンマイの近くのハリプンチャイはモン族の王国があった場所として知られている。その地域は後にクメールのチェンラ(真臘)がモン族を支配下に収め、クメール王国も雲南省への通商路を確保した。漢籍にみる「陸真臘」はこのルートを使って出入りしていたクメール王国の存在を示唆するものではなかろうか。
私がまず行ってみたかったのはカンチャナブリ・ルートである。スリー・パゴダ・パスはバンコクから450Kmちかくあり、日帰りは困難とされバンコクの日本人駐在員も現地を見た人は意外に少ない。私自身もカンチャナブリ市までは映画「戦場に架ける橋」で有名であり、犠牲になった英豪軍などの兵士の墓が累々としてあることで以前訪ねたことがあるが、そこから先に行こうなどとは夢想だにしなかった。私の今回の計画では、(2013年)4月29日にレンタカーを11日間借りてまずカンチャナブリに行き、その40Kmほど先にあるPrasart Mueang Singという歴史公園(前に行ったことがある)に行き、そこの園長のブンヤリットさんを訪ね、いろいろ相談をしながら、カンチャナブリの調査を行おうと考えていた。その話を友人の鈴木力(ちから)氏にしたところ、スリー・パゴダにはまだいったことがないので、一度トライしてみますかという話になってしまった。道中2~3か所ある仏足石をみて時間切れになったら引き返せばよいなどと無責任な提案をした私が悪かったのである。
2013年4月28日 サンクラブリとスリー・パゴダ
8時半にバンコクのホテル前を出て、ベテランの運転手さんが道をよくご存じで必死に頑張ってくれたが、昼時になってもまだ峠までは到着できなかった。峠近くの途中にSangkhlaburi Wat Wang Wiwakarmというモン族の建てた寺院に寄った。そこに庭を箒で掃いていた若い仏僧がいたので、仏足跡はどこかと尋ねたら、実に流暢な英語の返事が返ってきた。彼は現在イギリスに留学中であるが休暇で一時帰国しており、来週またイギリスに帰るのだという。立派な広大な寺院であり、仏足跡は車で数分先の別院に展示されているという。モン族の有力者が寄進して建てたものであろう。彼に本部の寺院内を案内してもらい、一連のガラス玉の数珠を買い求め(200B)、それを首にぶら下げ、私はその後の旅を続けた。そのご利益(りやく)たるや絶大なものがあった。ともかく翌日(29日)以降の旅を無事にこなし、5月16日のSiam Societyでの講演会も成功裏に終わった。ここの仏足跡そのものは大判のごく普通のものだったが、昔は別なものが存在していたであろうことは間違いない。白い守護の獅子像がある後ろの建物に仏足跡はあった。平凡な形の大型仏足跡であり、これはどう見ても近世の作品である。もともと古代のものもあったに相違ない。

その後、スリー・パゴダの現場に行ったが、下の写真に見るごとく、極めて小型のものであった。まるでテントのような形である。その付近に日泰寺という寺があり、日本政府が資金を出して、この地域で戦時中に亡くなられた両軍兵士の霊を慰めるものだという。その日はいそいでバンコクに引き返したが、途中カンチャナブリで簡素な夕食をとったりして、バンコクに帰ったのは夜の10時を回っていた。運転手さんは1日900Kmも走ったことになる。まことに申し訳ないことであった。













