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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第13話 「委奴ー伊都ー伊豆」
- 2001/2/10
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「魏志倭人伝」の「伊都国」は「親魏」でなく「親呉」であった?三国時代の呉の滅亡による呉の遺民は?
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第13話 「委奴ー伊都ー伊豆」
かつて紀元前339年に越の国が楚に滅ぼされたとき、越の諸族はちりぢりに四散したが、それぞれ小さな国を作ってあるいは王を称しまた君を称して落ちついた後、楚の王朝に使いを贈って服属したことが『呉越春秋』に見えますが、倭の百余国の漢への遣使はこのような意味合いのものではなかったでしょうか。もとより漢にとっては歓迎すべきことであり、日本列島に移住した海人族・南越王国の遺民にとっても漢との平和を回復してほっと一息ついたものと思われます。
それからおよそ一世紀経った57年、漢は倭国の使節を通じて「漢委奴国王」の金印を倭王に贈りました。金印の文面からは委奴国の王を漢の皇帝に臣属する王に任じたことがうかがえます。それから半世紀後の107年、倭の面上国の王なる帥升が漢に使節を送った記録が残っています。
『魏志倭人伝』には伊都国の名が見え、「世々王有るもみな女王国に統属す」と書かれています。この「伊都」とは金印の「委奴」で「イト」と読むべきものと思います。おそらく57年の倭国の使節は国書を漢の皇帝に提出し、その中で自分の国を「伊都」と名乗ったのでしょうが、中華思想の悪い癖で漢は「委奴」の卑字を当てたものでしょう。ともあれイトの国王は卑弥呼の時代にもまだ王位を保っていたといいますから、約200年間にわたって漢の権威を掌握していたことは明らかでしょう。ではなぜ漢は数ある倭の国の中でイト国を選んで国王の金印を与えたのでしょうか。
おそらくそれは大船の造船・操船技術の中心地だったからではなかったでしょうか。北九州の沿海にあるイト国には中国の広州のように遺跡は発見されていませんが、南越王国に比すべき造船所があったとしてもおかしくありません。
『魏志倭人伝』を仔細に読むと、倭国はもと男子の王がいたが7-80年の統治の後、国が乱れたので女子を立てて王とし卑弥呼と名づけた、と書いてあります。男子の王とはイト国の王のことでしょう。また『魏志倭人伝』の冒頭部分に「今使訳通ずる所三十国なり」とあるところから、倭の三十国の王や君がそれぞれ魏に使節を派遣していたことがわかります。しかし中国側の体制から見て正式な国王とは「委奴国王」しかありません。魏は239年、卑弥呼に対して「親魏倭王」の金印を発給します。ここに倭国には漢の金印を持つイト国王と、魏の金印を持つ卑弥呼が並存することになりました。
『魏志倭人伝』はことさらにイト国王を無力な王のように書いていますが、ほんとうに無力だったのでしょうか。僕は「親魏倭王」という偏った称号に魏の無念さのようなものを感じるのですが。つまり、漢の金印を持つイト国王は、「親呉」だったのではなかったのでしょうか。イト国王は大船の船団を呉の海軍に参加させており、呉と同盟を結んだ朝鮮半島の公孫氏の国を魏が滅ぼしたときも、イト国王は微動だにせず、魏は他の倭王を使って親魏政権を立てざるを得なかったのではないでしょうか。
魏はその後、あまりたよりにならない卑弥呼を廃して、男王を立てましたが、倭人はこれに服さず大規模な殺戮事件が相次いでイヨ(またはトヨ)を立ててようやく国が治まります。男王とはイト国王ではなくおそらくは難升米のことでしょう。この野心的な男は殺戮事件の中で殺されたものと思われます。親魏政権は大変脆弱だったわけです。逆にいえば『魏志倭人伝』はほとんど無視していますが、イト国王の隠然たる力が働いていたのではなかったでしょうか。
255年のころ倭の使節がしばしば魏に派遣されていますが、親魏倭王イヨ(トヨ)の使節か、また三十国の中の国の使節か明らかではありません。しかしイト国王の使節ではなかったでしょう。
263年、魏が蜀を滅ぼし、さらに290年、魏に代わった晋が、南方の呉を滅ぼして中国を統一すると、倭国にも大変動が起こったものと思われます。呉の遺民が日本列島に押し寄せ、また呉の海軍に参加していた海人族の勢力も戻ってきますが、イト国はおそらく親魏の倭国に滅ぼされて、呉の移民・海人族の船団は北九州に上陸することができず、またイト国の遺民は伊豆の国に移住したのではないかと考えています。この話は次回に続けたいと思います。