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- メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第21回「夫婦で暮らしたラオス」スローライフの二年間(菊地良一・菊地晶子 著)
メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第21回「夫婦で暮らしたラオス」スローライフの二年間(菊地良一・菊地晶子 著)
- 2004/4/10
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メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第21回「夫婦で暮らしたラオス」スローライフの二年間(菊地良一・菊地晶子 著)
「夫婦で暮らしたラオス」スローライフの二年間(菊地良一・菊地晶子 著、めこん、2004年2月発行)
<著者紹介>
菊地 良一(きくち・りょういち)
1939年東京生まれ。東京大学文学部卒業後、1963~96年NHKに勤務し、教養・教育番組のディレクター、プロデューサーとして多くの番組を手がける。93~95年、JICA専門家としてタイ国営テレビ・チャンネル11で番組制作指導にあたる。96~99年、放送大学学園勤務。2000~02年、ラオスでJICAシニア海外ボランティアとして農業普及番組の制作指導にあたった。菊地 晶子 (きくち・あきこ)
1944年東京生まれ。1966年日本女子経済短期大学卒業後、結婚。一人娘は91年に結婚。その後、夫とともにバンコクとビエンチャンでそれぞれ2年間の生活を送る。<本書著者紹介より、本書発刊当時>
本書は2000年6月から2002年6月までの2年間、ラオスの首都ビエンチャンで暮らした夫婦によるエッセイ。夫の方は、60歳を過ぎてJICA(国際協力事業団、現・国際協力機構)シニア海外ボランティアとしてラオスに赴任。ラオス農林省に配属され、農業普及テレビ番組の制作指導が仕事だ。夫人の方も、夫のラオス赴任に遅れること2週間、2年間留守にする日本での家の後始末を終えて、ビエンチャンに赴いている。本書の内容は、著者夫婦がラオスでの2年間にわたる見聞を書き記したもので、書き出しは、家さがし、契約交渉から、ドライバー、メイド、ガードマンの「助っ人さがし」と、海外赴任者の最初の大仕事の話だ。
著者夫婦が2年間生活する場所として決めた家は、幹線タドゥア通り7キロメートルのチョンペット村にあるレンタル・ハウス。ホテルや外人居住者が集まる場所ではなく、「せっかくラオスに住むからにはラオス人の中で生活したい」という思いから選んだ場所は、ビエンチャン郊外の村で家の近所もラオスの人ばかりという所。近所の家々の位置関係が記された菊地家の周辺地図も、住み始めた時と離任時点の2枚が巻頭に収められているが、この手書きの地図に現れているように、身近な風景・出来事や身の回りの人たちに対する著者夫婦のまなざしは親しく和やかだ。
本書を通読してまず感じるのは、2年間という、短くもある期間に暮らすことになったラオスという国、文化、人々に接する著者夫婦の接し方、向き合い方だ。郊外の村に夫婦で暮らしたということもあろうが、ラオスについて以前から詳しく慣れ親しんでいたわけでもないのに、よくここまで近所の人たちと親しく、また村や寺の行事をはじめとしたラオスのいろんな催事・習慣に関わっておられるなあと感心する。カオ・パンサー(入安居)、メコン河でのボートレース、タート・ルアン祭り、得度式、パーシー(新年、子どもの誕生、結婚、送別や歓迎、新築、病気治癒などに,親族をはじめ友人、近所の人々などが集まって幸福と繁栄を祈願するラオス独特の儀式)、オーク・パンサー(出安居)と灯籠流し、といった大きな行事だけでなく、市場での買い物、料理、自家用車の購入、タイのウドンタニへの車での買出し、ドロボー騒動と防犯対策、道普請などといった、日常的な諸事の話も興味深い。
著者は、縁あって暮らしたラオスを少しでも日本人に知ってもらいたい、ラオスへの理解と共感を覚えてほしいという思いからラオスでの2年間にわたる見聞を書き記したと本書あとがきで記しているが、ラオスのことを全く知らない人だけでなく、ラオスを旅したりしてある程度ラオスを知っている人にとっても、本書はいろいろと参考になるはずだ。旅行者・訪問者という立場ではなく、不慣れな外国人としてではあるものの生活者としてのラオスの郊外の村での暮らしについて記述があり、また「家の助っ人たち」や村の近所の人たち、職場で知り合った人たちやその家族など、本書に登場する今を生きるラオスの人たちの暮らしぶりがいろいろと紹介されている。
尚、本書のサブタイトルには「スローライフの2年間」とあるが、ラオスの魅力につながるこの点について、著者は本書あとがきで、以下のように書いている。
”・・・・ラオスには、日本人がどこかに置き忘れてきてしまった人情あふれる素朴な生活とゆったり流れる時間があるのです。いわば「スローライフ」の世界です。・・・・動物は、本来「必要な分」しか食べません。一方人間は、「もっと多く」と望み、その結果「環境破壊」、「人間性の喪失」などの問題を生み出しました。「スローライフ」とは、「多くを望まない」もうひとつの生き方なのです。ラオス人が、スローライフを意識しているわけではありません。それを当たり前のこととして実践しているのがラオスの人たちなのです。日本人にとって、ラオスは遠い国です。そこで、縁あって暮らしたラオスを少しでも日本人に知ってもらおうと、二年間にわたる見聞を書き記しました。ラオスへの理解と共感を覚えていただければ幸いです。・・・・”
村での生活の様子だけでなく、ビエンチャン観光の各所紹介や、ラオス滞在中に出かけたシェンクワン、ルアンパバーンへの小旅行記も掲載されている。ここまで読むと、著者夫婦の生活がただただ優雅で羨ましく思えるのだが、ラオスでののんびりした暮らしだけでなく、肝心のシニアボランティアとしての仕事についても、本書終盤の「第7章 TV番組制作」で、きちんと書かれている。ラオス農林省農業局の下部機関である農業普及庁の普及課「メディア」係で、農業技術の普及、教育を図るためのテレビ番組制作の指導にあたるわけだが、言葉の問題だけでなく、ヒト、モノ、カネがなく技術・経験・認識が異なる状況の中での技術協力が、そんなに簡単ではないということがよくわかる。
目 次
第1章 はじめてのビエンチャン
赤い街・水の街【R&A】/家さがし【R】/契約交渉【R】/村の我が家【R】/ボーペンニャン【R】/ 我が家の助っ人たち【R】/カオ・パンサー(入安居)【R】第2章 村の生活 -その1
ワット・チョンペット(チョンペット寺)【R】/モーニングコーヒー【R】/マダムの買い物【A】/ジャガ芋が消えた日【A】/ ノイさんの料理【A】/ マダムの料理【A】/ マダムの誕生日【R】/ 爆弾事件続発【R】/ 内戦の後遺症【R】/ 電話代【R】/ 自家用車購入【R】/ メコン川増水【R】/ ティアさん【A】/ ラッキーさん【A】/ ラッキーさんの親戚【A】/ ヤックくん【R】/ 菜園の収穫【R】/ タイへの買い出し【R】/ ボートレースの日【A】/ タート・ルアン祭り【R】/ 得度式【A】第3章 村の生活 -その2
朝の散歩コース【A】/ 夕方の散歩コース【A】/ 我が家の小動物たち【A】/ アナーマイ【A】/ 村の子どもたち ータコブの実【A】/ 村の子どもたち -ラオス語の先生【A】/ 新年のバーシー【R】/ スーカンさんの夢【R】/ ドロボー騒動【R】/ 我が家の防犯対策【R】/ 高校生と道普請【A】/ お盆のちまきづくり【A】/ 末子相続【A】/ オーク・パンサーと灯籠流し【A】第4章 ビエンチャン観光
タート・ルアン【R】/アヌサワリー【R】/ タラ・サオ【A】/ ワット・ホー・パケオ【R】/ ワット・シーサケート【R】/ 動物園【R】/ 岩塩工場【R】/ ナムグム・ダム【R】/ 陶器村【R】第5章 小旅行 -シェンクワン
ジャール平原【R】/ ワット・ピアワットの廃墟【R】/ クラスター爆弾の悲劇【R】/電気のない街【A】第6章 小旅行 -ルアンパバーン
古都ルアンパバーン【R】/ 大晦日の市【R】/ パレード【R】/ パバーン仏の渡御【R】/奉納舞い【R】第7章 TV番組制作
農業普及庁【R】/ 小型デジタル・ビデオカメラ【R】/ 月間予定表(ホワイト・ボード)【R】/ 時間厳守【R】/ 技術移転(番組の作り方)【R】/ ラオ国営テレビの「若き獅子たち」【R】第8章 さらばビエンチャン
我が家の年末年始【R】/ 秘書になったラッキーさん【A】/ お別れバーシー【R】/ 引っ越し【R】/ 空港で【A】あとがき
【R】は菊地良一、【A】は菊地晶子が担当。
■本書本文中で紹介されている観光地など
◆第4章 ビエンチャン観光
・タラート・サオ(朝市)・タート・ルアン ・アヌサワリー(記念塔) ・ワット・ホー・パケオ ・ワット・シーサケート ・絹織物の工房 ・カイソン博物館 ・国立博物館 ・ナムグム・ダム ・製塩(岩塩)工場 ・ビエンチャン動物園 ・陶器村(国道13号を北上し、7キロメートル地点を西へ2キロメートルほど入ったところにあるバーン・パカオ)◆第5章 小旅行 -シェンクワン
・県都ポーンサワン ・ジャール平原 ・石壺群「サイト1」 ・石壺群「サイト2」 ・旧県都ムアンクーン ・小高い山にそびえる仏塔 ・空爆の爆弾の跡 ・植民地時代のフランス出先機関の本館(土台のレンガだけ) ・ワット・ピアワット ・ダーオプアン・ホテル◆第6章 小旅行 -ルアンパバーン
・スワンナプームホテル ・ナンプー広場 ・王宮博物館 ・ワット・タートノイ ・ワット・シェントーン ・プーシー山 ・ワット・マイ