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第8信「御免なさいについて」他
- 2002/12/31
- エッセイ(村山明雄さん)「ラオスからの手紙」, コラム・エッセイ
- 村山明雄
(2003年1月号掲載)
2002年12月31日
国連ボランティア 地下水開発エンジニア
村山明雄
御免なさいについて
会議があるので飛行機でビエンチャンに帰った時の話
時間前に空港に着いたので、チェックインの時間までずいぶんある。そう思っているうちにオーストラリア人のサイモンさんが来た。彼は我々のプロジェクトのCTAである。CTAというのはCHIEF TECHNICAL ADVISORの略でいわゆる私の上司にあたる。一人で待つのもなんだし、チェックインは運転手のカムコーン君に任せて食堂で彼とコーヒーを飲むことにした。下手な英語でサイモンさんとお話しているうちにカムコーン君が顔色を変えて来て「明雄、切符の真中の黄色いのがない」。
ラオスの飛行機の切符はカーボン式になっている。その真中の黄色い紙が見当たらないというのだ。おかしい、一週間以上も前に飛行機の切符を買って財布にいれておいた。サイモンさんとコーヒーを飲む前に財布から取り出してそのままカムコーン君に渡したのに。
慌ててチェックイン・カウンターに行くと、係りが「あなたは切符を買ってから真中の黄色い紙の部分をどこかに落としていませんか?」というのである。そんな馬鹿なはずはない。そう思ってチェックイン・カウンターの上にある黄色いチケットを調べてみろと言っても「ナイナイ」の一点張り。だけどカーボンで写してある一番下の部分に私の名前が書いてあるのだから、それで搭乗券を出してくれと交渉した。
彼が言うのには「黄色い紙と引き換えに搭乗券を出す、もしこの黄色い紙がなければ買いなおして下さい。」これはラオス航空の規則らしい。何度掛け合っても埒があかない、まだ時間があったので家に帰って黄色の紙があるか、落としてないか調べた。結果はなし。今度は切符を買ったラオス航空の事務所に行ったがこれもアウト。
しかたがないので諦めて、空港に戻って切符を買うことにした。ポンサワンからビエンチャンまで片道外人価格で46ドル。今回は国連の会議、公用でビエンチャンに行くので後で払い戻してくれる。しかし私は半分なくしたことになるので46ドル損したことになる。とにかくあらたに切符を買って搭乗手続きを済ませて待っていると、空港事務所の中から「明雄、明雄」と私を呼ぶ声が、行ってみると係りが「あった、あった」 結局、最後にチェックイン・カウンターの受け付け係りが黄色のチケットを調べてみたら、私の名前のものが見つかったのである。私はすでに新しいチケットを買っているがこの切符は3ヶ月以内有効なので、次回使うことした。どうやらカムコーン君がちゃんと切符を出したのに、彼らがどこかに置き忘れて「無い無い」という騒ぎになったようである。
過失は一方的に向こう側にあるのだが、この際ごめんなさいというラオス語の「コー・トート」は一言もなかった。ただし彼らも悪びれた感じだったので私の「ボー・ペン・ニャン」の一言で問題は終わった。
たぶんこの係りが日本人だったら「すいません、申し訳ありません」というお詫びの言葉が何度も聞かれただろう。もしこれが12年ラオスにいる私でなく、ラオスに着たばかりのフレッシュな日本人だったら完全に切れていただろう。すでに12年ラオスに住んでいる私は、彼らの「スイマセン」の一言より、見つかった黄色の切符が使えるか、または払い戻してくれるかが問題だった。切符の有効期限は3ヶ月、次回ビエンチャンに帰るとき使えるという説明で一件落着したわけだ。多分普通の日本人だったら、係りの人が謝らないのに腹を立てただろう。それと係りの態度、日本人の場合だとちょっと顔をひきつらせてシリアスな顔を作る。ところがラオス人はこういった時に、日本人から見るとヘラヘラした顔をするのである。これに慣れていない日本人はヘラヘラ顔を見て火に油を注ぐことになる。しかしこのヘラヘラは彼らにとって「スイマセン」を意味しているのである。
やはりラオス人と日本人は違うと思う。おそらくこの違いは実際にラオスに住んで生活してみないとわからないだろうな。ラオス人はなかなか謝らない、そして日本人はすぐに謝る。しかし日本人が普通、謝るのは本当は謝っていないのが多いようである.
犬肉だ
10月の下旬、同僚のビラコーンと犬肉を食べに行った。その後、体調が悪くなった。体が疲れて熱がでた。しばらくして目が腫れてきて赤目になった。ちょうどその時、御世話になった人の結婚式がビエンチャンであったので無理してビエンチャンにあがった。結婚式は頑張って出席したが、その後熱がひどくなって頭痛もして、ノンカイの病院に入院するはめになった。原因はよくわからなかった。マラリアでもない、デングでもなかった。
よくよく考えてみたら、ポンサワンで食べた犬肉ではないか、そういう結論にいきついた。犬肉はベトナム人が好んで食べる。これを食べると体が温まるのでラオス人も寒い冬に食べる。
さて犬肉だが、どうも私が食った犬はネズミを食べて死んで、そのネズミは殺鼠剤で死んだのではないか、というのが私の推測である。
シェンクアンはネズミが多い。私の住んでいる家も毎日夜になるとネズミが跳ね回っている。ネズミを殺すために劇薬の殺鼠剤が町でも売っている。ただしそれを食べて死んだネズミをまた犬が食って、犬も死ぬというケースがあるらしい。私が食ったのは殺鼠剤を食って死んだネズミを食べた犬ではないか。
実際に、シェンクアンのプークード郡で飼っている犬が死んだので、もったいないので家族が食べたら人間も死んでしまったという事件があったらしい。どうもこの犬は殺鼠剤で死んだネズミを食ったのではないかというのが現地での一般の見解らしい。こうなると食物連鎖である。ネズミをとるのには猫が一番であるが、同じ村のなかで殺鼠剤を使っている家があると問題である、殺鼠剤で死んだネズミを猫が食べて猫も死ぬ、だからフアパン県で殺鼠剤は販売禁止であるとか。だけどポンサワンのマーケットの店ではタイ製の殺鼠剤が平気で売られている。ちなみにこの殺鼠剤、商品名をケーク・ダムという。ケークは「インド人」、ダムは「黒い」という意味で、ケーク・ダムで「黒いインド人」の意味になる。
解説すると、娘の桜ちゃんがまだ小さくて泣き止まなかった時、妻の淑珍が「ケーク・ダムが来た」と脅かして、泣き止ませていた。これは日本でも「子取りが来た」これは私が生まれた徳島でよく言っていたが、泣き止まないで駄々をこねていると人攫いのおじさんが来てどこかに連れて行ってしまうから、泣き止みなさいと子供を宥めすかして脅かす言い方である。ネズミ捕りの「ケーク・ダム」もこのように怖いイメージがあるのだろう。
この殺鼠剤説はポンサワンに住む日本人ボランティアの考えだが、私と一緒に犬肉を食べた同僚のビラコーンはネズミのオシッコ説をとる。
11月にシェンクアン知事が亡くなられたが、巷の噂では病名はこのネズミのオシッコが媒介する病気らしい。正式な日本語の病名を知らないが、この病気も怖いらしい。もし殺鼠剤が原因なら一緒に食べた、ビラコーンとラオス語の先生のウオン・ソーンは平気なのにおかしい。おそらくどこかでネズミのオシッコがかかった食べ物を食べてそれから感染したのだろう。これがビラコーン説である。
しかしほとんど同じ時期に、我々の知り合いのベトナム人とラオス人が同じような症状の病気にかかっている。そして一人は私と同じように犬肉を食べて、もう一人は食べていない。犬かネズミか、いずれにしてもラオスにもこのような環境問題があるのだ。
さて犬肉屋さんの看板はというとラオス語では「犬肉」と書かないで「天国の肉」と書いてある。これを食べて私もあやうく天国に行きそうになったかと思うと洒落でもなってくる。
コンサート
2002年の12月、ビエンチャンに帰った時にコンサートに行った。ダラー・ペットという女性の歌手で歌は巧い、アヌーホテルに出ているらしいが、実物は今回が初めてであった。ラオスに長く住んでいる人なら彼女の歌、ラジオとかで一回くらいは聞いたことあるでしょうね。
今回はペットさんではなく、このコンサートで出てきた前座の女性歌手、名前も忘れたが、一緒に行った妻がタイの歌手と間違えたほど、ラオス人でもタイ語に聞こえてしまうから、近頃のラオスの歌はタイとそっくり、タイのロックン・ロールのコンサートみたい。このごろラオスもハーフの歌手でアレクサンドラなんていう女の子が人気で、これもタイの芸能界みたいになってきたようである。
ラオスもだんだんこのようにタイ化が進むのかと思うと悲しくなってくる。タイ化ではなくラオス文化が退化しなければいいなと思う次第である。私はなんといってもタイの真似した音楽より、ラオスのナツメロが好きである。だけど日本の最近の音楽も歌詞だけ聞いていたらアメリカの歌かと思うくらい。何歌っているかさっぱりわからない。これだったらラオス語の方が聞きやすい。日本のおじいちゃんやお婆ちゃんはアムロの歌なんか聞いて意味がわかるのかしら。
お姉さんが妹に
12月に親戚の結婚式でビエンチャンに帰った。女房の兄貴と、女房の弟の嫁さんの妹の結婚である。文章で書くとややこしいので図に書いて考えてください。妻の淑珍は15人兄弟の9番目、彼女の兄貴のピーは7番目で今年42歳、弟のポロは32歳。ポロの奥さんのコーンは27歳。彼女の妹で今度結婚するニットが25歳になる。
こういう関係で結婚すると、コーンとニットは年齢の上ではコーンがお姉さんになるがらおす語でいうスア・サーイ「血筋」の上では、ポロの御兄さんであるピーと結婚したニットのほうが御姉さんになる。
ということでラオス人の場合はこのような結婚を避けるようである。彼らの場合は、ポロと結婚したコーンがポロの実家であるサムセンタイの焼き飯屋に御手伝いで住み着いて、それから恋が芽生えたという感じである。ポロの奥さんは両親がサムヌア出身のラオス人。
華僑の男性は最終的にはラオス人と結婚する例が多い。本当は習慣が似ている同じ華僑の女性と結婚したいようであるが、華僑の女性とはなかなか結婚できない。これについては小生の「楽しくて為になるラオス語」に書いたので読んでください。また淑珍の実家のサムセンタイにある焼き飯屋もどうか贔屓にして下さい。サムセンタイ通りで、ラオプラザ・ホテルから空港の方に向って行き、信号がある交差点のもうひとつ手前の交差点のそば、道路をはさんで正面が金屋さんになっている。店の看板はないが近くで聞いたらすぐわかる。
スアム
これはビエンチャンでは「便所」の意味である。だけどシェンクアンでは「寝室」の意味になるとのこと。尊敬している富田竹次郎先生の「タイ日辞典」調べてみると、
1. スアムは元来「部屋」の意味で、中部タイの昔の庶民の家は間仕切りのない一部屋で、便所というものは設備されていなかった。今でも東北地方では新婚夫婦の部屋をスアムという。
2. (東北)寝室
以上のようになっている。したがってシェンクアンでラオス人の家に泊まった時
「スアムで寝てください」と言われても誤解してはいけない。便所ではなく寝室の意味であるから。
チャオ・アヌーの時に、ラオスはシャムに戦争で負けてシェンクアンの人はタイに奴隷で連れて行かれた。その名残かタイ語とシェンクアン方言には類似点が多いというがこれもその例かもしれない。
寮都学校の同窓会
2002年の暮、ビエンチャン華僑学校の寮都の同窓会に出席した.
タイの寮都学校OBが毎年おこなうものであるが、今年はルーイ県、タイで一番寒い県である.出席者は300人位かな.ビエンチャンからもOBがたくさん参加、その他にも地元ルーイ県をはじめコンケ-ン、ウボン、ウドン、ノンカーイ、バンコクと寮都のOBは東北タイを中心にタイに散らばっている。また日本からもOBが一人、オーストラリアからも来ていた.来年の同窓会はウドンで世界のOBが集まるらしい.
しかし色々な学校の同窓会があるけれど寮都学校の同窓会くらい国際的なものは無いだろう.なにせ世界各国に寮都のOBが散らばっているから.女房に言わせると、タイのOBは昔、ビエンチャンに住んでいた人達で、国籍がタイ人(中国系タイ人)ラオスの革命後、タイに戻って来た人らしい.外国に住んでいる人はラオス難民としてそれぞれの国に定住した人である.
今回で2回目だが、華僑のパワーは本当にすごいと思う.現在長女(桜)が寮都の2年生だが、毎日宿題で大変である.彼女も寮都を卒業してOGになるのかな?
(C)村山明雄 2002- All rights reserved.
村山明雄さん(むらやま・あきお)
(桜ちゃんのパパ、ラオス華僑と結婚した日本人)
シェンクアン県ポンサワンで、地下水開発エンジニアとして、国連関連の仕事に従事。<連載開始時>
奥さんが、ラオス生まれの客家とベトナム人のハーフ
地下水開発エンジニア (電気探査・地表踏査・ 揚水試験・電気検層・ 水質検査)
ラオス語通訳・翻訳、 エッセイスト、経済コンサルタント、エスペランティスト、無形文化財上総掘り井戸掘り師
著作「楽しくて為になるラオス語」サクラ出版、翻訳「おいしい水の探求」小島貞男著、「新水質の常識」小島貞男著