メコン圏対象の調査研究書 第27回「ポル・ポト<革命>史  虐殺と破壊の4年間」(山田 寛 著)


「ポル・ポト<革命>史 虐殺と破壊の4年間」(山田 寛 著、講談社<講談社選書メチエ>、2004年7月発行)

<訳者紹介>(本書紹介文より。2004年発刊当時)
山田 寛(やまだ・ひろし)
1941年生まれ。東京大学文学部仏文学科卒業。読売新聞サイゴン支局、バンコク支局、パリ支局、アメリカ総局長などを経て、現在、嘉悦大学教授。専攻は国際関係論、アジア事情。著書に『記者がみたカンボジア現代史25年』(日中出版)ほか、訳書に『ポル・ポト伝』(めこん)ほかがある。

本書は、読売新聞のジャーナリスとして1970年代前半にサイゴン(現ホーチミン市)、1970年代後半から1980年代初めまでバンコクに駐在し、カンボジアの激動とポル・ポト派の興亡を取材。その後もパリ、ワシントン、東京で、カンボジアを見つめ何回かカンボジアを再訪してきた著者による、ポル・ポト「革命」の通史。自著『記者がみたカンボジア現代史25年』(日中出版、1998年)や、訳書『ポル・ポト死の監獄S21』(白揚社、2002年)、『ポル・ポト伝』(めこん、1994年)がある。

著者自身が直接取材したものを整理し直し再構成し、また外国の研究者の調査研究を中心とする諸文献にあたって、この本がまとめられて、2004年7月に刊行されている。本書タイトルには、「虐殺と破壊の4年間」とあるが、1975年4月から1979年1月の約4年間のポル・ポト政権時代だけでなく、ポル・ポト共産主義はどう生まれ育ち、森での抵抗から、どう内戦に打ち勝ち、政権を奪取された後、ふたたび森のゲリラとなり抵抗を続けていくが、やげて消滅する、その「革命」運動の軌跡と背景を詳細に解説している。

まず本書「第1章 ポル・ポト共産主義はどう生まれ育ったか」では、ポル・ポト政権出現に向けて6つのステップについて解説されている。後のポル・ポト、本名サロト・サル(1925年~1998年4月15日)は1925年生まれであるが、1863年以来フランスの保護領だったカンボジアで抗仏民族運動、さらに共産主義運動が動き出したのは1930年前後だが、①1945年~1946年の抗仏運動の拡がりが第一ステップとする。 ②第二ステップは、サロト・サルが1949年から1952年末まで3年あまりフランスに留学。フランス留学で他の多くの仲間と共に共産主義者となり、1953年1月帰国して、秘密政党のクメール人民革命党に入り、第一次インドシナ戦争の裏で訓練を積んだこと。第3ステップは、③955年9月カンボジア国会選挙とシアヌーク翼賛体制確立。そして第4ステップは、サロト・サルが党全体の実力者にのし上がり、最終的に党のトップの座を獲得。そして1970年3月18日のロン・ノル首相による無血クーデターが起こったことで、ポルポト政権出現に繋がっていく。

尚、1951年2月、インドシナ共産党は表向き自らを解党し、ベトナム、ラオス、カンボジアのそれぞれに共産主義的政党を結成することを決め、クメール人民革命党が、1951年9月30日プノンペンで結成される(委員長ソン・ゴク・・ミン)。1960年9月、クメール人民革命党第2回党大会で、カンボジア労働党となり、後のポル・ポト政権時代、この1960年の会議こそが「カンボジア共産党」の第1回党大会と規定され、それ以前のクメール人民革命党時代は、ポル・ポトの共産党史から切り捨てられることになる。この1960年9月の党大会で、党中央委員会の書記は、トゥー・サムーㇳ、副書記は、ヌオン・チュア、サロト・サルは序列3位の書記補佐に決定。1962年7月、カンボジア労働党党首トゥー・サムーㇳが失踪し真犯人は政府側かサロト・サル陰謀かは確定できないも殺害されたとみられ、1963年2月のプノンペンで秘密裏に開かれた党大会で、サロト・サルが党書記に就任し党のトップの座を獲得し(副書記ヌオン・チェア、序列3位はイエン・サリ)ポルポト共産党体制が出来上がる。カンボジア共産党に変わるのは1966年9月頃。

この第1章では、サロト・サルの生い立ちから始まりフランス留学時代のことも書かれているが、この第1章には、10数名の著名な高位のポル・ポト派=カンボジア共産党指導者・幹部につき、有産・エリート・ブルジョア・プチブル階層出身か否か、シソワット高校卒業か否か、フランス留学か否か、教員経験有無の4点で出身と経歴を表資料(表1)にまとめられている。ポル・ポト自身は、富農出身でフランス留学組で教員経験有理の経歴だが、他の主要幹部もほとんどが富裕階級出身であり、フランス留学、教員経験有りの経歴。ポル・ポト、ヌオン・チェア、イエン・サリ、ソン・セン、タ・モク、キュー・ポナリー(ポル・ポト夫人)、イエン・チリト(イエン・サリ夫人)、キュー・サムファン、ティウン4兄弟、ボン・ベトは皆、有産・エリート・ブルジョア・プチブル階層出身。

1968年1月に、カンボジア共産党(1966年、カンボジア労働党が改名)がシアヌーク政権への武装闘争を開始するが、1970年3月に、ロン・ノル首相によるクーデターが起こり、シアヌーク殿下は中国などの勧めでカンボジア「解放勢力」と統一戦線を組み、王国民族連合政府を樹立して5年に及ぶ内戦に突入。「内戦に勝つ。」の第2章では、この内戦期間の推移や背景を解説。ただ内戦といいながら、1970年4月末、3万人の米軍、4万人の南ベトナム政府軍がベトナム共産軍の聖域をたたくため、カンボジアに侵攻。ベトナム共産軍は追撃を逃れて国境地帯からさらに中へ、カンボジア全土に入り込み、南ベトナム政府軍は米軍が引き揚げた後も2年近く残り、カンボジア領内でベトナム人同士の戦闘を繰り広げたという。ロン・ノル政権の敵は戦場では1973年初めまで強力なベトナム共産軍だったが、1973年1月、ベトナム和平協定の調印後、ベトナム共産軍はしだいに国境地帯へ引き揚げて、内戦はカンボジア化し文字通りの内戦となった。

1970年から75年の内戦期間は、1973年がクメール・ルージュにとって新しい出発点となったということがよく分かるし、1972年後半、パリで開かれていたベトナム和平会談の秘密交渉が大詰めを迎え、和平協定締結の展望が出てきて、ベトナム側は米側の求めに応じ、カンボジア「解放勢力」に圧力をかけだし、1972年10月以降、クメール・ルージュとベトナム共産側との対立が決定的になったとのこと。ロン・ノル側の最大の頼りは、米軍の爆撃で、米軍は内戦開始前年の1969年3月から、カンボジア領内のベトナム共産軍の「聖域」に激しい秘密爆弾を行っていたが、1973年8月には米軍爆撃も停止となる。クメール・ルージュの内戦の勝利の要因には、加えて、シアヌーク殿下を旗印に掲げ、キュー・サムファン、フー・ユオン、フー・ニムら左翼知識人3人だけを表面に出す「解放勢力」側の秘密とぎょぎの戦略が成功したことも挙げられているが、決して、後にポル・ポトらが誇ったような「集団化など共産党の基本路線の勝利」ではなかった。

1975年4月17日、クメール・ルージュがプノンペンを陥落させ、ロン・ノル政府軍は完全降伏し内戦が終了するが、鎖国状態の国の中で、都市住民の強制移住、旧ロン・ノル政権関係者の虐殺など、クメール・ルージュによる暗愚政治が始まる。その様子は「第3章 ポル・ポト政権」に記載。一般民衆の大量虐殺とは別に、ポル・ポト政権内の粛清も異常な激しさで、大物粛清の手始めが、はっきりポル・ポト革命に異を唱えたフー・ユオンの1975年8月暗殺。1975年12月末に北京からプノンペンに戻ったシアヌークのその後のプノンペンでの幽閉生活や家族の悲劇も第3章で紹介。また、ポル・ポトが長い間謎に包まれていたことについても触れられている。1976年4月14日、民主カンボジア政府閣僚が発表され、ポル・ポトが首相に就任するが、皆初めて聞く名前で正体がわからず、経歴も写真もその後も公表されず、外国の研究者たちが、ポル・ポト=サロト・サルだと最終確認できたのは、1977年9月末。カンボジア共産党の存在の公表も1977年9月30日。

「第4章 革命の正体」では、1976年6月、ポル・ポト政権の治安警察「サンテバル」が首都南部のツールスレンに本拠を移し、そこを尋問・拷問・虐殺センター「S21」として粛清の嵐が吹き荒れていく様子が記載されている。1977年以後は、「ベトナムの手先」というレッテルが粛清の最大理由となる。人口800万人足らずの小国で、推計150万人もの国民を死に追いやるという暗黒虐殺革命に、どうしてなってしまったのか、本章の最後で、著者は、以下6つの理由を挙げている。①現実から遊離し、相当な虚構の砂の上に立った誇大妄想の「バブル革命」だった。②「人間不在の革命」だった。③借り物の多い「レンタル革命」だった。④「子ども革命」だった。 ⑤「自主独立偏執病革命」だった。⑥「ブレーキのない革命」だったと。

本書はポル・ポト政権への誕生から政権崩壊までの通史に終わらず、更に「第5章 ふたたび森のゲリラへ」「第6章 ポル・ポト派の終わり」「終章 家族の絆と宗教」と、1979年1月のポル・ポト政権崩壊後、再び続く森でのゲリラ抵抗活動から、1999年3月、残っていた指導者タ・モクが逮捕され、旧ポル・ポト派が消滅するまで、ポル・ポト派の活動の軌跡についての解説が続く。1978年12月、カンボジア東部地域で、ポル・ポト政権打倒を目指す「カンボジア救国民族統一戦線」が結成され、12月下旬にベトナム軍が大攻撃を開始し、19791月、べtナム軍の侵攻でプノンペン陥落し、暗黒虐殺革命を非情に強引に推し進めたポル・ポト政権が崩壊。ポル・ポト政権指導者たちは再びジャングルに潜り、また抵抗運動に入り、カンボジアは、ベトナム、ヘン・サムリン軍とポル・ポト派などの反政府ゲリラ勢力との長い持久戦に突入。

プノンペンに樹立された親ベトナムのカンボジア人民共和国(通称ヘン・サムリン政権)打倒のポル・ポト派、ソン・サン派、シアヌークはの三派連合が結成され、ポル・ポト派を支え続ける中国、ベトナムを抑え込みたい米国、ベトナムの膨張への懸念が強いタイなどが支援し、再度の内戦が長期に続いていく。この経緯の解説が、「第5章 ふたたび森のゲリラへ」に詳しい。ポル・ポト自身は1980年からまた完全に姿を消すも、ポル・ポトがポル・ポト派を統率し続け、三派連合といっても、ベトナム軍やヘン・サムリン軍と戦闘を行うのは、ほとんどがポル・ポト派。

ただ、1987年12月にパリ北方で三派連合政権のシアヌーク大統領とプノンペン政権のフン・セン首相が初めて会談してから、内戦の和平の動きが始まりだし、軍事より政治の闘いの時代になると、ポル・ポト派の相対的地盤沈下は避けられないことになり、やがて1993年、シアヌークを国王とするカンボジア王国が発足し、ポル・ポト派はその後非合法化され、ジリ貧となっていき政府への投降者が増えていく。1980年代終わりから1990年代初めにかけ、東西冷戦体制の終結、ベトナムもカンボジアに大量の兵員を駐留させて経済困難の状態を続けるよりは、ドイモイ経済改革を目指すことを決断し1989年9月、カンボジアからの撤兵を完了。米国は1990年7月にカンボジア政策を転換し、ポル・ポト派のカムバック阻止を最重要目標にした。中国も経済の改革・開放を進め、1991年11月にはベトナムとの関係を正常化するなど、カンボジアを巡る関係国に起きた大きな変化は重要。

「第6章 ポル・ポト派の終わり」では、ポル・ポト派の内輪もめから起こる末路を記しているが、1997年6月、カンボジア北西部のジャングルの拠点アンロンベンを中心にほそぼそと抵抗を続けていたポル・ポト派の中で、政府への帰順交渉に反対するポル・ポトの命令により、帰順推進派のソン・セン元副首相兼国防相と一族14人を皆殺しにする事件が起きるが、ポル・ポトはまもなく党内で失脚し、1998年4月15日のポル・ポトが死亡する。1998年3月、ケ・ポクが投降、1998年12月にはヌオン・チェアとキュー・サムファンが投降。1999年3月には、残っていた指導者タ・モクが逮捕され、旧ポル・ポト派が消滅する。元S21所長ドッチも1999年5月に逮捕。終章では、ポル・ポトの最初の妻、キュー・ポナリー夫人、ポル・ポトの再婚女性ミヤ・ソム、娘のシットの話など家族の話に及んでいる。なお、本書の最後で、ポルポト派裁判をめぐる動きについても解説が加えられているが、2004年7月刊行の本書発行時には、ポルポト派裁判のカンボジア特別法廷はスタートせず、2006年7月に活動を開始し2022年9月に終結となっている。

目次

はじめに
主な登場人物・関係者一覧

第1章 ポル・ポト共産主義はどう生まれ育ったか
1.革命家の誕生
指導者の生い立ち/ 抗仏独立運動/ フランス留学
2.森へ
人民革命党に入る/ シアヌーク翼賛体制/ 党を握る/ ナンバー・ワンへの三幕劇/ {第100局」/ 北ベトナムと中国への大旅行/ 武装蜂起と弾圧

第2章 内戦に勝つ
1.勝負は前半戦で決まった
パンドラ・クーデター/ ベトナム軍は強かった/ 実力者は隠れ続けた/ 新しい出発/ 爆撃が遺した問題
2.1973年8月のクライマックス、そしてその後
「競合区」のノンビリ政府軍/ 「解放区」に入る/ サルーン司令官/ カンボジアはカンボジア/ 生命を助けられた/ 最終攻撃へ
第3章 ポル・ポト政権
1.強制民族大移動
プノンペンの一番長い日/ 絶望的な光景/ 最初の犠牲者たち/ 旧軍人は名乗りでよ/ 基幹人民と新人民
2.邪魔者フー・ユオンの殺害
異を唱え続けた男/ 暗殺/
3.囚われのシアヌーク
やっと帰国できた/ 国家元首辞任/ 8000ドルの空手形/ 生死不明/ 父と息子/
4.憲法公布と国民生活
世界一簡単な憲法/ 宗教弾圧/ 教育は要らない/ 旧文化狩り/ 「歌い死に」/ 国際援助を拒否する/ 集団食事制
5.マジック・ミラーの裏側から
ポル・ポトって誰だ/ 自己陶酔/ 借り物スローガン/ 4ヵ年計画のまぼろし/ 首相「辞任」のかくれんぼ/ 警戒モードへ/ ようやく党を公表する
第4章 革命の正体
1.粛清、粛清、粛清
ツールスレン/ 重要囚人第1号/ 芋づる式に逮捕される高級幹部/ S21所長/ 供述書より/ 外交官もインテリも赤ちゃんも/ フー・ニムの最期/ ポル・ポトの愛弟子たち
2.死の青色マフラー
北西部の大掃除/ 脱出者の証言/ 東部の大粛清/ ソー・ピムの自殺/ 死への強制移住
3.民族の怨念 ーベトナムとの戦い
断絶/ 自信過大症/ ポル・ポト版民族浄化/ 中国には介入を断られた
4.子ども兵士
訓練できない/ 大人は信用できない/ イソップ物語/ 字の読めない医師
5.政権崩壊
アンコール観光ツアー/ 総攻撃/ それぞれの脱出
6.虚構の大革命
150万の死者/ なポル・ポトは殺したのか/ 家畜以下の人間/ 借り物革命/ ゆがんだ自主独立精神の暴走
第5章 ふたたび森のゲリラへ
1.関係国の思惑
ベトナム対中国・タイ/ 国境のゲリラと難民/ PR/ 三派連合
2.むなしい抵抗
森の奥のポル・ポト/ カリスマの真実/ 和平に追い込まれる
第6章 ポル・ポト派の終わり
1.謎に包まれた最期
ポル・ポトの死/ 政治ショー裁判/国際裁判への動き/ 二人の首相の争いの中で
2.責任を問う
首相の気持ちのゆれと国王の憂鬱/ 逮捕者二人/ 被告人は誰/ 時間との競争/ 虐殺の責任者/ 「ソリー、ソリー」/ ドッチ証言/ イエン・サリは語る/ 責任の逃れ合い
終章 家族の絆と宗教 ー革命が越えられなかったもの
ポナリー夫人/ 姉妹の情報/ 「不美人鬱憤説」/ 虐殺のアクセルかブレーキか/ ポル・ポトの妻と娘/ 彼女たちの新しい人生/ ヌオン・チェアの母/ 特別なはからい/ ポル・ポト革命とは何だったのか

あとがき

参考文献
ポル・ポト<革命>史関連年表
索引

ポル・ポト<革命>史関連年表
・1925年1月:サロト・サル(後のポル・ポト)生まれる
・1930年10月:ベトナムを中心にインドシナ共産党が結成される
・1942年7月:ソン・ゴク・タンらの指導で大規模な反フランスデモが行われる
・1945年~46年:ソン・ゴク・ミン、トゥー・サムート、シウ・ヘンらカンボジア共産主義者第一世代が活動を開始する。
・1949年9月:サロト・サルのパリ留学始まる
・1950年~51年:イエン・サリらがパリ留学を開始。ケン・バンサクらが中心となった共産主義文献討論会合が盛んに開かれ、サロト・サルも出席するようになる
・1951年9月:カンボジアでクメール人民革命党が結成される
・1952年6月:”王様クーデター”。シアヌーク国王、国会を解散。全権力を握る。サロト・サル論文「王制か民主主義か」を発表、革命を讃える
・1953年1月:サロト・サル帰国、人民革命党に入り、年半ばから東部のジャングルの拠点で秘密党活動に従事する。
・1953年11月:シアヌーク国王、「独立のための王室十字軍」で完全独立達成
・1954年5月~7月:第一次インドシナ戦争休戦のためのジュネーブ会議が開かれる。サロト・サルらはプノンペンに戻って党活動
・1955年9月:王位を退いたシアヌークの翼賛政治体制確立。サンクムが国会会議席独占
・1956年7月:サロト・サルがキュー・ポナリーと結婚する。この後サロト・サルや仏留学生仲間は教員となる
・1959年:シウ・ヘンが脱党する
・1960年9月:党大会で、カンボジア労働党となる。後のポル・ポト政権時代、これを共産党の始まりとするよう、党史を書き改める
・1962年7月:党書記トゥー・サムーㇳが失踪。殺されたと見られる
・1963年2月:党大会でサロト・サルが書記となる。ヌオン・チュアは副書記に留まる
・1963年5月:サロト・サル、イエン・サリらが地下に潜る。他の幹部もこれに続く
・1965年~66年:サロト・サルが北ベトナム、中国を訪問。中国で大きな影響を受ける
・1966年9月:このころ党名を共産党に変更する
・1967年4月:バッタンバン州サムロートで民衆が蜂起する
・1968年1月:共産党がシアヌーク政権への武装闘争を開始する
・1969年~70年:サロト・サル、また北ベトナム、中国を訪問
・1970年3月:ロン・ノル首相によるクーデターで、外国旅行中のシアヌーク国家元首が追放される。シアヌーク殿下は中国などの勧めで、カンボジア「解放勢力」と統一戦線を組み、王国民族連合政府を樹立して内戦に突入
・1971年8月~12月:ロン・ノル政府軍のチェンラ2号作戦が失敗、北ベトナム軍により致命的な打撃を受ける
・1973年1月:ベトナム和平パリ協定調印
・1973年2月~3月:シアヌークが「解放区」を訪ねる
・1973年8月:米軍爆撃終わる
・1973年11月:王国民族連合政府が、全面的に北京から国内に移される
・1975年4月:クメール・ルージュ、プノンペンを陥落させ、内戦に勝つ。鎖国状態の国の中で、都市住民の強制移住、旧ロン・ノル政権関係者の虐殺など暗愚政治が始まった
・1975年8月:このころ、フー・ユオンが殺される
・1975年9月:革命政権の治安警察サンテバル(S21)がスタートする
・1976年1月:民主カンボジア新憲法が公布された
・1976年4月:1975年12月末にプノンペンに戻ったシアヌークが名ばかりの国家元首を辞任する。プノンペンでの幽閉生活が始まった。ポル・ポトが首相に就任。プノンペンで手投げ弾爆発事件
・1976年5月:S21ツールスレン監獄の重要囚人第一号、チャン・チャクレイが逮捕される
・1976年9月:ポル・ポト首相の一時辞任が発表される。党内の敵の目をくらませる目的と見られる
・1977年1月:コイ・トゥオンがツールスレンに連行される
・1977年:北西部地域の粛清続く
・1977年4月:フー・ニムがツールスレンに連行される
・1977年9月~10月:9月30日、ポル・ポト5時間の大演説で共産党の存在を公表する。東部地域の部隊がベトナム領を攻撃。ベトナム軍も反撃、カンボジア領内に攻め込む。10月、ケ・ポクが東部に派遣され対ベトナム戦闘を監視し、東部地域粛清にも着手する
・1977年12月:ポル・ポト政権、ベトナムとの断交を発表する。この後、国境地帯での戦闘が断続的に続く
・1978年4月~7月:東部地域幹部の大量・徹底粛清が行われる。中央政府軍と東部地域軍部隊の戦闘も発生した。ヘン・サムリンらがベトナムに脱出。東部地域書記のソー・ビムは自殺する。東部住民の大虐殺が行われる
・1978年9月:ポル・ポト政権外務省、ベトナム非難の『黒書』を発表する
・1978年11月:ボン・ベトがツールスレンに連行される
・1978年12月:東部地域で、ポル・ポト政権打倒を目指す「カンボジア救国民族統一戦線」が結成され、下旬にベトナム軍が大攻撃を開始する。下旬にプノンペンで親ポル・ポト政権の英国人学者が殺害される。バンコクからのアンコール遺跡観光ツアーのテスト飛行実施
・1979年1月:ベトナム軍の侵攻でプノンペン陥落。ポル・ポト政権指導者たちはふたたびジャングルに潜り、また抵抗運動に入った。シアヌークは北京へ脱出、国連でベトナム非難の熱弁をふるう。プノンペンには親ベトナムのカンボジア人民共和国(通称ヘン・サムリン政権)が樹立される
・1979年8月:ヘン・サムリン政権が、ポル・ポト、イエン・サリの2人を即席欠席裁判にかけ、虐殺の罪で死刑を宣告する
・1982年6月:ポル・ポト派、ソン・サン派(元首相)派、シアヌーク派の反ベトナム・反プノンペン政権三派連合が成立する。中国、タイや西側諸国が支援。内戦の和平の動きは1987年末ごろからやっと始まる
・1991年10月:ポル・ポト派を含む4派と関係18か国がパリで和平協定に調印
・1993年5月:国連管理による制憲議会選挙が実施された。ポル・ポト派は選挙をボイコットしたが、選挙は結局平穏に行われた
・1993年9月:シアヌークを国王とするカンボジア王国が発足。ポル・ポト派はその後非合法化される
・1996年8月:イエン・サリ、ポル・ポト派を離脱、まもなくシアヌーク国王から恩赦を与えられる
・1997年6月:ポル・ポト派支配地域のジャングルで、カンボジア政府との帰順交渉に反対するポル・ポトの命令により、ソン・セン一族が皆殺しにされる。ポル・ポトはまもなく派内で失脚する。王国政府のラナリット第一、フン・セン第二両首相が、国連事務総長にポル・ポト政権時の大量虐殺を裁く国際法廷設置を要請する
・1997年7月:ラナリットとポル・ポト派の「帰順合意」調印が行われる直前、フン・センが武力で合意を阻止、ラナリット首相を追い出して、単独で実権を握る。この後、フン・セン政権にとって、国際法廷設置は、むしろ厄介な政治テーマとなる。ジャングルのポル・ポト派拠点でポル・ポトの「即席人民裁判」。ソン・セン一族殺害で終身刑が言い渡される
・1998年3月:ケ・ポクが投降する
・1998年4月:ポル・ポトが死亡する
・1998年12月:ヌオン・チェアとキュー・サムファンが政府側に投降する
・1999年3月:残っていた指導者タ・モク逮捕され、旧ポル・ポト派が消滅する。
・1999年5月:元S21所長ドッチ逮捕される
・2001年12月:カンボジア国会から、旧ポル・ポト派裁判のための特別法廷設置法案が憲法と矛盾するとして修正要求が出る
・2002年2月:国連、旧ポル・ポト派を裁く特別法廷設置のため、カンボジア政府と続けてきた交渉を打ち切る。ケ・ポク死亡
・2003年3月:国連、カンボジア政府特別法廷問題で基本合意に達する
・2003年7月:キュー・ポナリー死亡

主な登場人物・関係者一覧 <*本書掲載のクメール・ルージュ関係一部のみ>
1963年2月のカンボジア労働党党大会後の中央委員会メンバー
書記 サロト・サル/ 副書記ヌオン・チュア/ 序列3位イエン・サリ/序列4位ソー・ピム/ 序列5位ボン・ベト/ 序列6位ムーン(コイ・トゥオンと見られる)/ 序列7位プラシット/ 序列8位ムオル・サッバット/ 序列9位サ・モク/ 序列10位プオン/ 序列11位ソン・セン/ 序列12位ソン・ゴク・ミン
カンボジア民族統一戦線・王国民族連合政府 1970年~1975年
ノロドム・シアヌーク 戦線議長・国家元首
ペン・ヌーㇳ 首相
キュー・サムファン 副首相兼国防相兼軍最高司令官
サリン・チャク 外相
イエン・サリ 副首相府特別顧問
フー・ニム 情報宣伝相
フー・ユオン 内務・農村改革・共同体相
コイ・トゥオン 国民経済・財政相
サロト・サル 最高軍事司令部副議長
民主カンボジア(ポル・ポト政権)1976年~1979年(政権時代に粛清されなかった者)
ポル・ポト(サロト・サル) 首相・共産党書記
ヌオン・チェア 共産党副書記・党粛清の責任者
タ・モク 南西部地域書記・国軍総参謀長
ソン・セン 副首相(公安・国防担当)、S21担当
イエン・サリ 副首相(外交担当)
キュー・サムファン 国家幹部会議長
ケ・ポク 中部地域書記
イエン・チリト 社会問題相。イエン・サリの妻
キュー・ポナリー 民主婦人連合会長。ポル・ポトの最初の妻
ユン・ヤット 文化教育相。ソン・センの妻
テイウン・マム 国家科学技術委員長
民主カンボジア三派連合政府 1982年
シアヌーク 大統領
キュー・サムファン 副大統領
ソン・サン 首相

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  6. メコン圏が登場するコミック 第23回「密林少年 ~Jungle Boy ~」(著者:深谷 陽)

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  7. メコン圏を描く海外翻訳小説 第18回「ヴェトナム戦場の殺人」(ディヴィッド・K・ハーフォード 著、松本剛史 訳)

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  8. メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第31回「メコン川物語 ー かわりゆくインドシナから ー 」(川口 敏彦 著)

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  9. メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第31回 「アキラの地雷博物館とこどもたち」(アキ・ラー 編著)

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