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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第23話 「牛への感謝祭(1)」
- 2001/12/10
- コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」, 企画特集
牛にご馳走を振舞う壱岐・長崎県・山口県などに残る牛への感謝祭は、誰が日本にもたらした?
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第23話 「牛への感謝祭(1)」
中国の暦はいわゆる旧暦を『農暦』と言います。農事の基準にされた暦で、古い話になりますが、夏は農暦1月を正月とし、殷は農暦12月を正月とし、周は農暦11月を正月とし、そして漢は農暦10月を正月としたといわれています。タイに来たとき最初に驚かされたことは、タイには3つの正月があることで、まず日本と同じ太陽暦の正月、それから中国正月(春節)、それから4月のソンクラーン(俗にタイ正月)の3つでありました。さらに人によっては、毎年9月ごろになるサートタイの祭りの日がタイ族の本当の正月ではないか、ともいわれています。タイにも日本と同じく太陽暦の正月には年賀状を出す習慣があって、タイ語で俗にソー・コー・ソーと呼ばれています。これは「ソン・クワーム・スック(幸いを送る)」を略したものであると、タイ人たちは小学校で教わっているとのことです。
ところで人間の世界とは別に、動物の世界にも正月があります。日本では一部の地方にネズミの歳取りとか、ネコの歳取りとかいうものがあって、たとえば1月15日がネズミの正月元日、2月1日がネコの正月元日とされています。モノの本によれば牛の正月というのがあって、1月11日が牛の正月元日となっています。長崎県北松浦郡生月町では、この日、牛は身体を清められ、牛小屋は清掃されて、牛には赤飯と尾頭付きの魚が馳走され、また酒も飲ませられるという儀式が行なわれます。
牛に正月のご馳走を食わせる風習はほかの土地にもありまして、たとえば山口県佐波川上流のダムに水没した柚野村では、正月には牛にも雑煮を馳走したといわれます。また元日の日の牛小屋に寝ている牛の頭の方角が、その年の吉なる方角とされたといわれています。
壱州牛で有名な壱岐の島では、12月13日に牛の祭り(牛の祝儀)が行なわれ、牛を預かっている者は酒一升と赤飯をたずさえ、牛には新しい綱をつけて牛主の家にもうでるといわれます。
古代の日本人は白米ではなく赤米を作り、これは常食というよりも神饌用で、祭りの日には赤米と赤米で作ったドブロクを神にささげたという説があります。現代の日本人でもめでたいときに赤飯と酒で祝うのはこの名残でありましょう。赤飯は別に糯米に限ったものではなく、ウルチ米に小豆を入れて赤い色を取った俗に「アズママ」と呼ばれるものもあるのです。
となると長崎県北松浦郡の牛の正月に、赤飯と酒をふるまわれている牛は、さながら神としての扱いを受けていることになりますね。また山口県の佐波川上流にあった山村でも、正月に雑煮をふるまわれた牛は、また吉なる方角を告げる神でもありました。牛にふるまわれる馳走の食品からみて、こういう祭りを行なう民族は稲作民族であったことは疑うべくもありません。また長崎県北松浦郡の牛は尾頭付きの魚をそなえられていることから、稲作民族の中でもとりわけ魚を珍重する苗族やタイ系の水族などと結びつくセンも考えられないかと思います。
このごろは縄文時代にも稲作があったことが常識になっていますが、アジアの稲作民族の大先輩であるモン・クメール語族、タイ族それに苗族の人たちの小集団が何波にもなって列島に渡ってきたものと思われます。遠い昔に揚子江あたりにはモン・クメール語族の人たちが稲作を行なっており、また中国の戦国時代の呉は苗族の国で、越はタイ族につらなる越族の国であったと言われています。戦乱その他の原因によって彼らの一部が列島に逃れてきていることは疑うべくもないでしょう。
しかし『魏志倭人伝』に倭国には「牛馬なし」とあるように、当時の中国人がおさえていた北九州を中心とする倭国に関する知識(不思議なことに牛の感謝祭が残る壱岐・長崎県・山口県の町や村は、みなこの圏内に入る)からは、三世紀の倭国にはまだ牛が入っていなかったことがわかります。日本の牛の感謝祭は、それより後に列島に牛を連れて来た人たちによって始められたものと考えられます。