メコン圏を描く海外翻訳小説 第10回「グッバイ・サイゴン」(ニナ・ヴィーダ著(Nina Vida)、矢沢聖子 訳)

メコン圏を描く海外翻訳小説 第10回「グッバイ・サイゴン」(ニナ・ヴィーダ著(Nina Vida)、矢沢聖子 訳)

「グッバイ・サイゴン」 GOODBYE, SAIGON(ニナ・ヴィーダ 著 (Nina Vida ) 、矢沢聖子 訳、講談社(講談社文庫)、1997年1月)

<訳者紹介>矢沢 聖子(やざわ・せいこ)
神戸市出身、津田塾大学学芸学部卒業。商社勤務、特許関係の翻訳などに携わり現在に至る。訳書にM.W.ウォーカー『凍りつく骨』『処刑前夜』『神の名のもとに』 P.エイブラハムズ『ライツアウト』(いずれも講談社文庫)などがある。(本書訳者紹介より、本書発刊当時)    

本書の原作は、1994年刊行の『GOODBYE, SAIGON』。原作者のニナ・ヴィーダ(Nina Vida)は、本書巻末の著者謝辞と訳者あとがきによれば、カリフォルニア州ハンティントン・ビーチ在住で、彼女の夫マーヴィン・ヴィーダがリトルサイゴンで弁護士を開業している。この夫の影響で、ベトナムから米国に移住してきた人たち、とりわけ苦難を生き抜いてきたボートピープルに強い関心をいだくようになり、リトルサイゴンの生活を、恥部もあえて隠さず、出来る限りありのままに描こうとした作品。本書に登場する出来事の多くは著者自身の見聞に基づくもので、会話は著者が耳にしたもの、エピソードは現実のものだが、登場人物はすべてフィクションであり、特定のモデルはいないとのことだ。

 本書の主人公は、1975年に家族と共にサイゴンを脱しアメリカに渡ったベトナム人女性アインと、法律事務所に働くユダヤ系アメリカ人のジェイナという2人の女性。二人にあるのは悲惨な過去と、成功を夢見るたくまし生命力だけ。ある縁から出会った二人の女性は、それぞれの夢を実現させるべく手を組み、カリフォルニア州リトルサイゴンに法律事務所を開く。順調に法律事務所の仕事が進むが、リトルサイゴンのギャングからの取引の誘いを断ったことからギャング一味の嫌がらせを受けることになる・・・。

 主人公の2人の女性は、ともに想像を絶しがたい悲惨な過去を持つ上に、老親や幼い子供、妹や弟を一人で扶養しながら、アメリカ社会で厳しい生活を強いられ苦労は多いものの、2人ともしっかりしていて非常に力強くたくましい。したたかさだけでなく、家族思いの上、困っている人を見ると手を差し伸べずにいられない律儀な面を持っている2人は非常に魅力的で、輝いて見える。

 ベトナム人女性アインは1958年生まれの35歳の独身女性(1993年)。母とアメリカ生まれの弟、未婚の妹と妹の4人の幼子と一緒に暮らしている。昔はベトナムにひそかに人から預かった金を運ぶという運び屋をしたこともあるが、今は店に客を連れてってコミッションもらったり、あとはちょっとギャンブルやったりしている。カジノでこれと狙い定めた客にくっついてその耳元でアドバイスをささやき、アドバイスの謝礼という余ったチップがまわってくるのを待ち、それを元手に勝負を打っている。カジノの客のあいだを渡り歩き、負けた客を慰め、買った連中をおだてていたが、ポーカーのポの字も知らず湯水のように金をばらまくアメリカ人の常連客を捕まえることができた。しかしその上客も3ヶ月で姿を見せなくなり、そのうえ、高校を退学となったアインの弟は拘置所に入れられ、父にレストランを持たせ弟を大学にやるために頑張って蓄えてきたありったけのお金を盗まれてしまう。

 一方もう一人の主人公のユダヤ系アメリカ人女性ジェイナは、毎晩ピストルの弾が飛ぶようなスラムに住み続ける老いた母に、ぼけて徘徊する父と3歳の幼子をかかえながら、法律事務所に勤務していた。サンフランシスコ州立大学のロースクールに2年在籍したが、夫が撃ち殺され逃亡する犯人に人質誘拐されるという、思いもよらない不幸に見舞われて卒業はしていない。上司の弁護士がコカインのやりすぎで入院し意識不明になってしまい、自分がもらうはずのお金を得ないまま法律事務所を閉鎖するわけに行かなかったのだが、やがて事務所のお金も上司の弁護士がギャンブルで全部使ってしまっていたことが判明する。

 本書の主たるストーリーは米国のリトルサイゴンをはじめとするカリフォルニア郊外を舞台に展開するが、1993年現在のストーリーが展開している合間に、本書の主人公チューン・アインとその家族の人生も、アインが10歳の1968年の時から少しずつ明らかにされていく。サイゴン近郊の村に住んでいたアインの家族については、1968年当時、アインの母はカンボジアに商品を買い込み密輸をしており、手伝いの女たちを雇い、村で一番大きな家に住んでおり、アインの3人の兄はみんな家を離れてコミュニストと戦い、アインの父はときおり戦闘に加わることもあったが、それ以外はもっぱらレックスホテルに入りびたって、アメリカ軍の将校相手に賭博をしていた。しかしその後アメリカ軍のロケット弾に家を吹っ飛ばされ、アインの兄弟も死傷。1971年には父は居なくなりアインはわずか13歳で、母と共にサイゴンで売春宿をやっている伯父の店で働かされることになる。そして1975年4月30日、サイゴン陥落の日、アインは大勢の家族・親戚と共にブンタウ港から漁船でベトナムを脱するものの、漁船は難破。マレーシアの難民キャンプに収容されるが、アインの機転もあって家族・親戚と共にアメリカに渡ることができた。

 ベトナム人女性アインの少女時代から国外脱出、難民キャンプ、アメリカ移住後の生活の様子なども詳しいが、様々なベトナム人たちが生活しているリトルサイゴンというベトナム人コミュニティの様子がいろんな場面を通して活写されている。アメリカで生活しているベトナム人たちの生活や考え方だけでなく、周りの非ベトナム人たちがどのように彼らを見ているかもいろんな発言の中に現れてくる。「なんか、ぴんとこないのよね、友達って言葉。ベトナム人は家族、知り合い、仕事仲間、貸しのある人、借りのある人、おしゃべり仲間、ギャンブル仲間ってふうに、相手わけるの。そのほかにも・・」とはアインがジェイナに語る言葉の一節だ。尚、リトルサイゴンについては、本書の書き出し最初のところで、以下のように書かれている。

  アインが弟のティン、妹のヴィーとその4人の子供、そして母のメーと暮らしている家は、狭い部屋がいくつかあるだけの、壁の薄い古い家だった。オレンジ郡がまだカリフォルニア州でいちばん肥沃な土地で、種さえ蒔けば飢える心配がなかった頃、広い野菜畑を持っていた日本人が建てた家だ。当時は39号線の周辺にイチゴやキャベツ、トウモロコシ畑がひろがっているだけで、ガーデングローブ、スタントン、ウエストミンスター、ミッドウェイシティといった思いつきみたいな名前の、これといった特徴のない灰色の田舎町がハイウェイ沿いに点在していた。

  第2次世界大戦中、日本人がアリゾナの収容所に送られると、耕す人のいなくなった畑に雨後の筍のように次々と家が建ちはじめた。一気に200ドルも下がったおかげで、近くの造船所の労働者たちが、狭い前庭と裏手にゴミ焼き用の焼却炉、チェーンリンクフェンスのついた、白い箱みたいなマイホームを買えるようになったのである。こうして、木も草も歩道もない町ができた。39号線にはビーチ大通りという新しい名前がつけられ、ロスアンゼルスからぽんこつ自動車をころがしてやって来た若者たちが、殺風景な町を通り抜けて海岸に向かった。

  戦争が終わると、日本人が戻ってきて、かろうじて残っていた土地を取り戻した。収穫期には、メキシコから労働者を呼び寄せた。日本人は次第に羽振りがよくなって、投機家に土地を切り売りしたりしたが、その一方でメキシコ人労働者は、どんどん減っていく畑にしがみついて、日の目を見るときが来るのを辛抱強く待っていた。戦時中にオクラホマやアーカンソー、ネブラスカから出稼ぎに来て、そのままいついてしまった連中は、トタン屋根の修理工場に職を見つけて、ブレーキを取り替えたり、へこんだフェンダーを直したり、戦前の車に安物のペンキを吹きつけたりした。だが特徴のない灰色の田舎町が変貌したのは、もうひとつの戦争のあとだった。ベトナム人が続々と押し寄せてきて、海に続くハイウェイ沿いに住みついたのである。

  一朝にして町は変わった。店のウィンドーには、くねくねした線や模様に縁どられた見たこともない文字の、どう読むのか見当もつかない看板が掲げられた。アオザイをまとい、カラフルな日傘を差した女たちが、異国情緒を漂わせながら細い腰を振ってボルサ通りを歩きだした。町はにわかに活気づいた。祖国では軍人だったベトナム人が酒屋を開いた。弁護士がヌードルショップを開き、教師がネイルサロンで働き、医者がハーブを売りはじめた。ベトナム人は眠らなくても平気らしかった。二つも三つも、ときには四つも仕事をかけもちして寝る暇もないほど働いた。彼らのすることなすこと、まるでビデオを早回しにしたみたいな猛スピードで、だれもが自分にできることをしてお金を稼ごうとした。

  割りを食ったのはメキシコ人である。新参者に数で圧倒され、踏みつけにされたと不満たらたらだった。トタン屋根の工場で働く労働者たちは、ベトナム人には用心しろとささやき合った。連中はあの手この手で人をだます。首にナイフを突き立てられたくなかったら、やつらには背中を向けないことだ。ほんの子供でも徒党を組んで、わずか1ドルのことで人を殺しかねない。理由なんかなくても、おかまいなしだ。

  ベトナム人の子供たちは、このあたりの畑で栽培される異国の作物のように育っていった。地元の学校に通い、よく勉強して教師を感心させた。頭もいいし、行儀もいい、こんな優秀な生徒は初めてだと教師たちは言った。しかし、そうでない子供たちもいた。両親を失った子供たちは、学校をさぼって、朝から晩までコーヒーショップにたむろしていた。黒いまっすぐな髪の痩せた少年たちが、タイトスカートをはき髪にリボンをつけた少女たちと仲よくなるのは、時間の問題だった。やがて、彼らはギャングになって、強盗を働き、縄張りをめぐって街路で銃をぶっ放すようになったのである。

関連テーマ
●リトルサイゴン
●ベト僑
●ボートピープル
●サイゴン陥落

ストーリー展開時代
・1993年
・1968年~1975(アインのサイゴンでの少女時代からサイゴン脱出まで)
1975年~1985年
(アインがマレーシアの難民キャンプ経由アメリカに移住後)

ストーリー展開場所
・アメリカ
ロスアンゼルス・ウエストミンスター、ニューポート・ビーチ、イングルウッド、ハンティントン・ビーチ、エメラルド・ベイ、サンタアナ、ラグーナビーチ、ガーデングローブ、ロングビーチ、ニューランドのメキシコ人居住区、サウスダコタ州、スーフォールズ
・ベトナム
サイゴン近郊、ガツゥ・バイヒェン村、サイゴン、ブンタウ港、ホーチミン市(1981年、1985年)
・マレーシア
難民キャンプ(1975年)
フィリピン
マニラ(1981年)
香港

 主な登場人物たち
・チューン・アイン(ベトナム人女性。主人公)
・ジェイナ・ガルバン(ユダヤ系アメリカ人女性。もう一人の主人公)
・メー(アインの母)
・バー(アインの父)
・マイン(アインの子供)
・ブーン(アインの兄)
・チュン(アインの兄)
・ロック(アインの兄)
・マイン(アインの弟)
・ヴィー(アインの妹)
・ヴィーの4人の子供
・ティン(アインの弟)
・ローン(子守)
・ヨニ(料理番)
・コウ(アインの伯父、バーの兄)
・チー(コウの妻)
・カイン(バーの二人目の妻)
・クック(カインの幼い娘)
・チャン(夫がアメリカ軍将校の運転手というベトナム人女性)
・デュイ(チャンの夫)
・コン(コウ伯父の義兄弟)
・ヴォー(アインの母の妹)
・プー(ヴォーの夫。テニスクラブのインストラクター)
・グエン・タム(チー伯母の弟)
・ハオ(タムの妻)
・トゥエン(コウ伯父の息子)
・マリー大尉(アメリカ人)
・ミス・ラーソン(サウスダコタのスーフォールズにあるホーリー・グレース・ルーテル教会)
・婦長(グランドビュー老人ホーム)
・シンディ(老人ホーム看護人)
・ローズ(老人ホーム看護人)
・ビリー(田ムの働くカフェの主人)
・ロックの妻
・ミン(ベトナム人女性)
・エメリン(フィリピンの女優)
・タイ・クオック・エム(ベトナム人)
・ドン・タイン(元ベトコン)
・デニス・モーガン(弁護士、ジェイナの上司)
・アンディ(ジェイナの息子)
・ジェイナの父(元、家具職人)
・ジェイナの母
・バート(ジェイナの兄、ゲイ)
・シェリー(デニスの妻、画廊経営)
・デニスの母親 (ニュージャージー在住)
・トゥイ(ジェイナ家のメイド)
・ロン(バートの恋人男性)
・リトルサイゴンのはずれにあるハイスクールの校長
・商店主相手のたかり屋
・ホン(盗みを専門のチンピラ)
・ポール・リー(ミスター・ブイ)(ベトナム人男性)
・ミセス・ブイ
・ジュン(ブイの娘)
・ホン(ベトナム人女性の占い師)
・ファム・バオ(ベトナム語新聞発行)
・ネップ・レイ(リトルサイゴンのギャング、ネップ・ファミリーのボス)
・ミセス・ネップ(レイの母親)
・ダニー(ネップ・レイの子分)
・ウエストミンスター市警察の警察官)
・リン(コンピューターの店経営)
・ダン・ドュー(ベトナム人歌手)
・ロングビーチにあるベトナム人のための小さな教会の神父
・ルーベン(アインの妹の恋人)
・ヴァン・トリ(アインの母の妹の息子。中古車の店を経営)
・クッキー(アインの母の弟の娘で一家はサンタマリアのトマト農家)
・スタンリー(クッキーの兄)
・ナム(アインが事務所の用心棒に雇った若いベトナム人男性)
・ホワン(レストランのマネージャー)
・キム・ファム(歌手)
・「リトルサイゴン・ニュース・レポート」のカメラマン
・ミスター・ファム(ファミリー・ファム酒店経営)
・ドーナツ屋の夫婦
・花屋のおばさん
・車椅子の息子をかかえて保険のセールスをしている男
・シルクの造花を作っているおばさん
・看護士(デニスが入院した病院の)
・看護婦(デニスが入院した病院の)
・テレサ(アンディのベビーシッター)
・アリータ(テレサの後任)
・ティム(ジェイナの夫)
・サム・ノールトン(弁護士)
・ノリーン・ランド判事(ウエストミンスター小額裁判所裁判長)
・バートン・スティール(ジェイナの友人、元警官)
・裁判所の執行官
・マロニー地方検事補
・ノクラ裁判長(日本人女性)
・マイ・ラム(ベトナム人女性)
・チェイフィー警部補
・ミツィ・フラワーズ(バルボア島の不動産業者)

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