メコン圏と大東亜戦争関連書籍 第6回「昭和史の天皇 8」(読売新聞社 編)

メコン圏と大東亜戦争関連書籍 第6回「昭和史の天皇 8」(読売新聞社 編)


「昭和史の天皇 8」(読売新聞社 編、読売新聞社、1969年10月発行)

第2次世界大戦末期、日本そのものが敗戦必至の状態に陥った時、アジア解放の旗じるしのもとに、アジア各地に日本が作った独立国ないしはその予定国の政権のあと始末をどうするかの問題が起こった。これらの政権は、満州にあった皇帝溥儀以下の満州国政府、中国大陸には汪精衛を継いだ陳公博の南京政府、ビルマのバー・モウ政権、フィリピンのホセ・ラウレル政権、そしてビルマのラングーンにあったチャンドラ・ボースの自由インド仮政府であった。

ビルマ民族運動の先駆的指導者で、第2次世界大戦中の1943年8月、ビルマの独立宣言とともに、国家元首(国家代表)に就任していたバー・モウ(1893年~1977年は、1945年4月日本軍のビルマ方面軍司令部のラングーン撤退とともにモールメン近くのムドン集落に移動、ここで終戦を迎えた。終戦直後の1945年8月下旬、バンコク、サイゴンを経由してバー・モウは、一旦日本に亡命。新潟県の寒村で潜伏生活をしていたが、結局1946年1月には英代表部に出頭し巣鴨拘置所に収容されることになる。しかし1946年8月、英国により特赦され帰国した。一時ビルマ政界に復帰するが、軍事政権下では拘禁され、釈放後、1977年、ラングーンの自宅で84歳の波乱の生涯を閉じている。

読売新聞社が昭和の歴史の証言者たちのインタビューを中心にまとめた大作『昭和史の天皇』(全30巻)の第8巻にあたる本書は、日本の終戦始末記の一環として、ビルマ国家元首であったバー・モウの日本亡命の事を主に取り上げている。ビルマ戦局の悪化から、バー・モウが家族や他のビルマ政府閣僚たちとともにラングーンを離れモールメンに向かう多難な脱出行の様子、更にバー・モウが家族や他の閣僚たちと離れ、単身でバンコク、サイゴン経由で日本に亡命する経緯は、日本亡命後もバー・モウとなにかと因縁めいた関係を持つことになる北沢直吉氏(当時のビルマ大使館参事官、のちに衆議院議員)や島内直史氏(当時のビルマ大使館通訳官)へのインタビュー、石射猪太郎氏(当時のビルマ大使)の遺著「外交官の一生」の文章をもとに詳述されている。

終戦直後、日本に亡命したバー・モウは、北沢直吉氏と通訳として外務省職員の佐藤日史氏の2名の同行の下、東京から新潟県六日町にこっそり移り、当時、新潟県南魚沼郡六日町在住の翼賛壮年団新潟県副団長でハム工場など畜産関係の会社も経営していた数え年で33歳の今成拓三氏にバー・モウの亡命生活が託されることになる。どうして大東亜省(1945年8月26日廃止)が今成拓三氏にこのような大役を任すことになったかのいきさつについては、当時の大東亜省政務課の人たちの証言が得られている。(政務課長は、バー・モウ亡命承諾の原案を書いた甲斐文比古氏)

今成拓三氏と今成氏に協力する同志たちが、連合軍の占領下のなかで、約半年にわたってバー・モウを新潟県石内の薬照寺で匿い続ける。誰一人としてこれまでまったくビルマ政府と関係のなかった新潟県の一地方の民間人たちが、バー・モウは英国にたてついた人物として今後占領軍の追及ははげしくなるだろうし、占領軍の性格や占領政策がどう推移するか全くわからない終戦直後の混乱の中で、バー・モウ氏を長期にわたって匿うことを引き受けることは大変な覚悟が要ったであろうし、またいろいろと苦労があっただろうと容易に推察されるが、これらの点についても今成拓三氏をはじめとする当事者たちの証言で、当時の雰囲気・様子が窺い知ることができる。

またバー・モウの薬照寺での約半年に及ぶ亡命生活の実態については、他の同志がカムフラージュのために、薬照寺へあまり近づかぬまま、関口常正氏とともに、バー・モウ氏のボディーガードとなり、話相手となり、連絡係ともなって、その異国でのつれづれをなぐさめた今泉隆平氏(当時、新潟県南魚沼郡石打村役場書記、のち同村長)が綴っていた克明な日記が大変参考になる。興味深い話も多くバー・モウのいろんな面を知ることができるが、日本語を常に勉強していたようだ。ある日、食卓にのっていたホウレン草という言葉がわからず、さっそ和英辞典をくっていたが、「ほれぐすり」という言葉を見つけて、こんなものがあるのか、と聞いてビルマでのほれぐすりの話を紹介する場面は親しみがもてるものだ。

バー・モウは日本海を渡って大陸に抜け出し、蒋介石あるいはスターリンを頼っていくとも言っていたようであるが、昭和21年(1946年)1月8日、ついにシンガポールのマウントバッテン司令部から依頼を受けたGHQから、吉田茂外相秘書官をしていた北沢直吉氏に出頭命令が下り、その指示で翌1月9日、英代表部へ出頭する。この北沢召喚が、バー・モウ隠匿問題についての追及であるかどうかを、新潟の今成氏たちに外務省の甲斐文比古氏(外務省調査局第二課長)が伝える暗号電文の取り決めが面白い。バー・モウと全く関係ないことだったら『ハム着いた』、もしバー・モウ問題であれば『ハム着かぬ、すぐ送れ』であったが、結果は『ハム着かぬ、すぐ送れ』であった。

バー・モウは自首を決意し、昭和21年(1946年)1月16日、今成拓三氏と井口良平氏(今成家に出入りしていた大工)とともにバーモウは石打駅から上京、1月18日に英代表部に自首する。尚、本書にはバー・モウ氏の自首に当って、1月16日、薬照寺で開かれた送別の宴での記念撮影写真と人物名(計11名)が掲載されている。波乱に満ちたバー・モウ日本亡命記も、日本人の手から離れここでほぼ終わりかと思いきや、更に驚愕の展開がバー・モウが英代表部に出頭した後に繰り広げられることになる。「日本には強力な反連合軍組織があり、そのメンバーは青年将校、革新官僚、そして一般の青年層を加えて秘密組織を作り、その本拠は佐渡島にある」と、バー・モウが大芝居をうったからだ。大捜査が始まり、北村直吉氏や今成拓三氏をはじめとするバー・モウの日本側の主要関係者は1946年8月2日に一斉釈放となるまで、巣鴨の収容所に収監された。なぜ、バー・モウがそのような大ウソをついたのか、バー・モウの大ウソはどこから組み立てられたのか、また取調べは終わったものの釈放まで時間がかかったのはなぜかなどについても、関係者の証言・述懐を得ている。

本書発行時(1969年)一番の当事者であるバー・モウは76歳でラングーンに健在であったが、1968年に英文でエール大学プレスから『BREAK THROUGH IN BURMA』(全編460頁)という回想録を出版している。このなかでわずか10頁ながら日本亡命の様子を書いているが、関係者と連合軍を悩ました反米地下組織といった大嘘については一言も触れていない。なおこの英文の自著回想録は、『ビルマの夜明け バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録』として太陽出版から邦訳(訳者・横堀洋一氏)が発行されている(初版1973年、新版1995年)。本編の最後の一文に”蛇足だが昭和36年、バー・モウ夫妻が来日した時、関係者は大歓迎会をやった。”とあるが、どのような人が集り、どのような会話が為されたのか、非常に知りたいと思った。

本書の目次

バー・モウ
亡命者の取り扱い/ ビルマ戦局の悪化/ 飼い犬にかまれる/ 敵主力とすれ違い/ 産後の行進に激怒/ 終戦、サイゴンへ/ 香港洋上で銃撃/ 変名、隠れて新潟へ/ かくまいの三条件/ 三人の同志が参集/ 女房だけに話す/ 夜中のたんぼ道を/ 軍の二将校出現/ 中野学校生と遭遇/ 一の書証は「日記」/ 呼び名も”アズマ”に

ドバマの歌
異国の寺の”英雄”/ ”B点の設置”に苦心/ 日本語を常に勉強/  ”一寸先がヤミです”/ 発覚におびえて/ 「ハム着かぬ、すぐ送れ」/ 証拠品は処分した/ 英軍の追及で自首/ ”前夜”のかたみ分け/ 新顔を供につけて/ 自首→釈放にほっと/ 革命家の大芝居   

大捜査
踊らされたGHQ/ 架空の”反米結社”/ じわじわ取り調べ/ 拘置所で歌の通信/ バー・モウ氏と対決/ 日本側検事の当惑/ 20万円追及される/ ”裏付け”に六日町へ/ 容疑は晴れたが/ ”心暖かかった日本”

ボース
インド解放を推進/ 本軍と手握る/ ピブン首相の失踪/ 英軍との降伏折衝/ インド兵投降工作/ まず 軽装備許可/ インド独立へ点火/ 軍とINAにヒビ/ バンコク会議開く/ 内輪もめが険悪化/ ついに司令官解任/ 独立への闘志烈々/ 独艦とランデブー/ 東条首相と会見/「デリーへ」の大合唱/ 大東亜会議開催へ/ いよいよ行動開始

本書に登場するインタビュー取材者<敬称略、現肩書きは発刊当時>

田尻愛義(当時の大東亜次官、現・東亜学院長)
北沢直吉(当時のビルマ大使館参事官、現・衆議院議員、自民党)
島内直史(当時ビルマ大使館通訳官)
・今成拓三(当時、新潟県南魚沼軍六日町、翼賛壮年団新潟県副団長)
石井喬(当時、大東亜省南方事務局政務課員)
・沖実雄(当時、大東亜省南方事務局政務課員、ラウレル比島大統領接伴委員)
・杉原荒太(当時、大東亜省総務局長。現・参議院議員、自民党)
・遠藤栄三(当時、翼賛壮年団六日町支部長、現・六日町町議)
・今成雄志郎(今成拓三の弟。現、新潟県議、社会党)
・今成泰子(今成雄志郎夫人)
・今泉隆平(当時、新潟県南魚沼郡石打村役場書記)
・井口良平(六日町。当時も現在も大工)
・日下部一郎(当時、陸軍参謀本部第七課勤務。少佐、中野学校一期生)
・広瀬栄一(当時、陸軍大臣秘書官=次官担当、中佐)
・越村勝治(旧姓、越巻または越田。中野学校教官、一期生、少佐、現・十日町市議)
野北祐常(当時、陸軍兵器行政本部流通部員、中佐)
・田中寛(当時、中野学校教官、少尉)
曾袮益(当時、終戦連絡事務局政治部長、現・衆議院議員、民社党)
・井本台吉(当時、東京控訴院検事局検事兼大審院検事局検事事務取扱。現・検事総長)
玉沢光三郎(当時、東京地方検事局検事)
・町村金五(現・北海道知事)
猪俣甚弥(中野学校)

本書に登場する北沢直吉 氏の主な話の要約(一部)

▼もともと外務省アジア局の人間。満州国が出来る時、その独立準備の手続きをやったことがある
▼北京の総領事の時、ビルマが独立するからその準備のために、ラングーン赴任の辞令をうけ、1943年7月中旬ラングーンに赴任。身分はビルマの軍政監付付き。(ビルマとフィリピンの独立は1943年5月31日の御前会議で決定。1943年8月1日ビルマが独立宣言、それと同時に、独立国ビルマは日本にならって、米英に宣戦を布告)
▼ラングーン赴任の途中、シンガポールに立ち寄れということで、着いてみると、時の総理東条大将が来ていたばかりでなく、バー・モウさんが、秘書のタキン・ヌーさん(戦後、ビルマ政府の総理)を連れて待っていた。この3人で軍の飛行機に乗ってラングーンに直行
▼ビルマが独立宣言をし、日本が国家承認し、ビルマに大使館を設け、沢田廉三さんを大使として迎え、わたし(北沢直吉氏)は参事官になった。
▼木村軍司令官は「まだまだ大丈夫といい続けていたのに、(1945年)4月22日の午後になって、いきなり、「明23日夜、ビルマ政府、大使館、居留民は、ラングーンよりモールメンに向かって撤退すべし」という命令が出た。必要な自動車は軍で用意するというのだが、撤退までたった24時間の余裕しかない。・・・・軍が車を用意するといったが、大使館の乗用車は大使とわたし(北沢直吉氏)のが2台あるきり、ビルマ側はバー・モウさんと、その家族に2台の乗用車があったが、他の閣僚や家族たちにはトラックしかなく、数台に分乗するというさんたんたるありさまだった。
▼われわれがラングーンを出て、モールメンに着くまでに要した日数は、はっきり覚えていないが、10日以上はかかったと思う。・・・しかしモールメンに着いても、空襲の脅威は消えないというので、一行は軍司令部のはいっているムドンへすぐに移った。ムドンという村は、うっそうたるジャングルにおおわれた戸数約百戸の、華僑を主とした落ち着いた部落で、われわれは民家に分宿したが、さすがに空襲もなくのんびりしたものだった。ここに1週間か、2週間ぐらいいたかもしれない。突然、本省からわたし(北沢直吉氏)に帰国命令がきた。・・・・・・トラックを1台手に入れ、島津一等書記官、通訳官だった島内直史君ら計6人で、ひとまず泰緬国境のジャングルを越えて、バンコクへ向かった。(バー・モウはビルマ国の元首であるから、最後までビルマ領内にとどまることは、これまだ義務だ、としてムドンに残留)
▼バンコクに到着後、帰国命令があるから、東京に帰らねばならず、軍へ行って飛行機の便を交渉したが、バンコクから東京への直通便は期待できず。南方総軍司令部のあるサイゴンに単身で出たもののやすやすと東京へ運んでくれる便はなく、2ヶ月も足止めを食った。

▼わたしはサイゴンで飛行機を待つ間、南方総軍の宿舎にやっかいになっていたが、そこへ司令部から電話がかかり、「バー・モウさんが来た」という。最後までビルマ領内に残って地下にもどり、独立運動を続けるといっておられたので驚きもしましたが、なつかしくもあったので、すぐ司令部へ飛んでいったのです。一別以来のあいさつもそこそそに、事情を聞いてみたら、終戦直前に外務省から石射大使を通じてムドン部落へ連絡があり、ご希望なら日本へおいでください、ということだった。ともかく、大東亜会議なんかでバー・モウさんや、ボースさんが東京へ集った際、当時の東条総理が亡命なんかとは全く関係なく、東亜の指導者については、わが国は最後まで責任があり、めんどうを見ます、といわれていたそうです。それで、バー・モウさんも、ビルマに残ってイギリス軍に捕われれば、こんどこそ反逆罪で絞首刑は間違いないと判断し、急遽日本へ亡命する決心をしたらしいのです。そのときバー・モウさんは、プノンペンの近くのコンポンチャムに避難している家族や閣僚とともに、日本へ行きたいとの希望を述べたが、折り返し日本から返事があり「わが国は降伏したのだから、バー・モウさんのお世話で精いっぱい。とても家族や閣僚のめんどうまで見られない。来るなら単身で」といって来たのだそうです。そんなわけで、サイゴンへ来たバー・モウさんは、まずコンポンチャムにいる奥さんに会いたい、といいわれるので、軍から連絡してもらってサイゴンまで来てもらい、会わせたわけですが、そのときバー・モウさんはいっしょに東京へ行けない理由を、奥さんや娘さんによく説明されたのでした。こんなことで2,3日をついやし、8月23日、総軍が手配した飛行機で日本へ出発したわけです。わたしも長い間ここで東京への便を待っていたのだし、また、総軍にしてみれば、それまでバー・モウさんと行動をともにしていた外交官が、いっしょなら都合がいいということで、こんどは是非乗って行ってくれ、といわれたものです。

▼バー・モウさんを無事、薬照寺に送り届けてから帰京、外務省に報告したあと、休養のため郷里の茨城県筑波山麓の父母のもとに帰り、一週間ほど滞在し、ふたたび東京へもどったのは(1945年)9月7,8日ごろでしたか。ビルマ時代の後始末や、こんごのバー・モウさんとの連絡など考えているうち、9月17日、重光さんが、終戦連絡中央事務局の内閣直属移管案に反対して辞任された。そして後任に吉田茂さんが外相になられたのですが、そのときわたしは、吉田さんに呼ばれて外相秘書官に任命されたのでした。以降とても忙しくなったが・・・・

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