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メコン圏に関わる写真家:後藤 勝さん (1966年 生まれ)
- 2000/1/10
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1966年生まれ、今年34歳の写真家。97年度のカンボジア内戦の戦場最前線を取材。プノンペンを拠点とし、戦争の傷跡を撮りつづけているが、2000年6月一旦帰国した。『僕の戦場日記ーカンボジア』(めこん、1999年)の著者
〈2000年1月初出掲載、2000年6月更新〉
筆者が、後藤氏を知ったのは、1999年4月、東京・銀座ニコンサロンで開かれていた写真展「カンボジアー僕の戦場日記」を訪れた時だ。1997年7月に勃発したカンボジア内戦時の約1年にわたる取材の集大成作品展で、戦場最前線の迫力を伝える作品52点が展示されていた。
市街戦や戦闘シーンも驚くものばかりであったが、私が特に印象深かったのは、闘いに巻き込まれ、あるいは闘いの犠牲となった市民や兵士の悲しみの表情を写し出す写真であった。地雷で両手が吹き飛んでしまったが、政府や軍の援助無く生きてゆくためにゴミ捨て場をあさる兵士。戦火から逃れ安全を求め深い川の中を逃げまくる避難民。新婚間もない夫が砲撃で亡くなり死体の脇で泣き叫ぶ女性などなど。会場を訪れていた家族連れやカップルも、戦争の生々しい恐怖に加え、前線に立たされるあどけない少年兵や、砲撃を受け苦しむいたいけな少女に衝撃を受けていたようだ。
1960~70年代の時代ならともかく、今時の若い日本人が、このような危険きわまる戦乱の最前線に、何の保障も無いまま加わりつづけ、戦争の怖さ・むごさ・異常さを撮りつづけたこと、更に加えて言えば、安全な場所にいて戦争を指揮する政治家や軍高官の側ではなく、いつも戦争の犠牲になる前線の兵士や市民の傍にいつも身を置きつづけたということにも、私はこの若き写真家に強い興味を持った。
多くの戦闘の渦中にいて、何度も危険な目に遭ったはずで厳しく怖い顔の人物を想像したのだが、なんと、写真展の入り口受付に座っていた穏やかで人懐っこいカンボジアの若い青年のような若者が、後藤氏というではないか。カンボジア語を話すことでもあり、前線兵士や市民からもさぞ親しみをもたれたであろう。
この後藤氏は、1966年生まれで、今年34歳。愛知県名古屋市出身。高校中退後、沖縄に渡り、米兵相手のバーで働く。ただ自分の本当にやりたいことがわからず変化のない毎日にうんざりして、とにかく日本を飛び出したいと思っていたという。そんな17歳の時、『南ベトナム戦争従軍記』を読み、カメラマン岡村昭彦氏の存在を知り感銘を受ける。1989年(23歳)、アメリカに渡り、翌年からフリーカメラマンとして、エルサルバドル、ニカラグア、グアテマラなど中南米を放浪する。
カンボジアには、タイ国境付近で、政府軍とポルポト軍の激しい戦闘が続いていた1994年4月に初めて訪れ、戦闘の最前線を目指す。しかしながら軍の検問が厳しく、半年後の11月には、諦め、カンボジアを離れ、アメリカに一旦は戻った。しかし、カンボジアでの戦場での写真がどうしても撮りたく、後になってあの時やっておけばと後悔したくないとして、30歳を過ぎた1997年4月、再度長期の取材の覚悟で、カンボジアを訪れる。そして97年7月、フンセン派とラナリット派間で内戦が勃発した。その後、主にタイ国境の戦闘の激しかったソムラオング、オスマイチ、アンロング・ヴェングの戦地で写真を撮りつづけた。
一旦、日本に帰り、本の出版(『カンボジアー僕の戦場日記』めこん、1999年4月発行)や写真展などを行った後、アルバイトで取材活動費を貯め、昨年11月から、約1年ぶりに再びカンボジアに入っている。 最後に後藤氏から筆者宛の最近のメッセージの一部を紹介したい。
『約1年ぶりにカンボジアに戻り、市街戦の時に負傷した少女にも会いました。彼女はいまだに下半身に破片が残っているため、仕事ができず、「諦め」の表情をしていました。自分のカンボジアへの思い・スタンスは変わりません。今、カンボジアは、ビッグなニュースは無く、平和です。でも貧富の差や、人権問題、内戦の傷跡などが、見えにくいところに厳然とあります。それをフィルムに収めたいと思っています。戦争だけではなく、今まで自分が関わってきた人々が、現在どんな生活をし、何を必要としているのか、それを写真で追っていき、彼ら人々の声を伝えることが自分の仕事だと考えています。』