隣接圏アジア・マレー圏関連書籍 第2回「マレーの虎 ハリマオ伝説」(中野 不二男 著)



「マレーの虎 ハリマオ伝説」(中野不二男 著、新潮社、1988年4月発行)
<カバー表写真> 25歳頃のハリマオこと谷豊
<カバー裏写真>(左上)谷豊が育ったトレンガヌの理髪店
(左下)トレンガヌでの谷一家、右からミチエ(妹)、トミ(母)、浦吉(父)、豊
(右上)幼い頃の繁樹(弟)とシズコ(妹)
(右下)シンガポール市内にあるイスラム教徒の墓

<著者略歴> 中野不二男(なかの・ふじお)
1950年、新潟市生まれ。1973年、日本大学農獣医学部中退。ウィーン・フォタファ通信社写真部、オーストラリア「ザ・ニューズ」新聞社写真部、シドニーの技術会社勤務を経て、オーストラリア原住民アボリジニーの研究・調査に携わる。多彩な経歴が示すように、文化人類学のフィールドワーク、ジャーナリスト感覚に加えて、テクノロジー・科学の素養から、独自の視点で作品を発表してきた。1983年、『海鷲は舞い降りたか』で第3回集英社ドキュメント・ファイル賞受賞。1984年、『カウラの突撃ラッパ』で第11回日本ノンフィクション受賞。著書に、『カウラの突撃ラッパ・・・・零戦パイロットはなぜ死んだか』(文藝春秋、1984)、『アボリジニーの国』(中公新書、1984)、『マリーとマサトラ』(文藝春秋、1986)、『大いなる飛翔』(講談社、1987)がある。 <本書掲載当時・本書掲載より>

科学・技術ジャーナリストでもありノンフィクション作家でもある著者が、昭和60年(1985)4月11日の夜、当日の朝日新聞夕刊に、「なぜか人気『ハリマオ』=大東亜の英雄 虚像と実像」という記事がハリマオ本人である谷豊の写真とともに掲載されていたのを見たことをきっかけに、開戦前夜のマレー半島でハリマオと呼ばれた日本青年、谷豊とは何者だったのか、その実像に近づくべく、各地各所の関係者たちを訪問取材する。本書は、著者が1986年に雑誌「BRUTUS」で、60枚ほどの「ハリマオ伝説」ととして短期連載したものをもとに、単行本としてまとめるにあたって、さらに国外国内の追加取材をし、確認作業を繰り返すと同時に、大幅な加筆と訂正をし、1988年4月に刊行されたもの。

この新聞記事の内容は、谷豊の遺族の話や、マレー方面における日本陸軍の関係者の証言から、ハリマオの虚像と実像を書いたもので、明治の末期からマレー半島東岸に居住していた、谷一家の話から始まっていた。英領マレーのトレンガヌという港町で、谷一家は理髪店を経営し、商売は繁盛していた。ところが満州事変のあおりで、町に住む華僑のあいだに排日気運がたかまった昭和7年(1932)、暴徒の襲撃にあい末娘が惨殺された。その後、一家は帰国するが、当時ちょうど徴兵検査のために日本に来ていた長男の豊は、その話を聞いてマレーへもどる。そして、タイ・マレー国境のジャングルを拠点とする盗賊団に加わり、華僑の商店や銀行を襲撃しはじめた。英国官憲に逮捕されては脱走し、また襲撃しつづけるうち、部下からハリマオと呼ばれる頭領になる。太平洋戦争の開戦直前、マレー語もでき土地に詳しく、対英諜報員につかえることから、F機関と呼ばれた陸軍の特務機関に協力するようになった。

そして日本軍のシンガポール占領から1ヶ月後、ハリマオはマラリアのためにシンガポールの陸軍病院で生涯を閉じた(1911年11月6日~1942年3月17日で享年30歳。新聞記事では32歳の生涯と記す)。死後、ハリマオはF機関員はじめ大本営参謀本部により、マレーをまたにかけ英国人や華僑から恐れられていたジャングルの熱血日本青年、若くして昭南島(日本軍占領中のシンガポール)で散った軍事探偵、そして部下3千人をひきいる大東亜の英雄として、偶像化されていった。浪曲となり、レコードとなり、そして「マライの虎」のタイトルで映画がつくられ、伝説はふくらんでいった。しかし、かつて戦中の報道では、部下の数3千人といわれていたが、実際には100人にもみたなかった。また、手柄もかなり誇張して発表されたものだった。要するにハリマオは作られた英雄だった、という新聞記事内容。

著者が、この昭和60年(1985)4月11日の朝日新聞夕刊を読んだ数日後に、新聞記事でインタビューに応えていた谷豊の遺族に、谷豊の実家・福岡氏南区十川を訪ね、話を聞くことから第1章がスタートする。1985年4月の取材時点で、華僑暴動で殺された谷豊の妹シズコ(1932年11月惨殺)と父・浦吉(1931年12月死去)、母・トミ(1958年8月死去)をのぞけば、谷豊の弟と二人の妹はみな福岡市内で元気にしていて、しかも近所には、谷豊の小学校時代の同級生で同じ福岡の日本ゴムでも働いていた人もいるとのことで、全員同席でインタビュー取材。谷豊の両親の話、トレンガヌの街での生活、日本の小学校の時や青年で日本ゴムに勤務していた頃の様子などから、衝撃的な妹シズコの惨殺事件の事などに話が及んでいる。

谷豊がマレーシアで失踪・音信不通後、昭和17年(1942年)4月はじめ、東京の参謀本部から連絡があり、同年4月3日、福岡の雁の巣飛行場に藤原少佐が到着し、谷豊の母トミ、妹ミチエとユキノ、弟・繁樹、叔父の源三郎と飛行場待合室の貴賓室で面会し、谷豊が軍属となって戦死していたことが伝えられたことや、その日から、谷豊が、”マレーの虎”、”ハリマオ”と、マスメディアを通じ世間に大きく登場し、谷豊の死が公表されてから、わずか1年と2カ月後の翌1943年6月には、ハリマオを主役とした映画「マライの虎」が封切られ、”東亜の英雄”が急ピッチで作り上げられていったことにも触れられている。

福岡の谷家の実家を訪ねた後、東京に戻り、谷豊が日本をいつ出発しトレンガヌに向かい初速不明になっていくのかを調べるため、谷豊が日本を出発した時の旅券発給の記録を調べに、六本木にある外務省の公文書保管室に出かけている。それは、妹シズコが殺害された1932年11月以降、谷一家が日本へ引き揚げた1935年までの間のいつかであるため、丹念にその期間の旅券発給記録を調べ、昭和9年(1934年)7月2日付で、谷豊への旅券発給記録を見つけている(旅行地名:英領馬来半島、旅行目的:理髪業ノ為メ)。なので、トレンガヌに谷豊が戻ったのは、昭和9年(1934年)7月の直後あたりと推定する。

ハリマオの名を日本中に広めたきっかけは、「靖国の神」とか「軍事探偵」と書き立てた戦争初期の新聞で、そのニュースの出所は陸軍参謀本部であり、”ハリマオ工作”をやった秘密工作機関の藤原機関だったことから、昭和60年(1985)暮に、著者は、東京・武蔵野市の藤原岩市元機関長(1908~1986)の自宅に取材の申込の電話をするが、家族の人らしい中年の女性から、「藤原はいま体の具合が悪く病院から帰ってきたばかりで吸入器をつけており、とても話せる状態ではない」と、わびるような口調で返答あり。1986年2月はじめ、再び藤原岩市宅に電話を入れると、再度入院で不在。そして、著者がマレーシア・シンガポールの取材の旅から帰国した翌日の昭和61年(1986)2月27日の朝、藤原岩市の自宅に再々度、電話をし、その3日前の昭和61年(1986)2月24日、胆のうがんで武蔵野赤十字病院で死去したことを知ることになる。

藤原岩市からは一言も話を聞くことができなかったが、1985年4月に見た朝日新聞の記事には、F機関関係者は、藤原元機関長のほか、土持則夫元大尉、山口源等元中尉、民間人の鈴木退三と3人の名前があげられ、短いコメントが書かれていたこともあり、本書の著者は、この3人に連絡を取り、彼らの証言を精力的に集めている。まず、1986年初に、広島に84歳の鈴木退三を訪ねる、鈴木退三は、戦前にクアラルンプールを拠点にして事業を営み、マレー半島各地の地理に明るかったことから、開戦時にF機関員になっていた人物。鈴木退三氏の生涯も非常に興味深いが、谷豊との接点は、開戦の時に二人がF機関員としての活動を始めていた時が初めてではなく、昭和9年(1934年)か昭和10年(1935年)頃、谷豊が英国人の屋敷に泥棒に入り逮捕されクアラルンプールの刑務所に送られた時に、裁判所から通訳として頼まれた鈴木退三がマレー語で面談している。

F機関関係者ではないが、和歌山県田辺市に住む移民史研究家である著者知人の小川平のもとに、1986年初、広島から東京に戻る途中で立ち寄り、小川平が、昭和11年(1936)から昭和13年(1938)の間、マレー半島東岸のタイ最南部の町バンナラ(バン・ナラティワット)で働いていた頃のハリマオの話を集めている。F機関の元機関員も、戦後次々と他界し、存命するのは、宮崎県都城市の土持則正元大尉と京都の山口源等元中尉の2人だけで、谷豊がどのようなスパイ活動をしていたのか、あるいはハリマオ工作というものが、どのようなもので、どうやってすすめられていたのかなどを探るべく、1986年初、著者は、宮崎県都城市、京都をそれぞれ訪ね、二人から詳細に取材をし、その模様は本書第3章で述べられている。尚、山口源等元中尉は、F機関では機関長に次ぐ副官という立場にあり、谷豊の臨終にも立ち会っている人物。

そして最後に著者は、1986年2月クアラルンプールに飛び、谷豊が入っていた刑務所を探そうとし、さらにシンガポールに向かい、マラリアに罹った谷豊が担ぎ込まれた旧陸軍病院を突き止め、谷豊が、最後に葬られたであろう墓地を探し出すという、探索の旅を、第4章に記している。エピローグのタイトルの99日間というのは、開戦の1941年12月8日から、谷豊がシンガポールで息を引きとる翌年3月17日までが、99日間。また、本頁の上部に記しているが、本書のカバー表や裏表紙には、谷豊関連の貴重な写真が配せられていて、特にカバー表の25歳頃のハリマオこと谷豊の写真は、著者が本書の元となる取材を始めるきっかけとなった強いインパクトを与えた1985年4月の朝日新聞夕刊記事での写真でもあるが、”派手なイメージのテレビのハリマオに比べ、新聞写真のハリマオ谷豊は、およそ似ても似つかぬほどに華奢で、そのうえ色白であどけない表情からは、ナイーブな、何か屈折したものさえ感じさせた。”と、著者が本書エピローグで述べている。

マレーの虎 ハリマオ伝説 *目次
プロローグ 伝説
第1章 異邦人
第2章 サヤ・オラン・ジッポン(おれは日本人だ)
第3章 北緯一度ヘの疾走
第4章 ヴィクトリア・ストリート
エピローグ 99日間の証明
あとがき

谷 豊(1911年11月6日~1942年3月17日)のマレーに向かい消息不明になるまでの半生
明治44年(1911)11月6日、福岡県筑紫郡日佐村(今は福岡市南区の一部)にて、33歳の父・浦吉と、29歳の母トミとの間にできた長男。
明治45年(1912)谷豊が1歳になったとき、谷一家はシンガポール経由でフィリピンへ向かう船に乗り、日本を出たが、船の中で母トミが産気づき、シンガポールに着いたところで、妹ミチエがが生まれ、しばらくシンガポールにいた後、浦吉はフィリピン行きは止め進路をかえて、シンガポールとマレー半島東岸の町を結ぶ巡航船に乗ると、英領マレーのトレンガヌに移り住んだ。谷一家がトレンガヌに居を構えたころ、町にはすでに30人ほどの日本人が住んでおり、いずれもマレー社会にとけこんで生活していた。
浦吉は、町の大通りの、南のはずれ近くで理髪店を開業した。店は成功し、まもなく2階に大きなベランダを持つ白い建物をつくり、規模をひろげた。
谷家の次女ユキノが生まれる前年の大正5年(1916)、まもなく学齢期になる豊とミチエは、小学校入学のために、故郷福岡へ帰される。はじめは、谷豊とミチエは、春日という母の里の方にあずけられ叔母の家から小学校に行き、それから父方の叔父・源三郎の所に預けられ、そこには、大正13年(1924)夏休みの間に迎えに来た母トミとともにトレンガヌへ帰るまで居住。そして1年後の大正14年(1925)、谷家には次男の繁樹が、つづいて昭和2年(1927)には3女のシズコが誕生。5人兄妹の長男である谷豊は、このころすでに理髪の技術を習得し、両親とともに店で働いていて、同時に以前にもまして仲間が増え、マレー人社会に深く入っていった。
昭和6年(1931)はじめ、19歳になっていた谷豊は、再び、徴兵検査のため帰国。身長がわずかに足りないために、甲種合格せず丙種合格(国民兵役に適するも現役に適しないもの)となり、実家の五十川からさほど遠くない美野島にあった、ズックやゴム長靴を製造する日本ゴムの工場に就職。昭和6年(1931)12月末、父浦吉が53歳の若さで急逝。
浦吉の死後、理髪店は、母トミとミチエの女手だけで営んでいて、谷豊は、まだ日本に帰国し、日本ゴムに勤務したままの昭和7年(1932)11月上旬、華僑の暴徒集団により末妹シズコが惨殺。その後、谷豊はマレー半島へ向けて日本を発ったが、消息不明となり、昭和10年(1935年)、谷トミは、谷豊を探し出すことをあきらめ、22歳のミチエと10歳になった繁樹をつれ、浦吉の位牌とともに福岡・五十川の谷家へ引き揚げてきた。トレンガヌに残ったユキノは、昭和11年(1936)、19歳の時に、12歳年上の福丸恒七という、半島各地で事業を営む日本人と結婚。昭和16年(1941)秋、マレー半島各地に日本軍開戦の噂が流れ、ユキノは身重の体で2歳になる娘をつれて夫より一足先に日本に帰国。

主な取材人物
・谷繁樹(福岡市在住。谷豊の14歳年下の実弟。谷工務店を経営する戸主。取材時60歳)
・ミチエ(福岡市在住。谷豊の2つ違いの妹。取材時72歳)
・ユキノ(福岡市在住。谷豊の6歳下の妹。取材時68歳)
・内野栄助(谷豊と小学校時代の同級生。小学校高等科卒業後、日本ゴムの工場に勤務)
・鈴木退三(1986年初の取材時84歳、民間出身のF機関員。広島市在住)
・小川平(和歌山県田辺市に住む移民史研究家。1986年初の取材時72歳)
・土持則正(元F機関員で元大尉。宮崎県都城市。1986年初の取材時70歳)
・山口源等(元F機関員で元中尉。
主な紹介人物
・谷浦吉(谷豊の父親。昭和6年(1931)12月末、53歳で死去)
・谷トミ(谷豊の母親。昭和33年(1958)8月に76歳で死去)
源三郎(谷豊の叔父)
・谷シズコ(谷豊の末妹。1927年生まれ、1932年11月、トレンガヌの店舗兼住宅2階で惨殺)
・藤原岩市(F機関機関長。1908年~1986年2月24日、元陸将、元第一師団長)
・田村浩(1894年~1962年、在バンコク日本大使館の武官で大佐。ハリマオ工作の発案者)
・芝儀一(バンナラでモー・チバという開業医兼薬局経営)
・神本利男(1905年~1944年、軍属、谷豊を説得し諜報員として引き入れた人物)
・米村少尉(F機関員の1人。ハリマオ工作を直接担当)

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