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メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第39回 「ハノイで見たこと ー 北ベトナム報告と日記」(松本清張 著)
- 2026/4/15
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メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第39回 「ハノイで見たこと ー北ベトナム報告と日記」(松本清張 著)

「ハノイで見たこと ー北ベトナム報告と日記」(松本 清張 著、朝日新聞社、1968年8月発行)
<著者紹介> 松本 清張(まつもと・せいちょう)(1909~*1992)<「象の白い脚」著者略歴より>
1909年北九州市生まれ。給仕、印刷工などの職業を経て、朝日新聞西部本社に入社。懸賞小説に応募入選した「西郷札」が直木賞候補となり、1953年に「或る『小倉日記』伝」で芥川賞受賞。1958年に刊行された『点と線』は、推理小説界に「社会派」の新風を呼び、空前の松本清張ブームを招来した。ミステリーから、歴史時代小説、そして古代史、近現代史の論考など、その旺盛な執筆活動は多岐にわたり、生涯を第一線の作家として送った。1992年に死去。
本書「ハノイで見たこと ー北ベトナム報告と日記」(松本清張 著、朝日新聞社、1968年8月発行)の主要内容は、「第1部 ハノイからの報告」と「第2部 ハノイ日記」から成り立っていて、「第1部 ハノイからの報告」は、もともと「松本清張の北ベトナム報告」という原題で、1968年4月5日から同年6月7日まで週刊朝日で連載されたもの。一方、「第2部 ハノイ日記」は、1968年4月21日から同年6月2日まで「赤旗・日曜版」で連載されたもの。「ハノイからの報告」の素材となっているのが「ハノイ日記」なので、内容的には重複している部分も少なくない。この「ハノイで見たこと」の内容は、「付 ハノイに入るまで」も含めて、全66巻で文藝春秋より刊行された「松本清張全集」(全集1巻1971年4月~全集66巻1996年3月)の中の「松本清張全集 第34巻」(半生の記/ハノイで見たこと/エッセイより)(松本清張 著、文藝春秋、1974年2月発行)の中にも収録されている。尚、「松本清張全集 第34巻」では、35編の短いエッセイも収められていて、その中の「暑い国のスケッチ」は、タイ、シンガポール、マレーシアを旅したエッセイ。
そもそも、松本清張(1909年~1992年)氏のベトナム戦争下のベトナム民主共和国(北ベトナム)訪問は、1968年3月19日(火曜)~同年4月5日(金曜)の計18日間にわたり行われ、訪問のタイミングは、偶然ではあったが、1968年1月30日から2月12日まで続いたベトナム民主共和国(北ベトナム)と南ベトナム解放民族戦線によってベトナム共和国(南ベトナム)の主要都市で展開した一斉奇襲攻勢のテト攻勢の直後。松本清張氏は、1967年の秋から、「週刊朝日」の副編集長の森本哲郎(1925年~2014年)と同行で北ベトナムを訪問したいとハノイの対外文化連絡委員会に申請していたが、1967年末から1968年1月12日までキューバで開かれたキューバ政府主催の世界文化会議に出席のためハバナ滞在中の1月4日に、1968年1月にハノイに招待するという北ベトナムからの電報が松本清張氏の自宅に届き、キューバから1月15日に帰国してハノイからの電報を知り、すぐにハノイに出発もできず、結局、2月25日に羽田発のエールフランス機でプノンペンに向かう。世界の焦点となっているハノイには世界中のジャーナリストや作家から入国の申込みが殺到し、資本主義国からのハノイ入りは非常に困難と見られていただけに、ハノイへの入国申請がスムーズに進んだのは意外だったと、松本清張氏は述べている。
北ベトナム対外文化連絡委員会からは、カンボジアのプノンペン、ラオスのビエンチャン経由で北上する国際休戦監視委員会の飛行機に便乗してハノイに入ることを指示され。プノンペンで北ベトナム入国のビザを取得する。ところが、ハノイの悪天候のために飛行機がビエンチャンからハノイに飛べずに、3月19日までの24日間、カンボジア、ラオスに足止めを食ってしまう。国際休戦監視委員会の連絡専用機はICC機という略称で、サイゴン、プノンペン、ビエンチャン、ハノイの間を2週間に3回往復している。監視機関は、カナダ、インド、ポーランドの3国で構成されている。ちなみに、「SAS/サイゴン サンライズ作戦」(ジェラール・ド・ヴィリエ著)というハードボイルドのスパイ小説では、この国際休戦監視委員会の連絡専用機の飛行ルートがストーリー上で重要なポイントとなっている。本書「ハノイで見たこと ー北ベトナム報告と日記」では、ホン河東岸のハノイ・ロンビエン区のザーラム空港を、ハノイのジアラム国際空港と、ベトナム語発音に即さずに何度も表記されている。現在のハノイ都心部から北に約45km離れたノイバイ国際空港は1963年に空軍基地として建設され、1978年からザーラム空港に代わり民間空港として軍民共用化された空港。
この松本清張氏による北ベトナム訪問で、なんといっても一番の特筆すべき出来事は、1968年4月4日(木曜)午後3時から、ファン・バン・ドン首相との単独会見(1時間半の会見時間)の実現。ベトナム戦争の北爆縮小に関する「ジョンソン声明」とそれに続く「ハノイ回答」という、この歴史の瞬間に、ちょうどハノイに居合わせ、ハノイ回答の16時間後に、世界が注目するタイミングでのジャーナリズム関係の外国人としてハノイ回答直後の初めてのファン・バン・ドン首相(1906年~2000年)との会見になる。アメリカ第36代大統領リンドン・ジョンソン(1908年~1973年、在位1963年11月22日~1969年1月20日)が、1968年3月31日に、北ベトナムのほぼ全域に対する爆撃を一方的かつただちに停止するという北爆停止と次期大統領選挙への不出馬を発表。このアメリカのジョンソン声明に対し、アメリカの真の狙いや今後の成り行きなど、諸説推測が入り乱れると同時に、ジョンソン声明に対する北ベトナム側の正式表明が、いつどのような内容となるかにも注目が集まるが、1968年4月3日(水曜)夜9時過ぎから、外務省新聞課で緊急記者会見があり、松本清張も参加。この緊急記者会見が、北ベトナム側のジョンソン声明の受諾声明という「ハノイ回答」で、北ベトナム政府は、北爆停止について話合いをはじめるためにアメリカ代表と北ベトナム代表が接触する用意のあることを声明するという内容。どの国もハノイの受諾声明を予想外として驚いているようであったが、松本清張によるファン・バン・ドン首相との単独会見の問答のやりとりの様子が本書で詳しく掲載されている。
北ベトナムのファン・バン・ドン首相との単独会見が圧倒的に凄いことであるが、対外文化連絡委員会の通訳グエン・クイ・クイ氏による随所での説明などに加え、他にも、対外文化連絡委員会の副委員長ファム・フン氏、ベトナム文学芸術家協会副書記長バオ・ディン・ジアン氏、ジャーナリスト会議ルイ・クイ・キ書記長、ニャンザン社にホアン・チュン編集長、ハ・バン・ラウ大佐(これまでゲリラ作戦の指導を行い、ジュネーブ会議ではファン・バン・ドン首相に従って出席。現在、休戦監視委員会の連絡責任者、また、ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪調査委員会常務委員(その後のパリ会談の代表))、ベトナム日本友好協会会長チャン・ダン・チュエンなど要人たちとの会談や会食の席上で、いろんな話を聞いている。中でも、南ベトナム民族解放戦線ハノイ常駐代表団団長グエン・ヴァン・チェン氏との長時間にわたる会談は非常に興味深く、解放戦線の活動、テト攻勢の評価、ケサン攻防戦、北ベトナム正規軍と南部戦線のベトコンとの関係、1967年7月発表の南ベトナム民族解放戦線の新しい政治綱領などについての会談のやりとりが紹介されている。
気になるハノイの爆撃被害状況をはじめ、ハノイの街の様子や人々の表情など、抗戦下の生々しいハノイの素顔も伝えれている。ハイフォンやハノイが激しく攻撃されていた報道もあったが、テト攻撃以来、昼間は米機は来なくなり夜間だけになっているとの説明が同行通訳の人からまず説明を受ける。昼間の爆撃がひどく、ハノイ市民は夜間に仕事や買物をするという話は聞いていたが、そういうことはなく、市内を散歩したり空襲下にさらされているとはおもえないほどハノイが落ち着き、静かな日常生活を続けているとの感想。ハノイの人々の顔が明るいうえに、松本清張の印象では、それがさらに自信に満ちた表情になっているが、この自信は解放戦線によるテト以来の攻撃の成果によって増大したように思われると述べている。だれを訪れても、第一に先方から質問されるのは「テト攻撃をどう思うか、日本ではどうみているか」ということ。ただ、松本清張氏のハノイ到着翌日の未明には、最初の空襲警報を聞いてホテルの防空壕に逃げ込み、その後も街中でも空襲警報を何度も耳にし防空壕に入ることになるが、松本清張氏にとっては、空襲警報を耳にするのは、1944年夏、米機が初めて北九州を爆撃した時に北九州の小倉にいて、24年ぶりとのこと。4月1日からはジョンソン声明があったことで、ハノイの空襲は無くなっている。
ハノイでのホテルは、フランス統治時代、「メトロポール」と呼ばれたトンニャット・ホテル。同宿のカリフォルニア大学の社会学の教授シューマン氏やアメリカの女流作家メアリー・マッカーシー氏、ベトナム通のルポライター、バーチェット氏たちとの交流もあるが、ハノイ市内では、ハノイ市内の爆撃された建物の跡見て回ったり、市内の公園や書店、映画館など市民が集まる場所も立ち寄っているが、歴史博物館と軍事博物館を見学していて、「ハノイからの報告」では、その関連で、ベトナムの歴史や闘争の歴史などについて詳しく紹介している。滞在は、ハノイだけでなく、ホアビン省マイチャウ県の高原の少数民族の村やラオス国境近くまで泊まりがけで視察に出たり、ハイフォンにも泊まりがけで出かけている。ハイフォンは外国人でハノイを訪問した者も容易には入れず、そこは船からどんな軍事物資を荷揚げしているか分らず、加えてかなりな爆撃で危険でもあると聞いていたが、ハノイに入りすぐに北ベトナム側にハイフォン訪問を申し入れていたもの。ハイフォン市内の爆撃跡を見て回り、市の中心部は美しいが、周辺の破壊地区は瓦礫の山だったが、ただ、ハイフォン市の中心部はハノイよりも活き活きとしていて、群衆も多く、賑やかに歩いていたとのこと。ハイフォンに行くときにも通るハノイの紅河にかかるロンビエン橋は長く爆撃から守られてきたが、1967年夏、米機の大攻撃で遂に落ち「浮橋」で対応。
「松本清張全集 第34巻」(半生の記/ハノイで見たこと/エッセイより)(松本清張 著、文藝春秋、1974年2月発行)では、写真掲載は一切無いが、本書「ハノイで見たこと ー北ベトナム報告と日記」(松本清張 著、朝日新聞社、1968年8月発行)では、松本清張氏の北ベトナム訪問時の本書内容と関連した日本電波ニュース提供の写真も掲載されているのは非常にうれしい。「ファン・バン・ドン首相との単独会見」「ハノイ市の爆撃跡に立つ松本清張氏」「ハノイ市に立てられた2800機撃墜を伝える看板」「1968年5月1日のメーデー集会でのホー・チ・ミン大統領。レジュァン第一書記とファン・バン・ドン首相」「ハイフォン港の埠頭での松本清張氏」「3月31日のジョンソン声明以後も防空壕を掘っているハノイ市民」「4月3日の北ベトナム政府声明を伝える新聞を求めるハノイ市民」「歴史博物館で、2人の女性館員から元との戦いの説明を受ける松本清張氏」「3月25日、南ベトナム解放戦線ハノイ常駐団長のグエン・バン・チェン氏との会見」「ホアビン省農業中等学校で少数民族の生徒たちが合唱で松本清張氏を迎えた」「『ニャンザン』編集長のホアン・チュン氏と語る松本清張氏」「訓練をおえて職場に帰る婦人たち」などどれも貴重。「ハノイのホアンキエム公園で通りがかりの婦人と談笑する松本清張氏」の写真は、手を握られて嬉しそうな松本清張氏の意外な素顔も見れるし、また「空襲下、タコツボ(1人用防空壕)で本を読むハノイの娘」の写真には、まさに戦争に適応する街ハノイと人々の様子に驚いた。
尚、「付 ハノイに入るまで」と題した15頁の文章が巻末に付されているが、この部分が。1968年2月25日から3月19日まで、ハノイの悪天候のために、プノンペン・ビエンチャン、ビエンチャン・プノンペンと空しくICC機で3回往復し、飛行機待ちの後半は、プノンペンに戻るのが面倒になってラオスのビエンチャンに腰をすえることになった期間についての話。当時のラオスは1962年のジュネーブ会議でのラオス中立協定で中立国が保障され、アメリカの軍事援助はもらっても、米軍機は発着陸できないことになってはいたが、ラオス内戦下でパテト・ラオの勢力が伸びていた頃。この思わぬラオス逗留が、1969年の内戦中のラオスを舞台とする松本清張の長編小説「象の白い脚」(初出は『象と蟻』のタイトルで「別冊文藝春秋」の1969年8月~1970年8月に連載され、『松本清張全集 第22巻』(文藝春秋、1973年8月)に、「象の白い脚」と改題され収録)を生んでいる。
■松本清張の北ベトナム訪問日程(同行者は当時、週刊朝日の副編集長・森本哲郎)
1968年3月19日(火曜)
17:30ビエンシャン空港からICC機で19:35ハノイ・ザーラム空港着。出迎えは通訳のグエン・クイ・クイ。トンニャットホテル宿泊。ホテルで対外文化連絡委員会の詩人ティー・ハイン出迎え。
1968年3月20日(水曜)
午前10時半より対外文化連絡委員会の副委員長と面会。早朝・午前はホテルの近所を歩き、午後は車で市内見学。
1968年3月21日(木曜)
午前、ベトナム文学芸術家協会副書記長バオ・ディン・ジアンと私邸で会見。詩人ティー・ハイン、対外文化連絡委員会副書記長、作家協会国際部幹事の若い青年が同席。午後はルイ・クイ・キ(46歳のジャーナリスト会議書記長)と面談。夜は、ホテルで対外文化連絡委員会副委員長、ベトナム文学芸術家協会副会長、ジャーナリスト会議のルイ・クイ・キ書記長などの招宴。
1968年3月22日(金曜)
午前、歴史博物館見学。午後、軍事博物館見学。
1968年3月23日(土曜)
午前、歴史博物館再訪。午後、ホテルで原稿書き。夜、ホテルのホールでフランス人カメラマンが撮った記録映画を見る。
1968年3月24日(日曜)
取材のメモ整理。夜、買物に外出
1968年3月25日(月曜)
午前、南ベトナム民族解放戦線ハノイ常駐代表団団長グエン・ヴァン・チェンと面談。午後7時にホアビン省に向けホテルを出発。ホアビン省の省都ホアビン市から1km離れた谷あいの「迎賓館」に宿泊。
1968年3月26日(火曜)
高原の少数民族の村、ホアビン省マイチャウ県チェンクア村訪問。出迎えはマイチャウ県の行政委員会常務委員のグェン・バーン。午後3時過ぎに、チェンクア村を出発し、帰りに簡単なダム2カ所を見学。夜にホアビンの「迎賓館」に戻る。
1968年3月27日(水曜)
ホアビン市内の爆撃で破壊された省立総合病院を見た後、ホアビン省農業中等学校を訪問。夕方、「迎賓館」で省の行政委員会常務委員たちによる晩餐会。18時に宿舎を出発し20時半頃、ハノイに戻る。
1968年3月28日(木曜)
午前中、休養。午後3時よりニャンザン社にホアン・チュン編集長訪問。
1968年3月29日(金曜)
午前、ハノイ市内見学。12時半、ハノイの戦犯調査委員会の人たちと同行して、還剣湖にある玉山寺に行き、爆撃被害の状況写真や米パイロットの所持品などを見る。ホテルを夕方6時に出発してハイフォンに向かう。
1968年3月30日(土曜)
宿舎のカトビ・ホテルを出て、午前はハイフォン市内の被爆場所を見て回る。ハイフォン市対外文化連絡委員長格のハイフォン通信所長ホアン・タオ招待夕食会。午後6時にハイフォン出発。午後9時半、ハノイのトンニャットホテル到着。
1968年3月31日(日曜)
午前中、休養。午後3時半より、ベトナム日本友好協会会長チャン・ダン・チュエンを文化会館に訪問。17時半より、ホテルにてベトナム日本友好協会会長チャン・ダン・チュエンによるレセプション。
1968年4月1日(月曜)
午前10時過ぎ、マニラ放送が「ジョンソンの次期大統領の立候補とりやめと、北爆の一方的停止」を伝える。午後4時より、市内の統一公園散策。午後7時から、オランダ人でパリにながく住む有名な記録映画の製作者の作った、非武装地帯付近の農民を主題にしたドキュメント映画をベトナム映画製作所に行って見る。
1968年4月2日(火曜)
午後3時より、ハ・バン・ラウ大佐と会う。ハ・バン・ラウ大佐はこれまでゲリラ作戦の指導を行い、ジュネーブ会議ではファン・バン・ドン首相に従って出席。現在、休戦監視委員会の連絡責任者、また、ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪調査委員会常務委員(その後のパリ会談の代表)
1968年4月3日(水曜)
午前11時頃、ホテルでルイ・クイ・キと会う。午後3時半、軍事博物館訪問。夜9時過ぎから、外務省新聞課で緊急記者会見があり出席。
1968年4月4日(木曜)
午後3時から、ファン・バン・ドン首相との単独会見(1時間半の会見時間)
1968年4月5日(金曜)
13時、北ベトナムの対文委の常任委員2名から、ホテルの部屋でファン・バン・ドン首相からのお土産を渡される。16時半、ハノイの空港で21時発のICC機搭乗のためトンニャット・ホテルを出発。帰国の途につく。
目次
第一部 ハノイからの報告
静かなハノイ
歴史博物館にて
ゲリラの史的英雄たち
ホー・チ・ミンの道
三千百万人の戦士
ハイフォンの活気
おだやかな歴史的瞬間
ファン・バン・ドン首相との単独会見
帰国して
第二部 ハノイ日記
第1帖 戦争に適応する街ハノイ
第2帖 抗戦の展示
第3帖 解放戦線ハノイ常駐代表と
第4帖 高原の少数民族
第5帖 機関紙『ニャンザン』の編集長
第6帖 ジョンソン声明の日のハノイ
第7帖 対米回答直後に語るファン首相
付. ハノイに入るまで
あとがき













