「メコン圏と日本との繋がり」 第11回「青年海外協力隊の草創期とラオス隊」

第11回 2002年1月号掲載

日本の政策・事業におけるメコン圏
青年海外協力隊派遣取極(1965年11月23日締結)、及び青年海外協力隊派遣国(1965年12月24日派遣)の第1号が、共にラオス

青年海外協力隊は、今でこそ60カ国以上に派遣が及び、総勢2万人以上にわたる隊員の方が海外に派遣されてきたが、この青年海外協力隊(当初は「日本青年海外協力隊」の呼称)は1965年(昭和40年)に創設され、その創設当初の歴史は、ラオスとはきってもきれない深い関係にある。

最初の青年海外協力隊派遣取極がラオスとの間で締結

青年海外協力隊事業は、1965年4月20日、東京・新宿区市ヶ谷本村町の「経済協力センタービル」内にあった海外技術協力事業団(OTCA、国際協力事業団JICAの前身)の一室に「日本青年海外協力隊事務局」が創設されスタートした。最初の隊員募集選考、派遣前訓練が行われると同時に、隊員受入国との折衝業務が進められた。そして最初の派遣となる昭和40年度1次隊派遣国は、フィリピン、マレーシア、カンボジア、ラオスの4カ国に決定したが、青年海外協力隊派遣取極の第1号はラオスとの間で締結された。この派遣取極は、1965年(昭和40年)11月23日、ヴィエンチャンにてプーマ・ラオス王国総理大臣兼外相と和田大使との間で締結された。(ちなみに、派遣取極の第2号は、カンボジアで、1965年12月20日プノンペンで締結)

最初の青年海外協力隊員派遣がラオス隊員

青年海外協力隊の第1次隊員中、第1陣5名が、1965年(昭和40年)12月24日午後2時、任地に向け日航機で東京・羽田空港を出発したが、この5名は第1次隊員のラオス隊員であった。この事は、「日本版平和部隊」の第1陣の出発として全国紙でも報道された。この5名は、稲作1名、野菜2名、日本語教師2名の計5名というメンバーであり、男性3名、女性2名という構成であった。1番から始まる青年海外協力隊員番号の最初の番号が、この第1次ラオス隊員に付与されたが、このラオス隊員は以下の方々。

(注:住所・年齢は派遣当時)
隊員番号1 大西規夫さん(24) 稲作  北海道秩父別町XXX
隊員番号2 随林吉衛さん(24) 野菜  広島県広島市XXX
隊員番号3 山下昌子さん(33) 日本語 東京都新宿区XXX
隊員番号4 竹下節子さん(27) 日本語 東京都調布市XXX
隊員番号5 森永繁治さん(24) 野菜  東京都大田区XXX

女性2名は、ビエンチャンの学校で日本語を教え、男性3名は、ビエンチャンの南13キロのサラカム農業試験場で野菜や米作の指導をすることになっていた。約700名を越す応募者のなかから選抜され共に派遣前研修を受けた第1次隊員計26名(ラオス隊5名含む)は、ラオス隊5名に引き続き、翌1966年1月から2月にかけて、カンボジア隊4名、マレーシア隊5名、フィリピン隊12名と、それぞれ任地に出発した。(尚、隊員番号3の山下昌子さんは、NGO団体の日本国際ボランティアセンター(JVC)事務局長時代に、青年海外協力隊運営委員会委員を1984年~87年務めた星野昌子さん)

青年海外協力隊ラオス隊員がパテトラオ軍に連行される

当時のラオスは、1962年6月に成立していた右派・中立派・左派の3派連合政府(プーマー首相)が翌1963年4月には事実上解体し、ラオス内戦が再発しその政情は混迷を深めていた。派遣取極が締結され第1次のラオス隊が赴任する前の1965年12月7日付けカンカイ(ラオス)発 新華社=共同のニュースによれば、『ラオス左派のパテト・ラオ放送は、1965年12月6日、ラオス政府が日本の”平和部隊”を受け入れる協定に同意したことに強く反対する論評を伝え、「いわゆる平和部隊は米帝国主義と日本軍国主義の侵略的陰謀をいっそう推進するために日本の特務機関員と軍事要員をラオスに送り込むことを隠す手段にすぎない」と述べた。』 とある。

内戦の主戦場が隊員の活動現場から離れた場所であったため、協力隊活動にさしたる影響はなかったが、1968年3月30日には、青年協力隊員がパテトラオ軍に連行されるという事件が起こっている。(事件の概要は左記を参照)

ラオスへの青年海外協力隊の派遣中断と派遣再開

その後もラオスへの隊員派遣は続いたが、1975年(昭和50年)7月、政策の変化及び治安上の理由から、サバナケット及びルアンパバンに派遣されていた隊員は、ビエンチャンに引き揚げた。1975年12月のラオス人民民主共和国誕生以降、協力隊に対する新規要請をあげず、1978年3月25日最後の隊員任期満了以降、派遣が中断される。(派遣開始の1965年から中断の1978年までの13年間に、ラオスに派遣された隊員は250名)

しかしながら1989年1月ラオスより協力隊派遣の再開要請があり、1989年7月24日、ラオス駐在早川大使とスリティラート外務副大臣との間で、新しい派遣取極が締結され、翌1990年7月より15年ぶりに派遣を再開し現在に至っている。

主たる参考文献:
『青年海外協力隊 20世紀の軌跡1965~2000』(国際協力事業団青年海外協力隊事務局、2001年1月発行)

■青年海外協力隊派遣取極締結(メコン圏)

▼ラオス
締結第1番目の国
1965年11月23日
ヴィエンチャンで締結
1989年7月24日改正

▼カンボジア
締結第2番目の国
1965年12月20日
プノンペンで締結
1992年6月1日改正

▼タイ
締結第31番目の国
1981年1月19日
バンコクで締結

▼中国
締結第39番目の国
1985年10月12日
北京で締結

▼ベトナム
締結第63番目の国
1994年8月25日
ハノイで締結

尚、第1次隊派遣国は、ラオス、カンボジア、マレーシア、フィリピンであるが、締結第3番目の国は、マレーシアで、1965年12月23日クアラルンプールで締結締結第4番目の国が、フィリピンで1966年2月15日マニラで締結

■左派パテト・ラオ軍によるラオス隊員連行事件

この事件は、ラオス隊員の佐々木忠征さん(24、秋田県出身)と原田稔さん(24、横浜市出身)が、1968年3月30日ラオス南部のサラバン地区で、共産軍兵士に連行されしばらく消息を断ったもので、当時は”日本人の平和部隊誘拐事件”などと報道された。
その後、1968年4月14日無事釈放された。両人は4月16日政府軍支配地の南部ラオスのパクセに到着。佐々木さんが4月16日夕、国営ラオス航空機でビエンチャンに戻り、ビエンチャンの日本大使館に事件の模様を報告。
この報告によれば、1968年3月30日、ラオス政府軍支配のターランという村を出て、サラバンから南西約15キロのバンナサイという村落に来た時ベトナム人につかまった。同行のラオス人1人もつかまった。彼らは明らかにベトナム人で、全くラオス語を話さなかった。このため同行のラオス人がベトナム語をラオス語に通訳して取り調べが行われた。職業や名前も聞かれたが、米軍との関連を調べられた。
(1968年4月の朝日新聞記事より)

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