メコン圏を舞台とする小説 第51回「未必のマクベス」(早瀬 耕 著)


「未必のマクベス」(早瀬 耕 著、ハヤカワ文庫<早川書房>、2017年9月発行)
(*本書は、2014年9月に早川書房から単行本として刊行された作品を、改稿のうえ文庫化したもの)

<著者紹介> 早瀬 耕(はやせ・こう)<本書著者紹介より。本書発刊当時>
1967年東京生まれ。1992年、『グリフォンズ・ガーデン』で作家デビュー。2014年、22年ぶりの長篇第2作となる本書を発表する。

本書『未必のマクベス』は、1992年『グリフォンズ・ガーデン』で作家デビューした早瀬 耕 氏が、2014年に作家として再デビューし、22年ぶりの長篇第2作として発表した作品。早川書房から2014年9月に単行本として刊行され、2017年9月にはハヤカワ文庫<早川書房>として文庫本が刊行。文庫本が刊行されてから何年か経っても、注目度があがり、特に、各地の書店員の方々には非常に高い評判となってきた作品。2024年、北陸の書店員が一堂に作品を推すプロジェクトがスタートしたが、それに本書「未必のマクベス」が選ばれている。”裏切りに慣れて、自分の相棒すら信じることがない男が最後に自分の命を賭して「愛し始めた女」を救う物語。””こんなに格好いい恋愛小説を他に読んだことがない。””人が破滅に向かっていくとき、なぜこんなにも美しく感じられるのだろうか。愛するものは何かを問う、究極の愛の物語。””「こんな人生も悪くない」その時、男はそう思った。「またいつかどこかで偶然に出会いたい」女はそう願った。”などの書店でのPOPに引き寄せられる。

日本のIT系企業に勤め、東南アジアを中心に交通系ICカード営業に、東南アジア各地を飛び回っていた国際ビジネスマンが、香港の子会社社長として香港に駐在する38歳の日本人男性・中井優一が、主人公として、高校時代など過去と、主たるストーリー展開時代が2009年~2010年という設定の現在とを交錯しながら、物語が一人称で展開する。下述の本書目次を見れば分かるが、本書のストーリー展開場所は、香港、澳門(マカオ)、西貢(サイゴン)、曼谷(バンコク)と、東京・横浜で、ほぼ全編、海外のアジアが舞台。国際ビジネス小説かと思いきや、東南アジアへの交通系ICカード営業やICチップの暗号化方式に関する特許の話などの話もあるが、メインは、主人公が企業犯罪に巻き込まれていく中での異色の犯罪小説、ハードボイル的なノワール小説の色が濃厚。更に、本書は、それ以上に想像を絶する痛切すぎる恋愛小説としての読後感が強く残る作品。本書の核として、小説のタイトル通り、どこまで、シェイクスピアの四大悲劇の一つの戯曲「マクベス」の内容に擬して運命的な展開が繰り広げられていくのかも気になるところ。

イギリスの劇作家・詩人シェイクスピア(1564年~1616年)の四大悲劇の一つの戯曲「マクベス」のあらすじについては、本書でも、香港文化中心でオペラ「マクベス」を、主人公の中井優一が恋人の田嶋由紀子と一緒に観覧する場面があるなど、随所で、「マクベス」のあらすじや登場人物については紹介があり、シェイクスピアの戯曲「マクベス」の内容を知らなくても問題はないが、原書「マクベス」を読んでいると、より面白さが増すかもしれない。「マクベス」のあらすじとしては、主君の王ダンカンに仕えるスコットランドの勇将マクベスとバンクォーは、反乱軍との戦に勝ち、その帰り道、荒野で出会った3人の魔女から、「マクベスは王となる」と予言を受け、レディ・マクベス(マクベス夫人)からもそそのかされて、王ダンカンを自分の城で暗殺し、王位を奪うが、その地位を失うことへの不安から次々と罪を重ねていくというもの。

<写真下:SuperKabos 二ノ宮本店(福井県福井市、2024年9月20日午後訪問>

物語のストーリーは、日本のIT系企業Jプロトコルの38歳の部長代理・中井優一は、東南アジアを中心に交通系ICカードの販売に携わっていたが、同僚の伴浩輔とともにバンコクでの商談を成功させ、2009年9月、東京に帰国途中のバンコク発の香港行きの夜間フライトが空港トラブルでマカオに急遽着陸。マカオの夜、中井優一は、カジノで思わぬ大金を手にしたが、カジノを出て、3人の澳門の娼婦に声をかけられ、その中の黒髪の娼婦から、「あなたは、王として旅を続けなくてはならない」と、予言めいた言葉を告げられる。その直後、バンコクでの商談の成功を理由に、香港の子会社・Jプロトコル香港の代表取締役として出向を命じられ、Jプロトコル社の技術主任からJプロトコル香港の技術担当副社長CTOに出向することとなった同僚の伴浩輔とともに、香港に駐在する。が、香港で待ち受けていたのは、Jプロトコル(元の社名は東亜印刷システムズ)の親会社である東証一部上場の大手企業・東亜印刷、Jプロトコル東京本社、香港の子会社・Jプロトコル香港、それに、Jプロトコル代表取締役副社長の井上由典が東亜印刷の常務だった頃に香港に設立し当初は暗号化技術の開発を行っていたHKプロトコルを巡る深い闇と恐るべき陰謀だった。

主人公・中井優一にとり特に重要な登場人物の1人は、都立高校のクラスメートの伴浩輔(ばん・こうすけ)。高校卒業後、東北大学の工学部にストレートで入学。東北大学大学院工学研究科修士課程卒で、1995年に、IT系企業Jプロトコル入社。入社後は御殿場京急開発センターのR&D部門に配属勤務。その後、2005年に交通系ICカード事業本部 東南アジア営業担当 技術主任となり、中井優一と同じ部署で同僚となったが、二人が再会し同じ会社所属と知ったのは、中井が大学を卒業して11年が経った時。二人が初めて会ったのは都立高校の入学式で、最初の自己紹介の時に、英語の教師の発言から、伴浩輔は、高校の三年間、ほとんどのクラスメイトから、シェイクスピアの「マクベス」の登場人物バンクォーをもじって「バンコー」と呼ばれていた。もう一人の重要な登場人物は、中井優一とは高校が3年間同じクラスで、互いに魅かれあってはいたが、付き合うこともなかった鍋島冬香。都立高校卒業後は津田塾大学の数学科に進学し、その後は香港大学大学院に進んだらしいが、その後の行方は不明。中井優一は、高校卒業の最期の会話以来、鍋島冬香の事を忘れた日がほとんどなく、大学でも就職後も、ログイン・パスワード名前も、鍋島の名前を使用していた。高校時代にはやっていた洋楽などの話も盛り込まれているが、鍋島冬香からの思いは、松任谷由美の「最後の春休み」の歌詞の世界に上手く表されていると感心。

本書のストーリー展開場所は、ほぼ全編、アジアが舞台となっているが、特に香港と澳門がメイン舞台。本書の中でも、広東語読みのルビがたくさん付されていたり、”キャセイ・パシフィックの客室乗務員の広東語は、いつ聞いてもリズム感がきれいだ。”と、主人公・中井優一は思うくらい、本書では広東語の世界が色濃く広がる。主人公・中井優一は、バンコクでの仕事の成功の後、香港の子会社の代表として香港に駐在するが、中井優一は、香港での仕事は初めてながら、同僚の伴浩輔と一緒に、東南アジアを営業で回っていたとき、香港経由のことが多く、香港の街になかなか詳しい。香港の実在のホテルやレストラン、バー、ショップなども、中国茶専門店の英記茶荘、飲茶レストランの陸羽茶室や連香楼、さらに粥麺専家、九龍のインターコンチネンタル、ペニンシュラ、湾仔のグランドハイアット香港、時代広場(タイムズスクエア)、中環(セントラル)の国際金融中心(IFC)やSOHOエリアや、銅鑼湾の雑居ビルエリアなど、たくさん登場し旅情を掻き立てられる。ペニンシュラホテルの本館1階の「ザ・バー」も愛用と、高級ホテルやバー、有名レストランを頻繁に利用できるくらい、なかなかリッチな香港での生活ぶりが描かれる。

本書では、澳門(マカオ)も重要な舞台として登場。沢木耕太郎の「深夜特急」香港・マカオ編の話が最初に話題となるが、マカオでは、カジノや娼婦の話以外に、雲吞麺、マカオビール、アフリカン・チキン、ポークチョップ・バーガーなどの飲食も度々語られる。2008年12月に開業したマカオにある5つ星の高級ホテルグランドリスボアも、ホテル名は書かれていないが、この実在のホテルも登場。このマカオの高級ホテルに長期滞在している・カイザー・リーと名乗る北朝鮮独裁者の長男で亡命者・李清明までもが登場する。2001年5月に、偽造旅券で日本に入国しようとして逮捕されたことなど、明らかに、当時、マカオに長期滞在していた金正日の長男・金正男(1971年~2017年)と推察できるが、本書単行本が刊行された2014年9月の後、2017年2月13日に世界を驚かせたクアラルンプール国際空港での金正男暗殺事件が起こっている。

香港、マカオ以外では、バンコク、ホーチミンシティも、ストーリーの展開場所で、もともと、主人公の中井優一は、東南アジアを中心に交通系ICカードの営業担当であったこともあり、香港の子会社社長に出向となった際に、後任の同期の高木と、業務引継ぎでタイやベトナムなどに出張する。中井優一のホーチミン・シティでの常宿は、サイゴン川に面するホテル・マジェスティック・サイゴンで、5階屋上の「プリーズ・スカイ・バー」を愛用するが、本書終盤での衝撃的な事件が起こるのは、2010年10月、このホーチミンシティのホテル・マジェスティック・サイゴンの屋上のバー「プリーズ・スカイ・バー」という設定。本書の終盤の衝撃的な事件が、ホーチミン・シティで起こるが、そこでは、サイゴンは、フランス人が植民地時代につけた名前で、クメール語では『プレイノコール』、森の中の都を意味するという話が紹介され、シェイクスピアの原作『マクベス』での終盤の”森が動く”という予言との関連を暗示させていたりもする。

ベトナム統一鉄道のサイゴン駅や戦争証跡博物館なども登場するが、ベトナムについて興味深い記述は、交通系ICカードの営業をしている主人公・中井優一と、後任の高木との間での業務引継ぎの会話で、業務引継時点の2009年9月の段階で、”ホーチミン・シティにMRTが開通するのは、当分先の話だろう。ホーチミン市庁の事業計画課によれば、10年後にMRTを作るらしい。ハノイもどっこいどっこいだ”と、語っている事。ホーチミン・シティの都市鉄道プロジェクトが日本の円借款によって設計・施工されている大型の鉄道建設案件で、2012年に着工するも、何度も開業予定時期が延期となり、最新情報としては2024年10月に試運転が開始され、2024年内に開業見通し。一方、ハノイの都市鉄道プロジェクトについては、2021年11月に開業済。

一方、タイについては、本書主人公の中井優一の同期の高木が、2010年4月にはバンコクに新設したJプロトコルの支店のゼネラル・マネージャーに抜擢されているが、バンコクは、本書の主たるストーリー開始の2009年9月より2年前にあたる2007年11月、本書主人公の中井優一と同僚の伴浩輔が、交通系ICカードの営業に関わりだして出張した都市。その時のタイの様子は、「タイでは、その年の5月頃から、前年の下院選挙に端を発するデモが断続的に発生していて、社会情勢が不安定な時期」と描かれているが、これは、タイ愛国党のタクシン政権の下、2006年4月の下院議員総選挙が同年5月8日の憲法裁判所により無効と判決され、2006年9月には国軍によるクーデターが発生し、タクシン政権が崩壊。その後、2007年8月24日に、2007年憲法が成立するなどのタイ政治情勢の時期。中井優一の恋人が香港からバンコクに転地入院する上で、チャオプラヤー川沿いの高級ホテルが並ぶ地区の病院を勧められ、中井優一も、すぐ隣のホテルに宿泊ということで、グランド・ハイアットにしたという設定があるが、バンコクのグランド・ハイアットは、チャオプラヤー川沿いにはなく、この点が若干気になった。香港ではペニンシュラホテルに宿泊していたので、ペニンシュラバンコクも便利だったはずだが、本書主人公のバンコクでの常宿は、デュシッ・タニという設定。

目次
ⅰ Night Flight – Late Summer   夜間飛行 – 晩夏
ⅱ Tokyo – a Long Time Ago   東京 – 從前
ⅲ Macau – Late Summer  澳門 – 晩夏
ⅳ Saigon – Late Summer  西貢 – 晩夏
the Intermission – HK Phil.Rehearsal  幕間休息 – 香港管弦楽團   彩排
ⅴ Hong Kong – Eary Autumn  香港 – 初秋
ⅵ Macau – Mid Summer of 2005  澳門 – 2005年盛夏
ⅶ Macau – Autumn  澳門 – 秋
ⅷ Ykohohama – Late Autumn  横濱 – 晩秋
ⅸ Hong Kong – Autumn  香港 – 秋
ⅹ Tokyo – Mid Winter 東京 – 春節
ⅺ   Hate-no-Hama Beach – Rainy Season  某個海邊 – 梅雨季節
ⅻ Macau – Sultry Night  澳門 – 炎熱的夜晩
xiii Bangkok – Late Summer  曼谷 – 晩夏
xiv  Saigon – Early Autumn  西貢 – 初秋
the Curtain Call – Radio Days

ストーリーの主な展開時代
・2009年9月~2010年10月(更に2011年12月までの話が終章が展開)<主人公の中井優一たちが高校生の時が1980年代後半>
ストーリーの主な展開場所
・香港(中環、九龍、湾仔、銅鑼湾、東涌)
・澳門 
・バンコク ・ヴェトナム(ホーチミンシティ、ハノイ)・台北
・東京・神奈川(鎌倉・横浜)・新大阪 ・金沢 ・沖縄

ストーリーの主な登場人物
・中井優一(38歳。Jプロトコル社の交通系ICC営業部部長代理から副部長職に特進後、Jプロトコル香港の代表取締役に出向)
・伴浩輔(中井優一と高校の同級生。Jプロトコル社の技術主任からJプロトコル香港の技術担当副社長CTOに出向)
・鍋島冬香(東京都立青葉台高校の同級生で津田塾の数学科卒業後、香港大学の博士号取得。暗号化方式開発技術者)
・島田由記子(戸籍上は田嶋由紀子、金沢出身でJプロトコル総務部課長。中井優一の元営業職での2年先輩)
・高木(中井優一とJプロトコル社の同期入社。中井の後任の部長代理。最初に管理職に昇格した男)
・森川佐和(Jプロトコル香港の35歳の日本人女性スタッフで、香港大学大学院卒業)
・陳霊(Jプロトコル香港の27歳の香港人現地採用の女性スタッフ、中国籍、香港永住権所有者)
・カイザー・リー(李清明。北朝鮮独裁者の長男で亡命者。マカオの高級ホテルに長期滞在)
・呉蓮花(リンファ。李清明の秘書で、以前はマカオで娼婦)
・井上由典(Jプロトコル代表取締役副社長で55歳。1978年に親会社の東亜印刷入社。東亜印刷の元常務)
・小池さゆり(Jプロトコル井上由典副社長の29歳の秘書で、東京・駒込に住む愛人)
・井上由典の妻(鎌倉在住)
・佐竹本部長(親会社の東亜印刷からの転籍でJプロトコル本部長。井上副社長死亡後、副社長に昇格)
・伊沢副部長(中井優一が部長代理の時の直属の上司)
・ソフィ(マカオの黒髪の娼婦。後に宗心馨(コーデリア・ソン)の名前とHKプロトコルでの職を与えられる)
・マカオのカジノ客の老女
・伴千絵(伴浩輔の妻)
・国立大学の旧一期校を卒業した英語科の初老の女性教師}
・小川理恵(中井優一の高校時代のガールフレンド)
・マカオのポルトガル料理屋の老店員
・中井優一の父
・香港の陸羽茶室の店員
・香港のペニンシュラホテルの本館1階「ザ・バー」のバーテンダ
・香港の雑居ビルの掃除夫の老人
・ホーチミン・シティのサイゴン駅舎前で、椰子の実ジュースを売る中年男
・東京の遺品整理業者の男性
・田嶋由記子の知人の香水店の女性店長
・松田(香港大学メディカルセンター精神科医)
・バンコクのブローカーの男性でバーの店長
・五所川原(ホーチミン・シティの日本領事館の20代後半の外務省職員)
・ホーチミン・シティ市警外国人向けレセプションの女性警察官
・渋谷のバー「ラジオ・デイズ」店長
・高橋渉(仙台在住で、中井優一と同じ生年月日)
・余啓詠(台湾の台中在住で、日本語学校教師。中井優一と同じ生年月日。民国暦60年(1971年)生まれ)
・橋本理恵(バンコクのゲストハウスに不法滞在し、仕事は旅行でタイに来る日本人女性に、旅先での偶然の出会いを紹介)

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