2000年1月号掲載

東・東南アジアと百越
ー 中国語書籍『従越人到泰人』(著・黄恵焜)から ー

 良諸文化や河母渡文化をはじめ水稲栽培を示す遺跡が、長江流域から雲南省までの範囲に広く分布していて、稲作の年代は紀元前5000年までさかのぼることが明らかになってきた。では、この文化圏の主人公は、どんな人たちだったのだろうか?

 1992年、雲南民族出版社から『従越人到泰人』(越人よりタイ人に至る)という題の本が出版された。黄恵焜なるこの道40年の教授が著した本である。教授は長江文化圏の担い手を『越人』と呼んで、そこから今のタイ系諸民族が出てきたという論を展開している。

 それによると、越人は稲を主食とし、イレズミをし、龍をなぞったボート競走の祭りを持ち、銅鼓を鳴らす人々であった。黄教授は、中国文明の受容の程度によって、越人が住んでいた地域を3つに分けている。

A型地区: 
江蘇省・浙江省・福建省・広東省に広がる地域の越人は、紀元前5世紀に長江の河口の南一帯に、『越』という強大な国を建てた時から、黄河流域の中国文明との接触が生まれた。この地区の越人のほとんどは、今日では中国文明を受容してしまった。

B型地区:
広西省・海南省・ベトナム北部・貴州省にひろがる地域の越人は、中国文明の影響を受けつつもなお独自の文化を残している。

C型地区:
雲南省西南部・ラオス・タイ中北部・ビルマ東北部・インドのアッサム地方にひろがる地域の越人は、インド文明の影響を受けて今日に至る。

 古代の『越人』の子孫が、今日のタイ人であるという黄教授の論説は、実に明快である。そしてその論を貫くタテ糸に、教授は「越人の歌」をとりあげた。『説苑』(善説篇)という本に、春秋時代の楚の君子が、越人が舟歌を歌うのを聴いて意味がわからなかった。しかし、なかなか聴かせる歌であったようで、その歌の文句を漢字で音写した話が載っている。そしてこの音写された漢字の羅列は、広西省のチワン語で解読することができ、また雲南省のタイ・ヌア語とタイ・ルー語でも解読することができることを紹介している。古代の越語の歌が現代のタイ諸語でわかるというのである。

 教授の本は、タイ人は越人の後裔であることを論じたものだが、また倭人についても一章さいている。教授は、倭人もまた『越人』の中から出たと言い、最も早く歴史書に倭人が現れるのは周の時代で、「倭人が王室に薬草を献じた」とある。教授は他の歴史書を引きつつ薬草の産地は広西省であったと言い、倭人はもともと広西省に一大拠点を持っていたと論ずる。倭人はその後、東へ進み、さらに北へ移動し、ついには海を越えて倭奴と呼ばれた。タイ人の起源が、越人につながり、日本人(倭人)の起源もまた越人につながることになれば、この方面の話題はますます面白くなってくる。

(江口久雄)

●良諸文化
長江デルタにある太湖を中心とした地域に発達した稲作を基本的経済基盤とする文化圏(紀元前3300~前2200年)。良諸文化は、その関係遺物が、1936年ごろ、浙江省余杭県良渚鎮一帯で発見されて知られたもので、その後も広域にわたって数多くの高度に発達した遺物の発見が相次いだ。

●稲作の起源
稲作の起源に関しては、いつどこで栽培され始めたかは、学界で議論の盛んなテーマであるが、最近では、中国の長江流域における考古学調査発掘の進展が目覚しい。1970年代の(かぼと)遺跡の発掘で、稲作の起源が少なくとも紀元前5000年以前にさかのぼることが明らかになった。そして1980年代に長江中流域において彭頭山文化などが発見され、河母渡文化よりも古く紀元前6000~7000年頃に稲作が行われていた証拠が把握されるようになった

●『説苑』
前漢時代の学者・劉向(前77~前6)が編纂した説話集。先秦及び漢代の書物から「天子を戒める」に足る遺聞逸事を採録したもの。

●黄恵焜
1935年生まれ、四川成都人。1958年雲南大学歴史学科を卒業。雲南大学、雲南省民族歴史研究所、雲南省東南アジア研究所で、勤務したり教鞭を取った。その後、雲南民族学院教授兼副院長と、雲南省民族研究所所長を務める。

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